
ブラームスはベートーヴェンを意識したあまり、最初の交響曲を発表するまでに何と21年もの時間を要しました。
ベートーヴェンが作曲した9曲の交響曲を知った者にとって、これらの交響曲を超えるものを生み出せるかと悩んだことは想像に余りあります。
特にブラームスはドイツ人という事もあり、その葛藤は大きいものだった事でしょう。しかし、その結果としてブラームスは傑作を生みだす事ができました。ブラームス『交響曲第1番』について纏めました。


交響曲第1番概説
冒頭からして重厚な響きのこの作品は、紛れもなくドイツの音楽であり、ブラームスがベートーヴェンの後継者として交響曲を作曲したものだと高らかに宣言した作品といっても良いでしょう。
作品の構造も骨格がしっかりしていて、実にダイナミックであり、どっしりと土台が作られ、ちょっとやそっとで崩れる事のない作りをしています。
ベートーヴェンの亡霊に悩まされ続けたブラームス渾身の1曲であり、自身も交響曲作曲家としての仲間入りを果たした自信作でもありました。
この第1番を発表するまでに実に21年の歳月を要しています。これだけやれば、ベートーヴェンとは別物として認識されるだろうという思いがこの楽曲を聴くこちらにまで伝わってくるようです。
誤解を恐れずに書けば、この交響曲は「暗」から「明」へと移り変わる大変分かりやすい作品で、この事が人気を生み出している大きな要素であると思います。
分かりやすいと書きましたが、作品自体はブラームスらしく非常に緻密に作られています。
交響曲の構想
ブラームスは交響曲を作曲しようと決心しますが、ベートーヴェンの交響曲の後にどのような作品を書けばいいのか非常に悩み苦しみます。
産みの苦しみ
1855年、22歳のブラームスはシューマンの『マンフレッド序曲』を聴き、交響曲を作曲する事を決心します。決心はしたもののブラームスにはベートーヴェンという大きな壁が立ちはだかっていました。
ブラームスはベートーヴェンへの傾倒が激しく、ベートーヴェンの音楽に絶対的なものを感じており、交響曲は勿論の事、管弦楽曲でさえ、その発表に関しては非常に慎重にならざるを得なかったのです。
ブラームスは指揮者のハンス・フォン・ビューローにこんな内容の手紙を送っています。「ベートーヴェンという巨人が背後から行進して来るのを聞くと、とても交響曲を書く気にはならない」。
徐々に前進
1858年(25歳)には『2台のピアノのためのソナタ』を交響曲にしようと手を加えますが、うまく行かず断念します。しかし、このときのアイデアは『ピアノ協奏曲第1番』の第1楽章に生かされました。
1868年(35歳)に『ドイツ・レクイエム』を完成させ、ブラームスの名声は高まりました。交響曲を期待する声も大きくなっていきます。
1873年(40歳)で『ハイドンの主題による変奏曲』を完成させ、管弦楽曲に対して自身を持つようになり、翌年から、交響曲第1番の作曲に本格的に取り組み始めました。
ついに完成
1876年(43歳)、ついに『交響曲第1番』が完成します。構想から実に21年、交響曲を作曲するという夢が叶ったのです。推敲に推敲を重ねた作品でした。
初演は同年の11月4日になされましたが、評論家たちの反応は良いものではなかったため、ブラームスは改訂を加え、1877年に決定稿を出版しました。
その後、『交響曲第1番』の評判はよく、ハンス・フォン・ビューローは「ベートーヴェンの第10交響曲だ」として高く評価しています。最大の褒め言葉としてビューローはこういったのでしょうが、当のブラームスはこの呼び方が気に入らなかったと言われています。
自分の作品を他の人の名を持って呼ばれるのですから、考えてみれば当然の話です。


