バロックの作曲家といえば100人中90人がバッハの名を挙げる事でしょう。残りはヘンデル、パッヘルベル、ヴィヴァルディというところが入ってくるはずです。
少しクラシック音楽に詳しい方ならば、バッハについては生涯1000を超す作品を残した事や教会で働いていた事、『マタイ受難曲』『ロ短調ミサ』『無伴奏チェロ・ソナタ』などが代表曲であり、ご自身でも何枚かのCDを持っていると思います。
では、その他のバロックの作曲家についてはどうでしょうか。名前は聞いた事はあるが、それ以外は良く分からないという方が多い事でしょう。今回はバロックの作曲家についての基礎知識を勉強してみましょう。
音楽史上でのバロック
音楽史上で言えば、バロックとはルネサンス期と古典派の間に位置する時期を指し、17世紀から18世紀半ばの音楽の事を言います。
実際のクラシック音楽のルーツはルネサンス期の宗教音楽であり、バロックでは聖歌隊による歌の時代から器楽の時代へとその音楽性が確立されていくのです。
そう、バロックは器楽の時代とも言い換えられます。バイオリンを始めコントラバスまでの弦楽器、木管楽器、金管楽器、そしてティンパニまでもが用いられるようになります。
バロックはまだピアノが発明される前ですので、ハープシコード(チェンバロ)が通奏低音という形で活躍していました。弦を叩くのではなく弾く(はじく)楽器ですので、独特の音色です。
器楽の発達を受けて人間の喜怒哀楽を音楽で表現するようになってきます。そこで盛んになったのがオペラでした。オペラの歴史はクラシック音楽の中でもそれだけ長いのです。
勿論、オペラだけではなくオーケストラが発展したり、弦楽四重奏曲などの室内楽も発展していきます。国王、貴族たちは自分のオーケストラを持つ者も現れ、晩餐会、舞踏会などが催されるようになっていくのです。
コレッリ
生誕年月日:1653年2月17日
死没年月日:1713年1月8日
死没年齢:60歳
出身国:教皇領(現在はイタリア)
コレッリについて
この時代のイタリアではストラディバリやアマーティなどの有名なヴァイオリン製作者が優秀な楽器を製作していた時期に当たります。
コレッリも当初ヴァイオリン奏者として頭角を現しました。イタリア最初の著名なヴァイオリン奏者と呼ぶに相応しい存在でした。彼以降のイタリアのヴァイオリニストは誰もが彼の影響を受けたと言っても過言ではありません。
コレッリは若い頃から音楽の成績が優秀で、17歳でボローニャのアカデミア・フィラルモニカに正会員として迎えられます。このアカデミアには20歳以上でないと正会員にはなれない決まりがありましたが、特例として認められるほどの才能でした。
その後は良きパトロンに恵まれ、教会のオーケストラの楽長などを努め、幸せな音楽生活を送ったようです。
しかし、現在まで残る音楽は数少なく、80曲程度と言われています。この数の少なさは彼が死に際し、発表されている作品以外は処分してくれと言い残したためです。
バロック研究者たちからは残されている音楽の完成度の高さが指摘されており、その点でも特異な作曲家と言えるでしょう。
コレッリの代表作
『ヴァイオリン・ソナタ』作品5(全12曲)から『ラ・フォリア』
パッヘルベル
生誕年月日:1653年9月1日(受洗)
死没年月日:1706年3月9日(埋葬)
死没年齢:52歳
出身国: 神聖ローマ帝国(現在ではドイツ)
パッヘルベルについて
1653年にワイン商の家庭に生まれました。洗礼日はわかっていますが誕生日は不明です。幼い頃から音楽の才能に恵まれ、1677年宮廷オルガニストに就任しています。
J.S.バッハの兄の家庭教師としても知られており、優れた教師でもありました。そのため、幾人もの教え子たちが彼のもとに集まったようです。
宮廷オルガニストを離れてからも、ドイツ、オーストリア各地の教会のオルガニスト、作曲家として活躍しました。当時のドイツのオルガン奏者としては超一流として認められ、その腕は高く評価されています。
彼の器楽曲は宗教曲に限らず、200曲以上あり、また声楽曲でも100曲以上の作品を残しました。最も有名な作品といえば20世紀になって出版された『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ』の1曲目です。
