
『交響曲第4番』はブラームス最後の交響曲になります。『交響曲第3番』の完成をみた翌年、51歳になったブラームスは避暑地ミュルツツーシュラークでこの作品の作曲を開始しました。
1884年には前半の2楽章、翌年には後半の2楽章という具合に2年間掛けて作曲されています。現在ではブラームスの交響曲は4曲とも名曲とされていますが、この交響曲の初演時は賛否が分かれるものでした。
当時のドイツ音楽界はブラームス派とワーグナー派に分かれていましたが、味方のブラームス派からも否定的な意見が出るほどだったようです。どのような事情によるものなのか、ブラームス『交響曲第4番』を纏めてみました。


交響曲第4番の概説
ブラームスはこの交響曲に「教会旋法」やバッハの音楽を使用しています。この事が賛否が分かれる理由となっています。
バッハとの関連性
この交響曲を見ていく上でまずはバッハの事を記述しないといけないでしょう。それは第4楽章の主題はバッハの『カンタータ第150番』のシャコンヌが基となっているからです。
『交響曲第4番』は1884年から作曲が始められましたが、実は1882年にバッハのこの曲について友人たちと語っており、ブラームスはこの作品を基に交響曲を作ろうとしているとも話しています。
『交響曲第3番』の作曲以前に、交響曲第4番の終楽章が考えられていたという事です。前作の交響曲では使う機会がなかったというのがより正確な言い方かもしれません。
現在では考えられない話ですが、ブラームスの時代にはバッハは一般的な作曲家ではなく、まだまだ忘れ去られた作曲家のひとりの中に入れてもおかしくない時代でした。演奏会などで披露される事などなかったのです。
ブラームスはバッハの楽譜全集を購読していて、その中で『カンタータ第150番』に巡り合ったようです。
ブラームスより1世紀半近く前の作曲家ですから、彼にとっては初めて見るような音楽の作り方であったり、様々な刺激を受けた事は容易に想像がつきます。
古いものながら、初めて見る人にとっては新鮮だった事でしょう。そして、ついにはその虜になり、この音楽を使ってみたくなったと思われます。
第2楽章について
第2楽章は「教会旋法」のフリギア旋法というものが使われています。「教会旋法」についての詳細はここでは省きますが、グレゴリオ聖歌で使われていた手法で全音階(半音はない)のものをこう呼ぶのです。
ブラームスはこの交響曲を他の3曲とは別の形で作りたかったのだと思います。古典回帰というか古き良きものを使って独特の味わいを出したかったのでしょう。
ブラームスの用心深さ
1885年に総譜が完成してから、ブラームスはいつものように友人たちへ意見を求めています。『交響曲第2番』以来、恒例となったピアノ2台による試演を行ないましたが、友人たちは否定的な意見も多かったようです。
しかし、ブラームスは友人たちの意見を取り入れずに、修正する事なく初演されます。ブラームスは最初からそう指摘されるのがわかっていたのでしょう。ただ、ブラームスには自信があったのだと思います。
ブラームスの最高傑作
ブラームスは『交響曲第4番』は「自作で一番好きな曲」であり、「自身の最高傑作」であると語ったと言われています。
友人の批判には聞く耳も持たなかったブラームスは余程この作品を気に入っていたのでしょう。「最高傑作」と思っていたのですから、手直しなどしなかったのは当然です。


