ベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』はメンデルスゾーン、ブラームスの協奏曲と共に「世界三大ヴァイオリン協奏曲」と呼ばれています。チャイコフスキーを加えて「四大」、さらにシベリウスも入れて「五大」とする資料もあるようです。
この5つの『ヴァイオリン協奏曲』はどれもが素晴らしい作品ですが、ベストといわれればやっぱりベートーヴェンです。『ヴァイオリン協奏曲』の中でベートーヴェンのものは他の作品を凌駕しているといっても間違いではないでしょう。
ベートーヴェンは生涯で1曲しか『ヴァイオリン協奏曲』を作曲しませんでした。ベートーヴェンにとってはヴァイオリンよりもピアノに愛着があったためなのでしょう。今回はこの作品を取り上げて紹介したいと思います。
ヴァイオリン協奏曲の王者
ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲』は1806年に作曲されています。詩人ロマン・ロランが言うところの「傑作の森」の中の1曲です。1806年はこの協奏曲以外にも『交響曲第4番』、『ピアノ協奏曲第4番』、『弦楽四重奏曲第7番~第9番』を世に送り出しました。
おそらく世界で最も愛されているヴァイオリン協奏曲だと思います。「ヴァイオリン協奏曲の王者」と呼ばれる事もあるほどです。錚々たるヴァイオリニスト達が録音を行なっています。ハイフェッツやオイストラフ、ムターなどの天才たちが録音を残してきました。
曲調はベートーヴェンの穏やかな部分が溢れており幸福感に包まれるような音楽です。「苦難を乗り越えて歓喜へ」というような勇猛果敢な音楽ではなくて、穏やかさを保ったベートーヴェンがそこにいます。ベートーヴェンにとっては珍しい作品です。
ベートーヴェンはピアノと違ってヴァイオリンが得意でなかった事も関係があるのかもしれません。ベートーヴェンのヴァイオリンと管弦楽のための作品は合計3曲あり、他には2曲の小作品「ロマンス(作品40および作品50)」があるだけです。
『ヴァイオリン協奏曲』解説
ベートーヴェン中期を代表する傑作の1つです。この作品が作曲されたのは、友人でヴァイオリニストでもあったフランツ・クレメントの依頼によります。クレメントは、アン・デア・ウィーン劇場のコンサートマスターを務めているほどの名手でした。
全体としては威圧的な部分は少なく、ベートーヴェンの穏やかな側面を代表する作品となっています。ベートーヴェンの作品の中でも最もメロディアスで幸福感に溢れた親しみやすい作品といえるでしょう。世界で最も愛されるヴァイオリン協奏曲の理由がここにあります。
作品が書かれたのは、ベートーヴェンの人生の中で「傑作の森」と呼ばれる充実した時期なのですが、その中でも特に大きな存在感を持った曲となっています。この曲はカデンツァを除くとヴァイオリンの技巧を派手に誇示するような箇所が少ないのも特徴です。
とは言っても演奏が容易という訳ではなく、むしろヴァイオリニストにとっては大変難しい楽曲として知られています。そして45分を超える長丁場であることもヴァイオリニスト泣かせです。特に第1楽章の長さはモーツァルトの交響曲1曲ほどもあります。
第1楽章
第1楽章だけで25分位の大作です。まるで交響曲を聴いているようなイメージがあります。『交響曲第3番「英雄」』の第1楽章は大河が悠々と流れるような壮大な音楽ですが、この作品の第1楽章も実に悠々と伸びやかに書かれているのです。
斬新な音楽
『ヴァイオリン協奏曲』とはいえ、最初の3分30秒ぐらいまではソロヴァイオリンが出て来ません。私が初めてこの作品をレコードで聴いた時、第1曲目は何か序曲でもあるのかなと、思わずレコードの解説を見たぐらいです。初心者にありがちなあるあるですね。
最初はティンパニの「トントントントン」という軽い連打で始まります。なんて斬新な入り方なのでしょう。この音形は弦楽器、管楽器問わずいたるところで出てきます。とてもやさしい温和な音楽です。ベートーヴェン特有の音楽の作り方となっています。
ひとしきりオーケストラだけで演奏後、3分半頃、ようやく主役のソロヴァイオリン登場です。主役が登場して伸び伸びとテーマを弾き、ソロヴァイオリンのための音楽が奏でられます。聴く度にやっと出て来たねという感じを受けるのは私だけでしょうか。
旋律の美しさ
哀愁たっぷりのソロヴァイオリンが顔を出したり、また前奏と同形に戻り同じテーマを繰り返したり、楽章後半に置かれたカデンツァがあり、その後は第2テーマが出てきて気持ちよく終わります。どれを取ってもこれぞ傑作としか形容出来ません!
