ベートーヴェンには何人かの弟子がいましたが、そのうちの一人に私設秘書も兼ねていたアントン・シンドラーという男がいました。彼は取り巻きの一人として働いていたようです。
シンドラーはベートーヴェンの死後、『ベートーヴェン伝』を出版しました。しかし、その内容には多くの捏造があり、後のベートーヴェン研究者及び愛好家がこの誤った情報に惑わされました。
シンドラーの大罪はこの著書によって、捏造された嘘があたかも真実のように世間に広まった事です。シンドラーの人物像やベートーヴェンに関する捏造された事例などを紹介して行きます。
アントン・シンドラーについて
1795年チェコで生まれ。1813年にウィーン大学で法学を学び、一時期は法律事務所で働いていました。法律を諦め音楽に目覚めた彼は、1822年秋にヨーゼフシュタット劇場の第1ヴァイオリニストとなります。その頃にベートーヴェンのピアノの弟子になったようです。
彼は弟子だけではなく兼務で秘書も務めるようになります。ベートーヴェンからはあまり信用されていなかったようで、関係が破綻したこともありました。しかし、最後までベートーヴェンの身の回りの世話を引き受けたのは彼だったのです。
ベートーヴェンの死後『ベートーヴェン伝』を出版しました。第1版は全世界でベストセラーとなり、第3版まで出版されています。この著書こそ後の時代のベートーヴェン研究に大きな影響を及ぼすものとなりました。ベートーヴェンに関する捏造された記録が書かれていたのです。
シンドラーの捏造がわかるまで
ベートーヴェンに関する捏造事件は、ベートーヴェン没後150周年の1977年まではっきりとした研究がなされませんでした。ただ、シンドラーの証言は疑わしいという風評があったのみです。彼のせいで真実のベートーヴェン像及び作品の解釈が変わりました。
シンドラーの『ベートーヴェン伝』
ベートーヴェン亡き後13年の1840年に『ベートーヴェン伝』を出版しました。ベートーヴェンを最後まで世話したのは自分であって、彼の事はどの弟子よりも知っているとの触れ込みでこの著書を出版したのです。
ベートーヴェンは当時ではスーパースターでしたから、シンドラーの著書は評判となり、全世界で読まれました。内容を全面改訂した第3版まで出版されるような人気本となったのです。こうして世界にシンドラーの捏造による誤ったベートーヴェン像が伝わっていったのです。
捏造発覚まで150年
シンドラーの『ベートーヴェン伝』はどうも眉唾ものらしいという風潮は出版当時からあった事は事実です。ですが、ベートーヴェンの近くに居た者以外はそれを知るすべはありませんでした。ベートーヴェンに関する情報は『ベートーヴェン伝』しかなかったのです。
150年経った1977年までシンドラーの大罪は証明されませんでした。当時の東ドイツの国立図書館の研究チームが数年にわたってベートーヴェンの会話帳を徹底的に分析し、その結果としてシンドラーによるベートーヴェンに関する捏造事件がようやく発覚したのです。
シンドラーの大罪
1977年の国際ベートーヴェン学会にて明らかとなった事実は以下のようなものでした。シンドラーの大罪がはっきりと世界に発信されたのです。
2.『ベートーヴェン伝』における数々の有名エピソードのでっちあげ
3.「無給の秘書」ではなくベートーヴェンは給料を払っていた
4.秘書の期間は14年とされているが、実際は5年ほど
5.「運命の主題」の捏造
シンドラーの犯した罪と『ベートーヴェン伝』の嘘
今まで、シンドラーの人物像や捏造発覚までの過程を見てきました。これからはその罪の内容と影響、そして『ベートーヴェン伝』の偽りのエピソードの主だったものを見ていきます。
1977年の国際ベートーヴェン学会で明らかになった事柄を順を追って考察していきます。貴重な資料を捏造したシンドラーはとうに亡くなっていますが、如何に愚かな事をしたか、如何にペテン師だったかが伝わって来る筈です、
会話帳の廃棄・改ざん
シンドラーの犯した罪の中で最も大きいものはベートーヴェンの会話帳の廃棄・改ざんです。ベートーヴェンは耳が聞こえなくなった晩年の9年間、筆談用のノートを使っていました。これが世にいうベートーヴェンの会話帳です。
会話帳の廃棄
