レナード・バーンスタインが亡くなったのは1990年10月14日ですから、もう30年以上も昔の事になります。カラヤンが亡くなった翌年にバーンスタインの悲報を聞いて、これで本当のカリスマ指揮者がいなくなってしまったと感じたのがつい昨日の事のようです。
考えてみるとバーンスタインのコンサートを聴いた方たちは最低でも40代後半以上になっているわけで、今の若いクラシック愛好家があんなに凄い指揮者の演奏を聴けなくなった事はある意味不幸とも言えるのではないかと思います。
バーンスタインのコンサートを私は東京で2度聴きましたが、どちらも彼の演奏した音楽が耳に残っていて忘れられません。それほど見事な演奏をやり遂げたコンサートでした。
今では録音や映像でしかバーンスタインの演奏を味わえなくなりましたが、彼の凄さが伝わる演奏が多く残っている事が救いです。
実際にその演奏に接した者は、バーンスタインの素晴らしさを後世に伝える義務があるように思います。バーンスタインの芸術を振り返り、彼の偉大さをもう一度確かめてみましょう。
バーンスタインの簡単なプロフィール
バーンスタインは1918年8月25日、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州に生まれました。ハーバード大学、カーティス音楽院で音楽を学び始め、指揮はフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事、作曲はウォルター・ピストンに師事します。
バーンスタインを一躍有名にしたのは、ブルーノ・ワルター急病の代役としてニューヨーク・フィルを演奏した事でした。この日はラジオ放送もあったため全米にこの演奏が中継され、一夜で人気指揮者となったのです。
1958年、アメリカ生まれの指揮者として初めてニューヨーク・フィルの音楽監督に就任、ニューヨーク・フィルの黄金時代をもたらしました。
ニューヨーク・フィルの音楽監督を1969年に辞任してからは特定のオーケストラのポストには就かず、ウィーン・フィルなど主にヨーロッパのオーケストラを指揮するようになります。
1990年、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を立ち上げ、後進の指導にもあたりましたが、同年病気を理由に指揮者を引退しました。しかし、その発表のわずか5日後の10月14日に肺がんのために亡くなります。72歳の生涯でした。
バーンスタインは何が凄かったのか
バーンスタインはアメリカ初の国際的指揮者でした。彼が巨匠として現在でも評価されている理由はどの辺にあるのかを考えて見たいと思います。
ニューヨーク・フィルとの演奏を聴いて
私が初めてバーンスタインのコンサートを聴いたのが1979年のニューヨーク・フィルとの来日公演でした。
メインはショスタコーヴィチ『交響曲第5番』。この演奏はライヴ・レコードとして発売され、名盤との評価もされています。
バーンスタインが得意な作品でもあり、ニューヨーク・フィルの底力が出た魅力的な演奏でした。指揮台で飛び跳ねる指揮者を初めて見て、その指揮姿に驚いたものです。
イスラエル・フィルとの伝説のマーラー
しかし、もっと驚かされて腰を抜かしたのが1985年のイスラエル・フィルとの来日公演でした。このコンサートで私はバーンスタインの本当の凄さを実感したのです。
9月8日のNHKホール。私は2階の右側の席でその演奏を聴きました。この日この場所に居られた事がどれだけ幸せだったか、筆舌に尽くしがたいものがあります。
あの夜の演奏は私が聴いたマーラーの『第9番』の中で最高のものでした。CDも含め未だにこれだけ感動した演奏には出会えていません。
ひょっとすると、日本で演奏されたマーラーの『第9番』ではこれが最も優れた演奏だったのではないかとも思っています。
恐るべき衝撃的な響きや弦の分厚さ、まさにマーラーのどぎつさから美しさまでも見事に表現された演奏だったのです。マーラーらしい濃い演奏が、響きの貧弱なNHKホールであるはずなのに、そのまま生々しく我々に伝わってきました。
バーンスタインはマーラーという作曲家に過剰にのめり込み、まるで自分の作品であるかのように指揮を行い、まさに壮絶で強烈な演奏となったのです。
最終楽章の最後の音が止んでから拍手が沸き起こるまでの長い沈黙は、それまでに味わった事のないものでした。そこにいた聴衆は感動に包まれていたのです。演奏家と聴衆が一体になって感動していました。
バーンスタインの凄さの最大のものは、指揮をしているうちに神がかりのようになって、作曲家と一緒になって音楽を奏でる事ができる指揮者だったという点かと思います。
音楽に入り込んで自分が解釈した通りにぐいぐいと聴衆を引っ張って行ったのです。
バーンスタインの音楽性
