ストラヴィンスキーという作曲家は、バレエ音楽の『火の鳥』『ぺトルーシュカ』『春の祭典』を作曲しました。私がクラシック・ファンになった頃は『春の祭典』が好きで好きで、よくLPを聴いていたものです。
ストラヴィンスキーはタイトル通りバレエ曲を多く書いています。正にバレエ音楽の申し子でした。また、ココ・シャネルと浮名を流したり、結構、プレイボーイの一面もあったのです。
今回はこのストラヴィンスキーの生涯を調べていきたいと思います。これだけ素晴らしい曲を書いてきた人物ですから、かなり光る物を持っていたはずです。
ストラヴィンスキーの幼少時代
ストラヴィンスキーは最初は自分が音楽家になるとは考えていませんでした。でも、才能が有ったのですね。次第に音楽にのめりこんで行きます。
ストラヴィンスキー誕生
イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovitch Stravinsky)は、1882年6月17日ロシアのペテルブルクの郊外オラニエンバウムに三男として生まれ、首都のサンクトペテルブルクで育ちました。
父はマリインスキー劇場の高名なバス歌手で、家には図書館並みの二十万冊もの蔵書を持っていました。
ストラヴィンスキー幼少期
ストラヴィンスキーは恵まれた環境で9歳の時にピアノを学び初め、同時に和声法や対位法の手ほどきも受けました。作曲も試みていたようです。
15歳の時にはメンデルスゾーンの『ピアノ協奏曲』を弾きこなすようになっていました。しかし、両親はストラヴィンスキーを音楽家にさせるつもりはなく、法律家にさせようと考えていました。
ストラヴィンスキー青年期
1901年(19歳)両親の希望もありサンクトペテルブルク大学に入り法律を専攻しますが、その一方で週に一度音楽理論を学んでいました。
1902年夏に偶然、作曲家リムスキー=コルサコフと知り合いになり、個人授業が受けられる事になったのです。
1902年(20歳)の時、父が亡くなり、音楽家への道が開けました。この年、彼は音楽家になる決心をしたようです。1905年(23歳)大学を卒業。
リムスキー=コルサコフの個人授業は最初は不定期でしたが、1905年(23歳)から週2回の指導をうけながらコルサコフの亡くなる1908年まで続きました。
ストラヴィンスキー結婚
1906年(24歳)、大学卒業後すぐに、従妹キャサリン・ノセンコと結婚し、息子2人と娘2人をもうけました。
先の話になりますが、妻のノセンコが結核を患い、長女は感染して先に亡くなり、妻もついには先に旅立ってしまうのです。
作曲家として開花
音楽を志し、初期作品を発表したストラヴィンスキーはロシアバレエ団のディアギレフの目に留まり、次々とバレエのヒット作を作曲します。これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になります。
バレエ音楽『火の鳥』
バレエ団「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」の主宰者ディアギレフにバレエ『火の鳥』(1909-10年作曲)の作曲を勧められます。1910年(28歳)、「バレエ・リュス」のための第1作としてパリのオペラ座で初演され、大成功を収めました。
バレエ音楽『ぺトルーシュカ』
この楽曲もディアギレフの「バレエ・リュス」のために、1910年から1911年にかけて冬に作曲され、1911年6月13日にパリのシャトレ座で初演されました。これも成功を収めましたが、この音楽に批判的な人もかなり多かったようです。
バレエ音楽『春の祭典』
この楽曲もディアギレフが率いる「バレエ・リュス」のために作曲したバレエ音楽です。1913年(31歳)に完成し、同年5月29日に初演されました。
20世紀の近代音楽の傑作に挙げられる作品であり、複雑なリズムのクラスター、ポリフォニー、不協和音に満ちていて、初演当時、怪我人も出る大騒動となった事で知られています。
『春の祭典』の初演はバレエが始まるや否や反対派が騒ぎ出し、これとは逆に賛成派が反対派と大論争になり、最後は喧嘩になるという有様でした。この大騒動の最中、バレエ団とオーケストラは最後までやり通しました。流石プロですね。
このストラヴィンスキー3大バレエについてはotomamireの『バレエ音楽【傑作・名盤】知らないと恥ずかしい世界的バレエ作品10選』にも詳しく載っています。合わせてそちらもご覧になっていただければ幸いです。
『バレエ音楽【傑作・名盤】知らないと恥ずかしい世界的バレエ作品10選』
戦争勃発
第1次世界大戦(1914-18年)勃発と共にスイスに移り住みます。ロシアの十月革命(1917年)は、革命政府に故国の土地を没収され、そこから上がる収入もなくなり、彼に大きな打撃を与えました。
ロシアには帰れなくなり、しばらくスイス各地を転々とする苦しい時代を送ります。
フランスでの生活
第1次大戦が終わるとストラヴィンスキーはフランス各地を転々とし、最後はパリに落ち着きます。戦争の所為なのかどうかは分かりませんが、ここから彼の音楽の作風が変わっていきます。