ベートーヴェンの会話帳は全部で400冊程度あったと考えられています。現存するのは139冊。そのうち137冊がベルリン国立図書館に所蔵されており、一部がアーカイブとして公開されていて実際の会話帳を見る事が出来ます。ベートーヴェンの会話帳が見たい人は>>>こちら
なぜ139冊しか現存しないのか。それはシンドラーが自分に不利な内容のものを全て廃棄したためです。ベートーヴェンが偉大になったのは自分の存在があったためだと主張するために、不都合な部分を大半捨ててしまいました。シンドラーの罪の最大のものです。
会話帳の改ざん
会話帳の廃棄も許せない罪ですが、シンドラーは残った会話帳に自分に都合の良い事を勝手に書き加えています。明らかになっただけで、何と数百もの加筆及び改ざんが認められているのです。
それまでの間、残された資料で様々なベートーヴェンの研究本が出されてきました。しかし、会話帳を資料として参考にしていたものも多く、誤ったベートーヴェン像が作られてしまったのです。
『ベートーヴェン伝』におけるエピソード捏造
『ベートーヴェン伝』はベートーヴェンに関する捏造のオンパレードです。会話帳の捏造・改ざんによって証拠を作り上げ、あたかもベートーヴェンが自分だけに話してくれたようにでっち上げたわけです。『ベートーヴェン伝』の中で有名な捏造事例を挙げていきます。
『テンペスト』の由来
『ピアノソナタ第17番』についてのエピソードも伝記に書かれています。シンドラーが「この作品はどのように解釈したらよいのですか」とベートーヴェンに尋ねたところ、ベートーヴェンは「シェイクスピアの『テンペスト』を読め」と答えたそうです。
このエピソードから『ピアノソナタ第17番』は『テンペスト』と呼ばれるようになりました。『ベートーヴェン伝』の影響はことのほか大きかったのです。
不滅の恋人
ベートーヴェンは「不滅の恋人へ」というラヴレターを書いたにもかかわらず、ずっと机の中に隠していました。ベートーヴェンの死後、そのラブレターが発見され、「不滅の恋人」探しが始まります。そこでもまたベートーヴェンに関する捏造が行われました。
シンドラーは『ベートーヴェン伝』の中で「不滅の恋人」はジュリエッタ・グイッチャルディであると断定しています。このラヴレターが書かれたのは1812年である事は分かっており、1822年からベートーヴェンの秘書になったシンドラーはこの恋愛を知る由もないのです。
交響曲第7番
『交響曲第7番』第2楽章のテンポについて、ベートーヴェンが「速すぎる」と不満をもらし、アレグレットより遅い「♩=80」を付記しようと考えたとの記述があります。この話の続きをシンドラーは捏造します。
「そうしたらイ長調の交響曲の第2楽章は♩=80で演奏するべきですか」とさもその時に自分が書いたように、ベートーヴェンの死後に会話帳に加筆しました。ベートーヴェンと自分はその時にそう話していた、そう見せるための改ざんです。
交響曲第8番
『交響曲第8番』の第2楽章は軽快な音楽で我々を楽しませてくれますが、シンドラーは「これはメトロノームの発明者メルツェルに贈った『タタタ、カノン』を基に作られた」と書いています。しかし、これもベートーヴェンに関する捏造のひとつである事が分かっています。
このカノン自体もシンドラーが第2楽章を真似して作曲した作品であることが判明し、現在ではベートーヴェンの作品ではないと完全否定されています。ベートーヴェンの創作行為そのものに対しての真実がねじ曲げられる事はシンドラーの罪深いところです。
ピアノソナタ第27番
『ベートーヴェン伝』によるとベートーヴェンにこの作品について質問すると、「第1楽章は理性と感情の争い、第2楽章は恋人の会話」と語ったとされています。勿論これもシンドラーの創作です。恐らく2人の間にはこんな会話は無かったはずです。
シンドラーがさもこんな質問をしたように会話帳を改ざんしたのです。自分はベートーヴェンに信頼されていたから作品に関してもなんでも教えて貰っていたと思わせたかったのだと思います。自己満足のための嘘の記述です。
無給の秘書という捏造