バーンスタインの音楽はとてもロマンティックであって、そして情熱的であり躍動感に満ちたものです。それが指揮姿に現れています。バーンスタインは録音の数も多くありますが、ライヴの指揮者だと言われる所以はそんなところにあるのです。
指揮者が指揮台の上で飛び跳ねたり、肩だけを使ってリズムを取ったり、全身を使って指揮する姿は、彼だけのものでした。
そうしないとオーケストラに伝わらないからそうしている訳ではなく、音楽に対する情熱があまりに強すぎて必然的にそうなってしまうのだと思います。
過剰なばかりのエネルギーを持った情熱家であり、それを直接的に表現した音楽家でした。だからこそ聴衆は彼の音楽やテンポの動かし方に驚愕し、音楽の本質を目の前に晒しだされて納得し感動したのです。
カラヤンのようなカリスマ性もあれば、バーンスタインのようなカリスマ性もあり得るのだと思います。
ウィーン・フィルとの出会いはバーンスタインにとってとても幸運でした。彼の音楽性を上手く引き出し、お互いにとってウィン・ウィンの関係となった事は大きかったと思います。
バーンスタインの築き上げた音楽性をウィーン・フィルで存分に発揮できたのです。
人間バーンスタイン
バーンスタインはとても人との関係を大切にした人でした。小澤征爾や佐渡裕のバーンスタインとの思い出話を読んでいると、まるで彼らの兄貴のような存在であり、喜びも悲しみも一緒になって共有してくれる人だったようです。
弟子たちだけにそうした訳でなく、オーケストラの団員たち、舞台の大道具さんでも誰でも同じ態度で接していました。
ニューヨーク・フィルの音楽監督時代にはオーケストラの練習は普通の人も自由に見学できたらしいですし、在任中には誰一人首を切らなかったといいます。とてもオープンで人情味溢れる人だったのです。
話し好きで、人と会っている時の沈黙を非常に恐れたといいます。話題には事欠かないほど豊富で、頭の回転の良さも手伝って絶えず場が盛り上がりました。
ジョークも好きな人でした。アメリカ人の典型的な理想像を地で行ったような人だったわけです。それが彼の音楽にも反映されています。人を引きつける魅力に満ち溢れた人物でした。
バーンスタインは誰からも親しみを持って「レニー」という愛称で呼ばれていました。こんな指揮者をご存知ですか。多くの指揮者は絶対に愛称で呼ばれる事はありません。
いかにバーンスタインが多くの人々から愛されていたかが分かる事例です。
カラヤンとバーンスタイン両方の弟子であった小澤征爾は、カラヤンの事を先生と呼び、バーンスタインの事はレニーと親しげに呼んでいました。
「カラヤン先生には食事に誘われると緊張したが、レニーから誘われると気軽に応じられた」とも言っています。この事はレニーの人柄の全てを物語っているようです。
バーンスタインとマーラー
ウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集もレベルの高いものでしたが、バーンスタインがマーラーを指揮すると誰にも真似できない音楽になります。
バーンスタインは自身でも語っているように、マーラーの音楽は「自分で書いたような気がしてくる」思いがあったようです。
バーンスタインもユダヤの血が流れている人でしたから、特にマーラーの音楽は特別に感じたのかもしれません。
マーラーの書いた音符のひとつひとつが何の説明も要らずにすんなりと身体に吸収されていったのだと思います。同じ民族の共通的な息遣いとか感覚が呼び覚まされたのでしょう。
マーラー演奏には特別な思いを寄せて望んだものと思います。バーンスタインのマーラーには聴いていてしんどさが増すような重々しい演奏が多いのも、マーラーの音楽の深いところに入って演奏しているためなのですね。
今日、マーラーがこれだけ演奏されるきっかけとなったのは、バーンスタインのおかげでもあるのです。
指揮者としてのバーンスタイン
指揮者としてのバーンスタインは今まで取り上げてきた事を読んでいただけれれば、ある程度分かって貰えると思います。
バーンスタインはカラヤンと同時代に活躍したカリスマ指揮者です。カラヤンとはまるで違った音楽性を持ち、その指揮ぶりも静と動の代表のように異なるものでした。
バーンスタインは指揮台でのアクションと同じで、情熱的、躍動的な音楽を繰り広げたのです。
ニューヨーク・フィルの音楽監督時代はセッションでの録音がほとんでしたが、教科書的で面白みがないと言われた事もあります。
ライヴで大汗を流しながら渾身の演奏を行っているバーンスタインは、レコードでの彼とは全く違って、実に活き活きとした音楽を聴かせているのです。
ヨーロッパでの活動が多くなってからのバーンスタインは、録音の多くがライヴ・レコーディングとなった事も納得がいきます。