流石にバロック時代の作曲家で現在まで忘れ去られた時期がない作曲家はいません。かのバッハでさえそうですから、他の作曲家もしかりです。しかし、こうして復活してくる作曲家自体少数派で、音楽史の中に埋もれてしまった作曲家の方が多いでしょう。
パッヘルベルの代表曲
『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ』からカノン
トレッリ
生誕年月日:1658年4月22日
死没年月日:1709年2月8日
死没年齢:50歳
出身国:ヴェネツィア共和国(現在ではイタリア)
トレッリについて
やはりこの時代のイタリア音楽家はヴァイオリニストが多いようです。トレッリも作曲家であり、ヴァイオリニストでした。
1684年に、ボローニャのアカデミア・フィルアルモニカの会員となります。その後、ヴァイオリニストとして活躍する一方で作曲も行い、合奏協奏曲という分野を開拓しました。
また、現在の協奏曲の原型もトレッリが形作りました。急ー緩ー急という3楽章構成になったのも彼の功績のようです。
トレッリが指揮者を務めていたサン・ペトロニオ教会にはトランペットの名手がいたそうで、そのトランペット奏者のために多くの作品を残しています。
トレッリの代表曲
『トランペット協奏曲』
パーセル
生誕年月日:1659年9月10日?
死没年月日:1695年11月21日
死没年齢:36歳
出身国:イングランド共和国
パーセルについて
現在でもイギリスで最も優秀な作曲家として知られています。フランス風とイタリア風の様式を取り入れ、独自の音楽様式を作り出しました。
ヘンデルもいるではないかと言う声も聞こえてきそうですが、元々彼はドイツ人であって、帰化してイギリス人となった人物ですので対象外なのです。
18歳の若さで王室弦楽団の常任指揮者・作曲家、21歳でウェストミンスター寺院のオルガニスト、更に王室礼拝堂のオルガニストにも就任しました。
様々なジャンルの作品を残し名声を高め、宮廷音楽家まで登り詰めます。しかし、36歳の若さで世を去りました。原因は結核ともいわれていますが、不明です。
パーセルは職場であったウェストミンスター寺院で永遠の眠りについています。
36歳という若さで亡くなったにもかかわらず、生前に作曲した作品数は400曲を超えるほど多作家でした。特に英語のオペラ『ディドとエネアス』はバロック期の最高のオペラとも言われています。
パーセルの代表曲
『アブデラザール組曲』から第2曲 ロンド
どこかで聴いた事があると思った方も多くいるでしょう。ベンジャミン・ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』で変奏曲の主題になっている楽曲です。
ヴィヴァルディ
生誕年月日:1678年3月4日
死没年月日:1741年7月28日
死没年齢:63歳
出身国:ヴェネツィア共和国(現在ではイタリア)
ヴィヴァルディについて
ヴィヴァルディあたりからバロックも後期となります。ヴィヴァルディは生涯で800曲以上の作品を作り、当時の人気作曲家でした。協奏曲は500曲以上、オペラも50曲以上作曲した多作作曲家だったのです。
職業として司祭を選んだため、教会での生活を長く経験しましたが、喘息のため体が弱く、ミサを行えない程でした。そのため、ミサをすることのない在俗司祭になる事を許されます。
このため、彼は音楽の生活に没頭できるようになりました。ピエタ慈善院付属音楽院の教師となり、子女たちに音楽を教える傍ら、作曲をするようになっていきます。
良きパトロンに恵まれた事もあり、オペラや器楽曲など完成させると、直ぐに上演できるような環境にありました。地方への演奏旅行もかなり行っています。
旗色が変わったのは、パトロンを失ってからの事です。その頃にはイタリア音楽の流行の変化もあり、ヴィヴァルディの人気も衰え、晩年は失意に打ちのめされるようにして亡くなりました。
ヴィヴァルディの音楽が見直されたのは20世紀に入ってから『四季』(『和声と創意の試み』の第4曲まで)の流行があったためでした。