誰が書いたカデンツァを演奏するかもまた楽しみのひとつでもあります。ベートーヴェンがピアノ協奏曲用に編曲したものには彼自身が作曲したカデンツァが残っているので、これを演奏する人も時々いるようです。最も有名なのはヨアヒムのものでしょう。
第2楽章
協奏曲のセオリー通りの変奏曲。変奏しながら演奏を繰り返す緩徐楽章です。いくら最先端を行くベートーヴェンでも伝統には逆らえませんでした。前にも書いたようにベートーヴェンはヴァイオリンが得意ではなかった事に寄る事も大きいのかもしれません。
変奏の美しさ
テーマが変奏されながら演奏されていきます。どれも皆美しいメロディです。こういった大曲の第2楽章目の緩徐楽章は眠くなるパターンが多くある物ですが、この曲はそんなことを感じさせない音楽です。本当に甘美な音楽が展開されていきます。
クラリネットとホルン、それにファゴットなどとソロヴァイオリンが絡みあい音楽は美しく進行していきます。ヴァイオリンが短いカデンツァを演奏した後で途切れずに第3楽章に突入します。このカデンツァはベートーヴェン自身が作曲しました。
第3楽章
ソロヴァイオリンの素敵なメロディで、第2楽章から途切れなく第3楽章に入ります。ベートーヴェンはそれまでの協奏曲の伝統を引き継ぎ第3楽章は「ロンド形式」です。「傑作の森」の中でも音楽史上に残る傑作ですが、形式的には冒険はしていません。
楽しい第3楽章
第2楽章とは一転して楽しいメロディで第3楽章が始まります。小気味良い音楽です。オーケストラとの掛け合いも見事で思わず音楽に引き込まれます。飛び跳ねるようなちょっとユーモラスなテーマとオーケストラの掛け合いが楽しい感じです。
終曲に向かって
途中哀愁を込めたメロディも登場してきますが、またテーマが戻り快活な音楽に戻ります。雰囲気がパッと明るくなる感じです。ソロヴァイオリンとオーケストラの色々な変奏があり、カデンツァの後はこの楽しい音楽も最後は駆け抜けるように爽快に幕を閉じます。
すんなり終わらないところもまたベートーヴェンらしいところです。楽曲が終わるのがさも名残惜しいように感じられます。この辺が交響曲的に聴こえる理由なのでしょう。ベートーヴェンの天才的な音楽の締めは完璧な形となっています。
初演について
初演の日、演奏会ぎりぎりまでベートーヴェンはまだこの作品を完成させられず、ヴァイオリニストのクレメントはほぼ初見でこの難曲を見事に演奏しました。クレメントの名人技に聴衆は大喝采を挙げましたが、作品自体の評価は低かったようです。
不評を買った初演
『ヴァイオリン協奏曲』の初演は、1806年12月23日アン・デア・ウィーン劇場にて、フランツ・クレメントのヴァイオリン独奏により演奏されました。しかし、作品に対する音楽関係者の評価は芳しくなく、演奏会としては失敗でした。
初演の不評の要因は作品が長すぎた事です。第1楽章だけで25分を越え、全部で45分以上の大作。当時にすれば協奏曲がこんなに長大な事はありえませんでした。ハイドンやモーツァルトの作品を聴いていた聴衆には不評なのも当たり前です。
新聞では「前後のつながりがなく、支離滅裂」、「平凡な箇所が繰り返される」、「関係なく重ねられた大量の楽想」と酷評されています。作品に対しての評価は厳しかったですが、クレメントの演奏だけは聴衆の大喝采を浴びました。
その後の変遷
当時の協奏曲は華やかでヴィルトゥオーゾを楽しむものでしたので、人々にとっては新し過ぎたのかもしれません。結局ベートーヴェンの生きている間にはこの作品の人気は高まらず、初演後は40年の間に数回しか演奏されなかったそうです。
この作品を再び採り上げ、「ヴァイオリン協奏曲の王者」と呼ばれるまでの知名度を与えたのは、ヨーゼフ・ヨアヒムの功績です。ヨアヒムはこの作品を最も偉大なヴァイオリン協奏曲と称し、生涯亡くなるまで演奏しています。
ヨアヒムは1831年生まれのヴァイオリニストです。ベートーヴェンの死後に生まれたヨアヒムが大ヴァイオリニストになったからこそ、この作品は脚光を浴びたのでした。ヨアヒムがいなかったらずっと忘れ去られていたかも知れなかったのです。
まとめ
『ヴァイオリン協奏曲』はベートーヴェンとしては珍しく攻めていない音楽です。とても余裕があって穏やかな音楽となっています。『運命』のように緊張感溢れる音楽ではなくて、温厚なベートーヴェンが顔を出している珍しい作品です。
ベートーヴェンの懐の深さが良く分かります。こんな面もあるんですよというところを見せてくれました。ソロヴァイオリニストには大層難しい曲ですが、聴くこちら側にとっては感動間違いなしの傑作です。復活させてくれたヨアヒムに感謝しましょう。