ベートーヴェンとの出会いは、ウィーンの学生だった頃とシンドラーは書いていますが、これも嘘の話です。現在では、ベートーヴェンの弁護士の事務所で働いていた事が2人が関係を持ったきっかけではないかと考えられています。
シンドラーは自分は無給でベートーヴェンに奉仕していたと書いていますが、実際は給料を貰っていました。これも、自分はこんなにも自己犠牲を払ってベートーヴェンに尽くしているのだというアピールをするための捏造です。
秘書の期間の捏造
『ベートーヴェン伝』の中に秘書として14年間ベートーヴェンを支えてきたとありますが、これも捏造という事が分かりました。実際には1822年にベートーヴェンの元に来たようです。ベートーヴェンが亡くなったのが1827年ですから実際は5年ほどとなります。
ベートーヴェンと初めて会ったのが1814年といわれていますから、シンドラーはそこから数えて秘書になったと嘘を書いたわけです。音楽家でもあったシンドラーは長く楽聖ベートーヴェンに仕えていた事を誇りたかったのでしょう。
「運命主題」の捏造
ベートーヴェンの『第5交響曲』は日本では「運命」と呼ばれていますが、これもシンドラーが伝記で書いた事に由来します。この作品の解釈にまで関わるような嘘を会話帳に書き加えたためです。ベートーヴェンに関する捏造は作品解釈までも影響を及ぼしています。
なぜ「運命」と呼ばれるのか
シンドラーが「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問をベートーヴェンに投げかけました。これに対しベートーヴェンは「このように運命は扉をたたく」と答えたというエピソードから「運命」という標題が広まったのです。
因みに弟子のツェルニーは「あの冒頭のモチーフはキアオジという鳥の鳴き声だ」とベートーヴェンから教わったといっています。キアオジは「チチチチチー」と鳴く鳥で、散策好きのベートーヴェンが森の中で聞いた事はかなり信憑性が高そうです。
ベートーヴェンの弟子たちはシンドラーを全く信頼していなかったので、音楽の都ウィーンではこの説は否定されてきました。だから、ヨーロッパ全体にも「運命」という標題は広がらなかったのです。
シンドラーの改ざんと日本
彼が書いた『ベートーヴェン伝』が日本にも入ってきた時点では、シンドラーが嘘つきという事までは伝わらず、翻訳された書物が日本に広まりました。ですから、これ以来、日本では『交響曲第5番』を「運命」と呼ぶようになりました。
作品の性格が本当に運命に立ち向かうかのような構成だった事も手伝って、日本では「運命」という呼び名が広まります。また、レコード会社も作品に標題が付いていた方が売れ行きがいいからという理由で、今でもその呼び名が通用しているのです。
シンドラーはなぜ捏造を行ったのか
ベートーヴェンを取り巻く弟子たちの中で、シンドラーは最も信用の無い人物でした。ベートーヴェン自身も手紙の中で彼の悪口を書いています。そんな事もあって、自分の信頼度は最も高かったと評価されたくて捏造に踏み切った点が第1の理由だと思います。
第2の理由はベートーヴェンの名誉を守るためです。シンドラーはベートーヴェンが天才だったと思っていました。だからこそ、天才としてベートーヴェンを描きたかったのです。後世の人にも作曲家としての理想像を追求したスーパースターであってほしかったのだと思います。
ですから、ベートーヴェンのイメージを悪くする様な出来事に関しては闇に葬るしかなかったのです。彼の理想像に適さない事実は全て排除が必要でした。彼の気持ちはよく分かりますが、だからといって会話帳の廃棄や改ざん、事実の捏造は許す事は出来ません。
まとめ
シンドラーによって150年に渡りベートーヴェン像が歪められてきたことが良く分かりました。1977年まで分からなかったなんて、ベートーヴェン研究者と称する学者たちも何を研究してたのやら。一次資料自体に捏造がある事を見抜けなかった事に落胆の色を隠せません。
シンドラーの捏造は発覚しましたが、そのためにベートーヴェンの価値が下がる事は全くありません。エピソードの多くが捏造である事が分かってもベートーヴェンが残した素晴らしい作品の数々はいまなおクラシック音楽界の宝です。そしてベートーヴェンが偉大である事は今後も変わる事なく「事実」だけが語り継がれていくものでしょう。