第1楽章
序章には「Un poco sostenuto」、主要部には「Allegro」という演奏記号が付けられています。「Un poco sostenuto」は「少し音を保って」、次の「Allegro」は「快速に・陽気に」という意味となります。
21年の思いを込めたような気合の入った楽章です。冒頭から力こぶ丸出しのような意気込みが伝わってきます。この楽章は実にハイテンションの音楽です。ベートーヴェンを意識している事が良く分かります。
この重々しい緊張感はこの楽章を通じて一貫してしています。ベートーヴェンを超えてみせるという気迫が籠った音楽です。
長い序奏を終え、オーボエが素敵な響きを奏で、それらを各楽器が受け、ティンパニの一振りで、主要部に入っていきます。途中「タタタターン」というリズムが出てきますが、これは明らかにベートーヴェンを意識したものでしょう。
最後まで手に汗するような緊張感が持続した第1楽章です。
第2楽章
「Andante sostenuto」という指定があります。「歩くような速さを保って」の意味になります。
緩徐楽章です。第1楽章とは打って変わって穏やかな優しさに満ちた音楽になっています。ロマンティックでうっとりする感じです。
オーボエの澄んだような響きが非常に美しく奏でられます。このメロディは後にコンサートマスターによるバイオリンソロで繰り返されますが、非常に心打たれます。
第3楽章
「Un poco allegretto e grazioso」という指定があります。「やや早く優雅に」の意味になります。
ブラームスは第3楽章にメヌエットでもスケルツォでもない、間奏曲風な短い音楽を置きました。古典的な交響曲の伝統を破るものです。新しい発想を込めた楽章にしたかったのだと思います。
この楽章では「ン、タタター」というリズムが繰り返し使われていて印象的です。
第4楽章
「Adagio」(緩やかに)、「Più andante」(アンダンテよりもう少し早く)、「Allegro non troppo, ma con brio」(急速に、しかしあまり激しくなく、活気を持って)、「Più allegro」(アレグロよりもう少し早く)の音楽記号が使われています。
第3楽章から休みを取らずに、すぐに演奏されます。
ホルンのソロから音楽が変わり、別のステージに進んだ事を教えてくれます。それが終わると雄大なテーマを奏で始めます。ここからが「Allegro non troppo, ma con brio」。一度聴いたら忘れられないメロディです。
どこかベートーヴェンの『第9』のテーマと似ているように感じますが、ブラームスはそれを指摘されて、「愚かな人には何でも同じに聞こえる」と答えたそうですが、あながち間違ってもいないのではないでしょうか。
ベートーヴェンを乗り越えて交響曲を作ったのですから、その証をこういう形で取り入れたと思われます。ベートーヴェンへの敬愛を込めた上で、自分の音楽はこう違うのですよという事をアピールしているようです。
最後は力強く劇的な盛り上がりを作り終了します。21年も掛けた思いをすべて吐き出すような終わり方です。
ブラームスはベートーヴェンを超えられたのか
「ベートーヴェンの9曲の交響曲を前にして、自分は何を書けるのだろう」と悩み苦しんだ21年間でしたが、ブラームスが納得できる作品をついに完成できたのです。
では、この作品は壁となってきたベートーヴェンを超える事が出来たのでしょうか。
その答えはとても難しいです。YESでもありNOでもあるでしょう。この交響曲を聴いて、斬新さを感じますし、それでいてドイツ音楽の王道を歩んでいる事もはっきり認識できます。
ビューローが「ベートーヴェンの第10交響曲」と評した事も理解できます。ブラームスはベートーヴェンと比べても遜色ない交響曲を生み出したのです。
ベートーヴェンという高い山に追いつくような高みを持っていますが、超えたとは言い切れません。ただ、ベートーヴェンの影を踏む事はできたのではないかと思います。
ベートーヴェンと同じ土俵で論じる事ができる、とても密度の濃い交響曲である事は間違いありません。


まとめ
ブラームスは交響曲を作曲する事を21年間も悩み続けました。ベートーヴェンとはなんと偉大なのでしょうか。他の作曲家は臆する事なく交響曲を作曲していますが、ブラームスにはそれができませんでした。
ベートーヴェンへの偏愛とも言えるものです。しかし、彼は他の作品を作曲しながら少しずつ作曲を進めていきました。最後の5年ほどはほぼこの交響曲に没頭して作曲しています。
そして、ついに自身が納得する交響曲を完成させたのです。こんな苦労話を知らなくても、この作品に接する方は心を揺り動かされると思います。初心者からクラシック通と言われる方まで幅広く楽しむことができる作品です。
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