新古典主義時代
ストラヴィンスキーは楽器編成の縮小傾向を見せるようになります。それは1918年(36歳)作曲のバレエ音楽『兵士の物語』で初期の表現主義、原始主義的作風から新古典主義に移っていきます。名作『プルチネラ』(1919-20年作曲)もそのひとつです。
『ピアノと管楽器のための協奏曲』(1923-24年作曲、42歳)ではバロックへの傾斜が見られ、合唱と管弦楽のための『詩編交響曲』(1930年作曲、48歳)などもこうした傾向を示しています。
題材の面も古代ギリシャのものになり、ソポクレスによるオペラ・オラトリオ『オイディプス王』(1926-27年作曲、ラテン語台本)やバレエ『ミューズの神を率いるアポロン』(1927-28年作曲)などがそうです。
パリ市民権獲得
1934年(52歳)にフランス市民権を得てからはパリに住みますが、1938年(56歳)に長女を結核で失い、翌年には妻と母を失います。
当時ナチス政府は前衛的なストラヴィンスキーを快く思っておらず、1938年には退廃音楽として誹謗されました。またフランス人はストラヴィンスキーの新作に興味を持たなくなっていきます。
ストラヴィンスキーは生涯2度結婚していますが、その間にも色々な女性と関係を持っていたらしいです。プレイボーイだったのですね。バレエダンサーや一時はあのココ・シャネルとも付き合っていたようです。モテたんですね。
アメリカ時代
1920年(38歳)からフランスで生活していましたが、1939年(57歳)、第2次世界大戦(1939-45)のヨーロッパを離れ、ハーヴァード大学で音楽の詩学の講義をするためアメリカ合衆国に移りました。
作風の変化
これまで否定的だった12音技法を少しずつ採用して新たな創作の可能性を開きます。70歳近くになってからの作風の変貌は世間を驚かせました。
この時代の作品には『七重奏曲』、『カンティクム・サクルム』などがあります。
その後1941年(59歳)よりハリウッドに定住し、アメリカ市民権を取得出来たのはやっと第2次世界大戦終結後の1945年12月28日、63歳の時でした。そして画家のヴェラと再婚します。
日本訪問
1959年(77歳)、来日し、日比谷公会堂、フェスティバルホールで演奏会を行いました。また日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介しています。
当時の日本では世界的な作曲家が来日して、コンサートまで指揮をしてくれたという事でマスコミ各社はてんやわんやの大騒ぎだったそうです。
ストラヴィンスキーの晩年
1966年(84歳)を最後として新しい曲は作曲されず(編曲はその数年後まで行った)、1967年後半は胃潰瘍と血栓症で長期間入院しました。
最晩年は作曲などもせずに、レコードを聞いて過ごしていたようです。特にベートーヴェンを好んだといわれています。
1969年、ニューヨークのエセックスハウスに転居し、1971年4月6日に息を引き取ります。88歳でした。ディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬され、後に、妻ヴェラもイーゴリの隣に埋葬されました。
ストラヴィンスキーの作風の変化
ストラヴィンスキーは生涯3度にわたって大きく作風を変えています。良く変わる作風から「カメレオン作曲家」という彼を批判する造語も出来ています。
原始主義時代
原始主義とは、ロシアの民族音楽の生命力を取り入れた原色的で強烈な音楽が展開されて、単なる異国主義のような借り物としての民族音楽ではなく、音楽の根本原理に民族音楽の要素が活用されているものをいいます。
ストラヴィンスキーは自身は原始主義を標榜していませんが、主な作品として、3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が挙げられます。
新古典主義時代
バレエ音楽『プルチネラ』以降はストラヴィンスキーの新古典主義の時代と呼ばれます。この時期はバロック音楽への傾倒が見られます。
セリー主義(12音技法)時代
第2次世界大戦後は、それまで否定的であった12音技法を取り入れるようになりました。
ストラヴィンスキーは売れた作品を何度も改訂し、その度に楽譜も新たに出版し直していました。これはお金に困った彼が考えてした事です。別に改訂する必要も無かった楽曲を何度も改訂し、その度に楽譜出版の売り上げを貰うためだけでした。例えば『春の祭典』は9版もの違う改訂版があります。ちょっと人間性を疑っちゃいますね。
まとめ
ストラヴィンスキーはデビュー当時の方が断然素晴らしいと私は思っています。何でそんなに作風を変えたのか不思議です。一緒に歩んでいたディアギレフが無くなったせいもあるのでしょうか。
生涯バレエ作品を10作以上作曲しています。その中でも彼の三大バレエ曲は現在でもよく上演、演奏されているのです。まさしくバレエの申し子でした。我々は、今後も彼の作品を聴き続けていく事でしょう。