第1楽章
「Allegro non troppo」(速く、しかしあまり速すぎないように)の指示があります。
序奏もなくいきなり第1主題がヴァイオリンで奏でられます。このメロディは哀愁たっぷりで聴く者の心を捉えて離しません。「ため息のモチーフ」ともいわれることもあります。
第2主題は木管楽器から入り、独特なリズムを使っています。まるで踊りを踊るようなリズムで、軽快な3連符が印象的です。
この2つの主題が絡み合い、見事なオーケストレーションとなっている楽章です。基本的に悲劇的な内容を持つもので、盛り上がりを作ってもどこか憂いを持った感じからは抜け出すことはありません。
最後は強烈な嵐のような感じで結ばれます。壮大なものですが、決して明るくはない響きです。
第2楽章
「Andante moderato」(アンダンテよりやや速く)の指示があります。
ホルンと木管楽器で第1主題が演奏されます。これは概説に記述した「フリギア旋法」であり、独特の感じをもたらします。その後のクラリネットの調べも魅力的であり、続くヴァイオリンによる展開も美しいです。
第2主題はチェロによるもので、表情豊かに歌われます。展開部を経て、弦楽合奏が現れますが、とても重厚な感じです。最後はホルンが最初のメロディを静かに奏で終曲となります。
第3楽章
「Allegro giocoso」(おどけた感じで快速に)の指示があります。
スケルツォのような楽章になっていますが、3拍子ではなく2拍子になっています。「Allegro giocoso」とありますが、ベートーヴェンの交響曲のように「おどけた」感じになっていないところがブラームスらしさとも言えます。
この楽章にだけトライアングルが使われますが、要所で活躍していて効果的です。楽章冒頭から第1主題が全合奏で演奏されます。かなり勇ましい迫力ある始まり方です。
第2主題はヴァイオリンで示されます。のびのびとした印象です。展開され、ひとしきり劇的な音楽になりますが、その後ホルンとファゴットが緩く穏やかなメロディを演奏します。
ほっとしたのも束の間、元のテンポに戻り、一気に最後まで進んで力強く終了です。
第4楽章
「Allegro energico e passionato」(力強く情熱を持って快速に)という指示があります。
シャコンヌ(パッサカリア)と呼ばれる変奏曲になっています。変奏は30にも及び壮大です。管楽器で示される主題は冒頭の8小節で、これが次々と変奏されていきます。
シャコンヌ(パッサカリア)はバロック期の様式で、概説に記述したようにブラームスはバッハの『カンタータ第150番』のシャコンヌからインスピレーションを受け、この楽章でそれを使ったのです。
ブラームスはバロック期の様式を取り入れ、新しい内容の音楽を作り出しました。彼は『ハイドンの主題による変奏曲』の作品があるように、変奏曲を得意としていたようです。
変奏を終えた後は、激しく力強く終曲します。
初演について
『交響曲第4番』の初演は1885年10月25日、作曲家本人のブラームスが指揮し、マイニンゲン宮廷管弦楽団のもとに行われました。
初演は大成功し、各楽章毎に拍手が起こったそうです。しかし、当時対立していたワーグナー派は当然ながらこの作品を評価する事はなく、ブラームス派からさえも難解さが残るなどの否定的な意見があった事も事実です。
古典的な古めかしいものを敢えて取り入れたブラームスでしたから、音楽の専門家たちにとってもかなりの戸惑いがあったのでしょう。
ブラームス派だった音楽評論家のハンスリックでさえ「その魅力は万人向きではない」との言葉を残しています。
今でこそ評価が固まった音楽ですが、当時の音楽界にとってはこの難解な音楽にどう向き合ったら良いのか分からなかったというのが本当のところではなかったのでしょうか。
交響曲第4番の評価
初演こそ成功しましたが、1886年のウィーンでの初演(ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィル)は成功と言えるものではありませんでした。耳の肥えたウィーンの聴衆にはこの交響曲の難しさが不人気の理由だったのでしょう。
それ以降、この交響曲はしばらく演奏される機会はありませんでした。再演は11年後の1897年、ブラームスが亡くなる1ヶ月前になります。
その日は、ウィーン初演時と同じハンス・リヒターの指揮で、ブラームス自身も立ち会っていました。この演奏会は大好評を得て、聴衆たちはブラームスにも惜しみない喝采を贈ったのです。
それ以来、この交響曲は現在までオーケストラの演奏会に重要な地位を占めるようになりました。


まとめ
ブラームス『交響曲第4番』を見てきました。ブラームスにとっては意欲作だったのでしょうが、複雑で、かつ、バロック期の様式を取り入れた作品に友人たちでさえ困惑してしまったのです。
ただし、ブラームス本人は相当の自信を持った作品でした。「最高傑作」と自己評価している事からも明らかです。
「最高傑作」を作り上げてしまったわけですから、この作品を最後に交響曲を作曲しなかったのも当然なのかもしれません。
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