
印象派の大家ドビュッシー。私はこの作曲家のピアノ曲が大好きです。特に『前奏曲集第1巻』は素晴らしい!『亜麻色の髪の乙女』や『沈める寺』は本当に傑作です。
オーケストラ曲の『牧神の午後への前奏曲』、交響詩『海』も傑作に挙げられます。どうしてこのような素晴らしい音楽が作曲できたのでしょうか。あのような女たらしの最低の人間に。音楽の才能と人間性とはイコールではないのですね。
ドビュッシーがどういう生い立ちを持ち、そして、どう生きて来たのか大変興味があります。それでは、これから、この興味ある世界の探索に出発しましょう。


ドビュッシーの生い立ち
ドビュッシーについてその人生を知っている人は多くはいないと思います。曲は有名でも印象派の作曲家ということぐらいしか知られていません。どんな形で印象派の大家として歴史に名を刻むようになったのかをみていきます。
ドビュッシーの少年期
クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)、 1862年8月22日、フランスのサンジェルマン=アン=レー生まれ。父親は陶器店を経営し、母親は裁縫師でした。
5人兄弟の長男。その年に一家は経営難のためサン=ジェルマン=アン=レーを離れ、母方の実家に同居します。
1871年、詩人ヴェルレーヌの義母アントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受けます。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたそうです。
幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、どのように過ごしたのかは不明です。語りたがらないのは、貧しさもあって学校に通っていなかった事も影響していると思います。
彼は母から勉強を教わったとしか言っていません。ただしこの時期からフルールヴィル夫人ピアノの手ほどきを受けていたことは確かなようです。
パリ音楽院入学
1872年10月22日、10歳でパリ音楽院に入学します。わずか10歳!やはり彼は天才だったようですね。この狭き門を10歳でクリアしてきたのですから、フルールヴィル夫人の見る目は確かだったという事です。
それまでの記録は明確ではありませんでしたが、パリ音楽院に入学以降のドビュッシーの記録は明確になっています。
元々、ピアニストになることが夢だったドビュッシーでしたが、学内コンクールで1位を1度しか取れなかったため、ピアニストを諦め作曲家への道を目指すことになります。
1878年にピアノ小品を作曲しますが、これが作曲家ドビュッシーの始まりとなりました。
1880年(18歳)の終りごろ、ギローのクラスに入り、師の指導の下に1883年(21歳)ローマ賞第2等を獲得し、翌年にはカンタータ『放蕩息子』で第1等に輝き、ローマ大賞を得て同音楽院を卒業しました。
ドビュッシーの青年期
1880年7月、18歳のドビュッシーはチャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴しました。
メック夫人を通して、チャイコフスキーの最新作であった『交響曲第4番』(1877年)などのロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーやロシア5人組の影響を受けます。
1885年(23歳)、ローマ大賞の獲得により,ヴィラ・メディチで留学生活に入ります。しかし、ローマでの生活は窮屈で、義務の2年を終えると早々に留学を切り上げることになりました。
1889年は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となります。1月には国民音楽協会に入会してエルネスト・ショーソンらと知り合い、新たな人脈と発表の場を得ます。
6月にパリ万国博覧会でジャワ音楽(ガムラン)を耳にしたことは、その後の彼の音楽に大きな影響を与えました。
またこの頃、詩人ステファヌ・マラルメの自宅サロン「火曜会」に唯一の音楽家として出席するようになり、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲や『牧神の午後への前奏曲』への作曲へとつながっていきます。
この「火曜会」は画家のマネやモネ、ルノワール、そしてドガなどの印象派を始めゴーギャンやドニ、ホイッスラー、詩人のヴェルレーヌ、ヴァレリー、作家のオスカー・ワイルド、アンドレ・ジッドなど、錚々たる芸術家が集まっています。
ドビュッシーはこの会を通じて印象派を始めた詩人、画家に影響され、自分も新しい音楽作りに力を入れる事になります。
ドビュッシー印象派作曲家として大成
ドビュッシーは今までの伝統にとらわれない新しい自分だけの音楽を目指して、独自のスタイルを模索していきます。これには前章でも書いた「火曜会」の出席者達との交流が大きな影響をもたらしています。
ドビュッシーの作曲家としての活躍
それまでの形式、和声、楽器法に囚われない独創的で自由な構造がドビュッシーの作曲の特徴と言えます。この自由な形式でドビュッシーは批判されますが一切気にせず自分の音楽を築いていきました。
彼の音楽に対する理想は、「紙に書き留められていないもののように聞こえるべきだ」というものでした。ドビュッシーの作品を演奏する演奏家には、自由な解釈と独創的な表現力が要求されるようです。
1893年4月(30歳)、『選ばれた乙女』が国民音楽協会の演奏会で初演され、その後同協会の運営委員にも選出されました。
1894年12月22日(32歳)に『牧神の午後への前奏曲』初演。1900年代に入ると、『ビリティスの歌』(1900年)、『夜想曲』(1900年)、『版画』(1904年)などが初演されました。
印象派作曲家としての絶頂期
オペラ『ペレアスとメリザンド』が完成し、1902年(40歳)に初演され大きな成功を収めました。一連の作品で成功したドビュッシーは、作曲家としてのキャリアを確実なものとします。
1905年(43歳)には交響詩『海』、ピアノ曲集『映像第1集』を発表し、新たな境地を見せます。1910年(48歳)には『前奏曲集第1巻』を発表し、ピアノ曲においても作曲家のキャリアを不動のものとしました。この頃がドビュッシーにとっての絶頂期だったのです。
1913年(51歳)、バレエ音楽『遊戯』が完成し、同年にピエール・モントゥーによって初演され、これはバレエ・リュスの上演によって成功を収めました。
しかし、その2週間後に同じ演奏陣によってストラヴィンスキーの『春の祭典』が上演され、そのスキャンダルの陰に隠れてしまいます。同年『前奏曲集第2巻』完成。
ドビュッシーといえば印象派作曲家と呼ばれていますが、本人はそう呼ばれる事を嫌っていました。印象派と呼ばれる事で、音楽家として1段下に見られているような感じがしていたようです。
ドビュッシーの晩年
これ以降を晩年とするならば、作曲家として後世まで残るような作品を残していません。
1914年第1次世界大戦の勃発や1915年(53歳)母の病死、そして自らも病気を患って手術を行いました。これらの事が作曲の歩みを遅らせたようです。
そして1918年初旬、直腸癌により床から離れなくなり、3月25日の夕方に静かに息を引き取ります。55年の生涯でした。