ニューヨーク・フィルの音楽監督は11年間務めましたが、その間にテレビを利用して、ヤング・ピープル・コンサート(YPC)と称して、子供や初心者にも分かるクラシック音楽講座のようなものを行っていました。
そこでは子供向けの音楽を演奏したわけでなく、大人が聴くものと区別せずに、音楽の基礎的な解説を行ったのです。
1970年代からウィーン・フィルの定期公演に登場するようになってからのバーンスタインは、何にも縛られない自由な音楽を演奏するようになりました。
ウィーン・フィルとの相性はとても恵まれたようです。この事はバーンスタインにとっても幸せな事だったと思います。
作曲家としてのバーンスタイン
ニューヨーク・フィルの音楽監督を辞めた理由は、作曲業に専念したかったためです。そうは言っていましたが、その後作品が多くなったかといえばそうでもありませんでした。
ただ、音楽監督という非常に多忙な仕事から開放されたかったというのが本当のところではなかったかのではないでしょうか。
作曲家としてのバーンスタインは交響曲を始め、ミサ曲などがあり、現代作曲家としては現在でも評価が高いものがあります。
しかし、何と言ってもミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』が最も有名な作品です。
この作品の中の『トゥナイト』や『アメリカ』はクラシックファンならずとも知られている楽曲となっています。
バーンスタイン自身は『ウェスト・サイド・ストーリー』のバーンスタインと言われる事を大変嫌っていました。
あまりにもそのイメージが付き纏わリ、バーンスタインと言ったら『ウェスト・サイド・ストーリー』の作曲家とされるのに困惑したためでしょう。
自分は作曲家として交響曲から様々なジャンルに渡って作曲しているという自負があったため、ミュージカル作曲家として限定されたくなかったと思われます。
バーンスタインの没後に彼の作品が再評価され、ミュージカル作品のみならず、交響曲作品もコンサートのプログラムに登る事が増えてきました。
・交響曲
第1番『エレミア』(1942年)
第2番『不安の時代』(1947年-1949年/1965年改訂)
第3番『カディッシュ』(1963年/1977年改訂)
・ミュージカル
『オン・ザ・タウン』(1944年初演)
『ワンダフル・タウン』(1953年初演)
『ウエスト・サイド物語』(1957年初演)
『キャンディード』(1956年初演/1989年最終改訂)
・オペラ
『タヒチ島の騒動』(1952年)
・ミサ曲
『歌手と演奏家、踊り手のためのミサ曲』(1971年)
若者たちへの情熱
バーンスタインは先に述べたように、ニューヨーク・フィルの音楽監督の時代に、「ヤング・ピープルズ・コンサート」(YPC)という子供向けの音楽解説の企画を立ち上げ、音楽の面白さをテレビを通して子供たちに語りかけました。
テレビ時代が始まった社会において、そのメディアを上手く活用して、クラシック音楽の裾野を広げるような企画をタイムリーに登場させたのです。
この企画が興味を持って捉えられたのは、専門家でないと分からない事柄を簡単に解説してくれる事に需要があったからだと思います。
聴いてみると音楽って簡単な作り方がされていて、難しい事ばかりではなく意外と面白いと感じる子供たちが多かったと思うのです。
バーンスタインにはそれが大事な事だと分かっていたのだと思います。
最晩年になって始めた、若い音楽家のためのパンパシフィック音楽祭(PMF)を発足させた事も、自分が知っている音楽の知識をできる限り伝えたいと思ったからでしょう。
若き才能のある音楽家にはそういうプロのアドバイスが必要な事を知っていたのです。バーンスタインは若者たちへの教育をとても大事に思っていたのでした。
残念な事にバーンスタインはPMFを最初の年だけしか指揮をできませんでしたが、PMFは現在でも続いていて、彼の蒔いた種は確実に実になっていると思います。
まとめ
バーンスタインの何が素晴らしくて凄かったのかを辿ってみました。ニューヨーク・フィル時代のバーンスタインも彼の若さが良いように引き出されていましたが、ウィーン・フィルとの出会いは幸運だったのだと思います。
後期の映像を見ていると、バーンスタインが自由奔放に音楽をやっているのが分かりますし、ウィーン・フィルがそれを受け止めて楽しみながら演奏していました。
そこで残されたライヴ・レコードの数々はバーンスタインの音楽性の凄さが存分に発揮されたものだったわけです。
バーンスタインは特にマーラー演奏に関してはマーラーが乗り移ったような演奏をしていました。人間の内面性を十分に表現しているマーラーです。彼のマーラー演奏は永遠に聴き継がれていくでしょう。
人間的にも魅力がいっぱい詰まった人でした。我々はバーンスタインという巨匠指揮者を忘れる事はありません。永遠のスーパースターです。