ブラームスはバッハ、ベートーヴェンと並び「ドイツ三大B」と呼ばれます。ここには彼らの後継者という意味も含まれているのです。果たしてブラームスはそれだけ偉大な作曲家だったのでしょうか。
バッハは「音楽の父」、ベートーヴェンは「楽聖」などと冠がありますが、ブラームスには何もありません。ベートーヴェンが切り開いた古典派の音楽を守り続けた作曲家、言い換えると超保守的な作曲家という評価しか思いつきません。
ブラームスの評価に係わる要素、ベートーヴェンの亜流との評判に戦ったブラームスの哀れさが関係しています。ブラームスは新しいものを何も生み出していないのです。だからこそ冠が付けられなかった作曲家であったのでした。そんなブラームスの生涯を振り返ってみます。
生い立ち
1833年5月7日にドイツ、ハンブルクに生まれます。彼の父は市民劇場のコントラバス奏者でした。最初に音楽の手ほどきを受けたのはこの父からといわれています。7歳からは本格的な先生に付き才能を開花させていきます。
先生は彼の才能に気付き、ピアノと作曲法を学ぶため別の先生を紹介します。しかし、一家の暮らしは豊かでなかったため、13歳から夜の居酒屋やダンスホールなどでピアノを弾き家計を助けました。
成人してからも稼ぎがいいからといかがわしい場所でのアルバイトなども経験しました。その頃から酒に溺れた生活を送るようになります。若い頃のブラームスは自分のやりたい事を好き放題やっていたようです。周りからは変わり者扱いされていました。
作曲家を目指す
おとなしく引っ込み思案でしたが、意志の強さは持っていたようです。ピアノで食べていくのは自分より上手いピアニストがいて無理だと思い、次に作曲家として生きていこうと決心します。こんなところもブラームスらしさが表れています。変わり者だったのです。
ブラームスは完璧主義者だったため、五線譜に書いては捨て、また書いては捨てを繰り返しました。ですから、若き日の作品は全く残っていません。スケッチの類いさえ残っていないところを見ると、その頃の作曲は全く意にそぐわないものだったのでしょう。
ブラームスの転機
1853年、ハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、その旅の間にジプシー音楽に触れた事が、その後の創作活動に大きな影響を及ぼしました。民族音楽を作品の中に取り入れるようになったのです。
演奏旅行の途中で、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムに会いに行きます。ブラームスはヨアヒムから絶賛され、ぜひフランツ・リストに会う事を勧められました。ブラームスはワイマールまでリストに会いに行きましたが、そこで大失態を演じてしまいます。
こんなところにも変わり者のブラームスが出ています。恐らく独特の雰囲気に耐えかねずに、酒でも飲み過ぎたと思われます。だから、大事な人物に会いに行ってこんな大失態を引き起こしたのでしょう。
クララとの出会い
ブラームスはヨアヒムの勧めもあって今度はロベルト・シューマンを訪問します。この両者の出会いこそ、ブラームスの運命を決定付けたものでした。シューマンはブラームスの演奏を聴いて、称賛し、それに留まらずに音楽誌にも発表してくれたのです。
シューマンの奥さんでピアニストでもあったクララとも親しくなり、その友情はシューマンが亡くなって以降も、末永く続きました。シューマンは精神疾患を患い、自殺まで図ります。ブラームスはその時も妻のクララを支え、子供たちの面倒まで見ました。
シューマンの状態は良くならないまま亡くなります。子供たちのために生活費を稼がねば亡くなったクララの演奏旅行に付き合い、様々な面倒を見てやるのでした。
ブラームスは人付き合いが苦手で本心を素直に語るのが不得手でした。しかし、クララとの関係が上手くいったという事は、彼にとって安心できる特別な相手だったと思います。ブラームスは初めてそんな女性に巡り合えたのです。クララへの偏愛は生涯続きます。
ウィーンを本拠地に
1871年、39歳のブラームスは音楽の都ウィーンへ本拠地を移します。作曲家ブラームスの名も浸透してきた頃を見計らって、準備万端の行動でした。『ドイツ・レクイエム』などの評価が高まり、名実ともに一流作曲家として認められたのです。
この当時のブラームスはウィーン楽友協会や各地での指揮活動、出版社からの収入など、かなりの年収を得るようになりました。ですから、シューマン亡き後のクララと子供たちの面倒も経済面からも援助出来たのです。
シーズン中は仕事に振り回され、本業の作曲に没頭できず、作曲の仕事は主に夏の保養地で行われるようになりました。しかし、交響曲の作曲は、ベートーヴェンを意識するあまり、なかなかペンが進まなかったのです。完璧主義のブラームスにとって、ベートーヴェンは巨大な壁でした。
ついに交響曲完成
名声を獲得したブラームスでしたが、交響曲を作曲するのはまだまだ時間を待たねばなりませんでした。『交響曲第1番』が完成するまで、ウィーンに移ってから10年、着想から完成まで何と21年もの歳月を要したのです。
一つの作品に21年間も掛かったのはギネス記録ものです。22歳で交響曲を書こうと思ってから、完成したのは43歳でした。こんなに完成まで引きずった原因は彼の完璧主義のためです。偏屈で変わり者だったのですね。
指揮者のビューローへの手紙には「ベートーヴェンという巨人が背後から行進して来るのを聞くと、とても交響曲を書く気にはならない」と書かれています。交響曲を書くのだったらベートーヴェンに肩を並べる様なもので無くてはならないという決意が伺えます。
晩年
この録音で老いを感じたブラームスは翌年、引退を考えます。しかし、クラリネット奏者の演奏を聴いたブラームスは創作意欲が戻り、クラリネットを使った数曲を作曲します。この頃、日本の琴の音を聴き、興味を持ったことも伝えられています。
1897年、68歳のブラームスは肝臓がんで亡くなりました。酒の飲みすぎが原因と考えられています。前年に親友であったクララも亡くなりました。まるで、支える人の最後を見届け、安心して旅だったようにも思えます。
人柄を理解するためのエピソード集
まとめ
ブラームスは何ともつかみどころのない人物でした。人柄も良いのか悪いのか計りかねます。変わり者だったという事は確かだったようです。彼が幸せだったのかどうかも良く分かりません。でも、クララと出会った事は彼の人生において最高の出来事だった事は良く分かります。