ドビュッシーの恋愛関係
「芸術家には変わり者が多い」とよく言われますが、ドビュッシーもこと女性関係では大変世間を賑わした1人です。あんなに素晴らしい音楽を作っていた裏で、そんな事をしていたなんて、男って困った物です。
マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人と不倫
1880年(18歳)~1888年(26歳)、マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人と不倫関係にありました。ドビュッシーの学生時代にあたります。学生時代から不倫とは大胆ですね。
この頃はまだデビュー前といった時期で、フォン・メック夫人という資産家の未亡人に雇われてピアニストをしていました。この人の娘さんともピアノを教えているうちに恋愛関係になってしまいます。
年上の人妻と不倫しながら、別の娘とも付き合うなんて最低です。若い時期からこんな倫理に反する事をしていて、どんなつもりだったのでしょうか。
ガブリエル・デュポンと同棲
1889年(27歳)から同棲を続けていたガブリエル・デュポンとは、自殺未遂騒動の末に1898年(36歳)に破局。自殺未遂の原因は同じ頃、ソプラノ歌手のテレーズ・ロジェと浮気したからです。本当に何を考えているのやら。
マリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚
1890年(37歳)、同棲していたガブリエル・デュポンの友人であるリリーと結婚しました。結婚して真面目になるかと思いきやまたもや問題を起こします。
1904年(42歳)頃から、教え子の母親、エンマ・バルダックと不倫関係になり、それを知った妻のリリーは胸を銃で撃ち自殺未遂を起こし、1905年に離婚しました。
結局、最後は
リリーの自殺未遂事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなります。
長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲し、1908年(46歳)に結婚しました。ドビュッシーはシュシュを溺愛し、ピアノ曲『子供の領分』を我が子に献呈するのです。
子供ができた事で彼の不倫癖は収まり、ようやく普通の家庭生活を送るようになったのです。女の敵から、普通の父親の姿に変わったのでした。


ドビュッシーの後世への影響
ドビュッシーの音楽の影響はかなりの物があります。20世紀で最も影響を与えた音楽家とも言われています。クラシック音楽は勿論、ジャズ、ポップスに至るまで幅広く多様多種な音楽の部類に影響を与えているといわれています。
クラシック音楽
バルトーク・ベーラ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、初期作品の時期のラヴェル、フランシス・プーランク、ダリウス・ミヨー、アルベール・ルーセル、ジョージ・ガーシュウィン、ピエール・ブーレーズ。
オリヴィエ・メシアン、アンリ・デュティーユ、レオ・オーンスタイン、アレクサンドル・スクリャービン、カロル・シマノフスキらに対して影響を与えています。日本の作曲家では武満徹がドビュッシーからの影響を受けたと公言しています。
ジャズ
ジャズに於いては、ガーシュウィン、ジャンゴ・ラインハルト、デューク・エリントン、バド・パウエル、マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック、アントニオ・カルロス・ジョビン、アンドリュー・ヒル、ビックス・バイダーベックなど。
ポップス
ポップスではプログレッシブ・ロックの括りで語られるバンドは従来の和声進行から外れたドビュッシーの音楽に影響を受けています。


まとめ
ドビュッシーが天才であったことは多くの人が認めるでしょう。しかし、彼の音楽については未だに賛否が分かれるところがあります。私は大の肯定派です。特にピアノ曲についてはもろ手を挙げて降参します。
でも人間的には倫理的にどうかというところもありました。これも芸の内と認めるかどうかは、難しいところもあります。
倫理的な観点は音楽が素晴らしければ目をつぶりますか。問題はあった人ですが、彼の音楽は永遠に伝えられていくでしょう。