ヴィヴァルディの代表曲
ヴァイオリン協奏曲集『和声と創意の試み』から夏の第3楽章
テレマン
生誕年月日:1681年3月14日
死没年月日:1767年6月25日
死没年齢:86歳
出身国:神聖ローマ帝国(現在ではドイツ)
テレマンについて
テレマンの作品数をご存知でしょうか。彼は生涯何と4000曲以上の作品を作曲したと言われています。クラシック史上最も作品数が多い作曲家なのです。
確かに86歳まで長生きした事もプラスに働いたのでしょうが、それにしても4000曲以上とは凄いものがあります。
この記録は当然「ギネス記録」認定です。20世紀から楽譜の整理が始まっていますが、その作業は21世紀中にも終わらないだろうと言われています。
12歳で作曲を始めたようですから、仮に総数を4000曲とすると、1年で54曲平均で作曲していたことになります。オペラやカンタータなど時間の掛かるものもあるでしょうから、ほぼ週1曲仕上げていたというのは驚異的です。
当時のテレマンは貴族たちだけに人気があったのではなく、一般聴衆にまで愛された音楽家でした。現在では考えられませんが、バッハなどはテレマンと比較して相当地位が下に見られていたのです。
40歳から亡くなるまでハンブルク市の音楽全体の面倒を見る要職につき、歌劇場や音楽院、教会などを指導し、ハンブルクの音楽上の立場はヨーロッパ随一と評されるほどでした。
テレマンが行った事はこれだけではなく、予約をとっての作品の販売、連載音楽雑誌の発刊など音楽史上初めての事にも手を出すなど、商売上手な面も見せています。
テレマンの代表曲
『無伴奏ヴァイオリンのための12の幻想曲』から第5番
ヘンデル
英語名:ジョージ・フレデリック・ハンドル(George Frideric Handel)
生誕年月日:1685年2月23日
死没年月日:1759年4月14日
死没年齢:74歳
出身国:神聖ローマ帝国(現在ではドイツ)
ヘンデルについて
ドイツで大学まで過ごしますが、その後イタリアで4年ほど過ごしました。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリと訪れ、各地で楽曲を作りその地で人気となります。
その後、ドイツに戻り1710年にハノーファー選帝侯の宮廷楽長に任命されますが、イギリスのロンドンに旅行し、その地で作曲したオペラ『リナルド』が大ヒットとなりロンドン大好き人間になってしまうのです。
ドイツに帰国後5ヶ月後にロンドンを拠点とするために再び渡英しました。宮廷楽長の仕事がありましたが、その事よりもロンドンを拠点として活動する事が彼にとっては重要だったのです。
1714年にハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として就任する事になります。ヘンデルは宮廷楽長の仕事を疎かにしていたため何か罪に問われるかもしれないと恐れていましたが、ジョージ1世(ハノーファー選帝侯)はその事を寛大に扱ってくれたのです。
名曲の『水上の音楽』はこのジョージ1世のテムズ川での船遊びを盛り上げるために作られたものです。
1727年2月20日には晴れてイギリス国籍を取得し、イギリス人として活躍していきます。正式にはこの時から「ハンドル」さんになったわけです。
ヘンデルとして一番幸せだったのはこの頃までかと思われます。その後はロンドンでのオペラの不人気ぶりやオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」の問題、そして脳卒中で一時半身不随になったりしていたのです。
そんな中で、1741年のオラトリオ『メサイア』の成功は嬉しかったと思われます。久々のスーパーヒットを彼にもたらしました。
1749年に『王宮の花火の音楽』が彼にとっての最後の見せ場で、その後は目の疾病が酷くなり、手術を受けますがついには失明してしまいます。
ヘンデルの一生は幸せそうに見られていますが、後半生については辛い事も多くあったのです。
ヘンデルの代表曲は何と言ってもオラトリオ『メサイア』ですが、その他にも我々が知っている作品があります。日本での表彰式に使われる曲は『ユダス・マカベウス』中の合唱曲「見よ、勇者は帰る」です。絶対聴いた事があるはずです。
ヘンデルの代表曲
オペラ『セルセ』から「オンブラ・マイ・フ」
otomamireには以下の記事もあります。お時間があればどうぞ御覧ください。
バッハ
生誕年月日:1685年3月31日
死没年月日:1750年7月28日
死没年齢:65歳
出身国:神聖ローマ帝国(現在ではドイツ)
バッハについて
いよいよ真打ち登場です。ヘンデルと同じ年に生まれています。何度か会う機会を作った事は分かっていますが、結局1度も合う事なく生涯を終えました。
西洋音楽の基礎を確立した作曲家として「音楽の父」といわれていると小学校で習いましたが、現在でもそう教えているのでしょうか。
バッハは偉大ですが自分で革新的な事を行ったわけではないのです。それまでのルネサンス音楽、バロック音楽の統合を試みた人物というのが一番正しい説明かなと思います。
バッハは1度も国外へ出たことはありませんでしたが、イタリアの音楽、フランスの音楽、イギリスの音楽などの研究を行っていました。各国の音楽文化の違いを研究していたのです。
そこでバッハは気付きます。みんなの良いところだけを取り上げてひとつのものを作り上げればもっと音楽は素晴らしくなるのでは、と。
それを成し遂げたのがバッハの大功績なのです。バッハを研究する事はそれまでの音楽の集大成を学ぶ事と同じ意味になるわけで、まさに「音楽の父」にあたります。
対位法やらポリフォニーなどの言葉を使わず、物凄く簡単に表現しましたが、こう書くとすんなりと納得してもらえるのではないでしょうか。
モーツァルトもベートーヴェンもバッハの音楽を学びました。それ以降の作曲家たちもバッハ研究を行っています。
バッハは教会音楽に生涯を捧げました。ですから、彼の作品には当時流行していたオペラがありません。宗教曲としてオペラは相応しくなかったからです。
それでも作曲した作品は1000曲を超えています。毎週行われるミサに使うミサ曲や讃美歌、教会カンタータなどの作曲に追われながら、オーケストラや合唱の練習をし、時にはオルガンを弾く日もありました。
1749年、64歳の彼は脳卒中で倒れます。奇跡的に回復しますが、元々悪かった目の病気が悪化して、視力をなくしました。翌年、2度、目の手術を行いましたが、回復には至らず、その事が原因で亡くなってしまいます。
ヘンデルも目の手術を行っていますが、バッハと同じ眼科医だったということです。2人共に手術は失敗して失明していますから、ヤブ医者だったのか、当時の医療では治せなかったのか、お気の毒に思います。
バッハの代表曲
バッハ『管弦楽組曲第3番』から第2曲(G線上のアリア)
otomamireには以下の記事もあります。お時間があればどうぞ御覧ください。
スカルラッティ
生誕年月日:1685年10月26日
死没年月日:1757年7月23日
死没年齢:71歳
出身国:ナポリ王国(現在ではイタリア)
スカルラッティについて
ナポリ王国とは現在のイタリアのナポリ地域です。面白い事にスカルラッティもヘンデル、バッハと同じ年に生まれています。バロックの3巨匠が同じ年生まれとは神も粋なはからいをしてくれたものです。
スカルラッティの父も音楽家で、アレッサンドロといい、イタリアでは名だたる音楽家でした。親のコネもあり、15歳で父が楽長を務めるナポリ王室礼拝堂のオルガニスト兼作曲家に就任します。
スカルラッティとヘンデルは鍵盤楽器の腕前を競い合ったというエピソードをご存知でしょうか。場所はローマ、チェンバロとオルガンの両方の楽器でどちらが上手か対決しました。
聴衆の軍配はチェンバロは引き分けだったが、オルガンはヘンデルの演奏を聴いたスカルラッティが自分が弾く前に負けを認めたそうです。
なるほどねと納得するところですが、この話は作り話と判明しました。同じ歳の人気のある二人はチェンバロもオルガンも上手いが実際どちらが上なのだろうと興味を持った人々が作り出した架空の対決だったのです。
どうして、バッハは蚊帳の外なのと思う人もいるかも知れませんが、この時代はまだバッハの名は音楽家として浸透していませんでした。片田舎の教会のオルガニストと思われていたのです。バッハという名前すら知らない人の方が多かったでしょう。
1719年、35歳のスカルラッティに転機が訪れます。ポルトガルの王室礼拝堂の音楽監督に任命されたのです。35歳になったばかりの彼はその年にポルトガルに赴任しました。
ポルトガルではバルバラ王女の音楽の教師にもなっています。この事がまた彼の運命を変える事柄になるのです。
1729年、バルバラ王女がスペインの皇太子に嫁ぎましたが、この時彼もスペインへと随行しました。彼は生涯バリバラ王女(後のスペイン女王)に仕えスペインでその生涯を終えたのです。
スカルラッティがバルバラ王女のチェンバロの練習のために書いた作品は500曲以上にもなりました。彼の作品の8割は王女のためのものだったのです。
スカルラッティの代表曲
チェンバロ独奏用単一楽章ソナタ「ト短調フーガ」(Kk.30、L.499)
タルティーニ
生誕年月日:1692年4月8日
死没年月日:1770年2月26日
死没年齢:77歳
出身国:スロベニア
タルティーニについて
『悪魔のトリル』の作曲者と言った方が分かりやすいでしょうか。タルティーニはバロックの作曲家だったのです。
タルティーニの両親は息子が僧侶になる事を望んでいました。本人もそのために大学に入りその気でいたのですが、愛人を作り駆け落ち事件まで起こしてしまいます。
そんな事件を起こしてしまったタルティーニは追われる身になってしまい、アッシジの聖フランシスコ修道会に逃げ込みました。修道会は一種の治外法権の場で、追われる人間でも安全に過ごす事ができました。
タルティーニは聖フランシスコ修道会にいる間、ヴァイオリンの勉強に励むのです。勉強する環境と本人のやる気が合致し、彼はこの時期にある程度までのヴァイオリンの技術を収めるのでした。
それから6年後、タルティーニはフランチェスコ・マリア・ヴェラチーニというヴァイオリニストの演奏を聴き、如何に自分のヴァイオリンが拙いものかを悟ります。
それを打破するためにタルティーニはアンコーナという街に移り住み、自室に籠もって一層ヴァイオリンの研鑽に励むのでした。『悪魔のトリル』もこの時期の作品と言われています。(諸説あり)
1721年(29歳)にタルティーニはパドヴァのバシリカの聖アンソニー教会の楽長に任命されました。彼はその後の49年間生涯にわたってこの職を務めまたのです。
1728年(36歳)にタルティーニはパドヴァにヴァイオリン学校を創設、ヴァイオリンを学ぶための体系的な方法を確立します。ヴァイオリニストのための学校など珍しく、ヨーロッパ中から生徒は集まってきたようです。
タルティーニも音響学に興味を持ったりして、その後論文なども発表しています。ヴァイオリンに徹底して拘った人生を歩んだタルティーニだったのです。
作品の99%がヴァイオリンのための音楽。ヴィオラ・ダ・ガンバのための作品1曲とフルートのための作品を2曲作った以外は全てヴァイオリンのための音楽であり、ここまでひとつの楽器に拘った作曲家は他にはショパンぐらいでしょうか。
ただし、これは出版された作品の話で、未発表の作品では『合奏協奏曲』や『シンフォニア』などもかなりの数に登ります。当時の流行りの作品も作っていたのです。
発表しなかった作品は何のために作られたのか、また、タルティーニは作品に番号も振らず、ましてや日付など一切書き込んでいないため、作品の年代を確定させるのも、研究者を悩ませる大きな要素になっています。
タルティーニの代表曲
タルティーニ『ヴァイオリンソナタト短調』「悪魔のトリル」
otomamireには以下の記事もあります。お時間があればどうぞ御覧ください。
まとめ
バロックの人気の作曲家を10人取り上げました。生年順に見てきましたが、バッハを持ってバロックは終わりではなかったのです。
余程バロックが好きな方なら別でしょうが、多くの方はここに挙げた作曲家を覚えるぐらいで十分かと思っています。しかし、バッハは別です。聴くべきものはしっかりと聴いておくべき作曲家のひとり!
音楽史上ではバッハが西洋音楽の源を作ったとなっていますが、他の天才たちがいた事がそれを生み出す要因ともなっていたのです。西洋音楽の形を整えたのはバッハひとりの力ではなかった事がよくわかります。