ドヴォルザークといえば『新世界より』を作曲した作曲家として広く知られています。昔は第2楽章が学校の下校の音楽だったので、日本人には第2楽章が最も有名ではないでしょうか。
ドヴォルザークが大の鉄道オタクだった事は知らない人が多いと思います。本当に鉄道が好きで、毎日が鉄道のために生活していたといっても大げさではないほどです。
ドヴォルザークの幼少期から作曲家として成功していく人生を順を追って見ていきます。「鉄っちゃん」としても1項目作りますのでお楽しみに。
ドヴォルザークの子供時代
始めに誕生から15歳までのドヴォルザークをみていきます。意外とドラマティックな子供時代を過ごしています。
誕生から15歳まで
ドヴォルザークは1841年9月8日、プラハから北に位置するネラホゼヴェスという街に生まれました。父親は宿屋と肉屋を経営しており、「チター」の名手で街でも評判の腕前だったようです。
そんな陽気な父親の元で育ったドヴォルザークは6歳になると、小学校へ通う事になりますが、この学校の校長がヴァイオリンの手ほどきをすると、みるみるうちに上達していきます。
ドヴォルザークの父親は長男だった彼に家業を継いでもらう事を考えていました。そこでドヴォルザークを母方の伯父の家に預けて、肉屋の修行を積むために専門学校へ通わせる事にします。
ところが専門学校の校長リーマンは教会のオルガンを弾いたり街の楽団の指揮者を務めるなど音楽大好きな方だったため、ドヴォルザークの才能に気付き、オルガンやヴィオラ、音楽理論などを教え込んでいきます。
預けていた伯父と専門学校の校長は、ドヴォルザークの音楽的才能をもっと伸ばしてやりたいと願い、ドヴォルザークの父をどうにか説得し、学費も伯父が面倒を見るという条件で、音楽の道に進ませます。
こうした経緯でドヴォルザークはオルガン学校に通う事になり、音楽家へ向けて勉強する事になります。彼にとっても驚きの逆転劇でした。
ドヴォルザークの青年期
ドヴォルザークは伯父達の奮闘で何とかオルガン学校に入学が決まり、音楽家への第1歩を踏み出し始めます。
オルガン学校時代
1857年、プラハのオルガン学校に入学する事になった16歳のドヴォルザークでしたが、貧しい家庭だったため伯父の援助しかなく、大変な学生生活だったようです。お金が無いので楽譜を友人に貸してもらったりして学んでいました。
また、学校に通うと同時に教会のオーケストラにも入り、ここでヴィオラを演奏する事にもなりました。やがて2年の期間を経て学校を優秀な成績で卒業するのでした。
卒業後の生活
1859年、学校を卒業後、18歳のドヴォルザークはカレル・コムザークの楽団に入りヴィオラ奏者となります。しかし、この楽団はイベント等の際に登場する不定期な楽団だったため、生活も貧しく相変わらず苦労しながら音楽生活を送ることになるのでした。>
そんな中、1862年、プラハに仮の国民劇場が出来、そこで演奏するためのオーケストラも新たに結成される事になります。ドヴォルザークもこのオーケストラのヴィオラ奏者として在籍する事になるのでした。
国民劇場の指揮者はなんとスメタナでした。ドヴォルザークはスメタナに個人的に指導を受けたり、彼から色々な音楽的な要素を吸収したようです。
ピアノ教師兼任
国民劇場のヴィオラ奏者になったといっても食べていくのが精一杯で、生活に余裕が無かったため、ドヴォルザークはピアノの個人レッスンを副業としてやりだしました。
その時代、ピアノを持つ家庭などとても裕福な人たちでした。どの作曲者も陥るようにドヴォルザークも教え子に恋心を覚えるようになります。
金細工師のチェルマーク家の娘ヨゼーファとアンナという姉妹の姉のほうに夢中になってしまいましたが、そこは身分の差が大きすぎ諦めざるを得ませんでした。
ドヴォルザーク作曲家としてスタート
元々ドヴォルザークは作曲家を目指していました。経済的に苦しい中でも作曲家としての道を歩み始めます。
作曲を始める
この当時はまだ貧乏な音楽家から抜け出せず、毎日を楽団の演奏とピアノ教師のために使っており、作曲する余裕がありませんでした。しかし、そんな中でも何曲か作曲していたようです。
片思いに終わったチェルマーク家のヨぜーファのためにも数曲作っています。
作曲に専念
ドヴォルザークは作曲に専念したいが為、1871年(30歳)楽団をやめます。ピアノレッスンの収入だけで何とか遣り繰りする算段でした。ところがそうは上手くはいかずまた貧乏暮らしに逆戻りです。
そんな逆境の中、1873年(32歳)、苦労の末に完成した『白山の後継者たち』が初演されると、これが見事に大成功を修め、プラハの音楽界でも一躍有名人となるのでした。
いざ、結婚
この曲のヒットでドヴォルザークの人生が上手く転がり始めます。この曲の初演には、かつて想いを寄せていたヨゼーファの妹アンナも来ていたのでした。
2人はやがて恋仲になり、その年に結婚までたどり着きました。ドヴォルザーク32歳、アンナは19歳でした。
教会オルガニストへ転職
新曲がヒットしたからといっても安定した収入はありません。そこでドヴォルザークは1874年(33歳)にプラハの聖アダルベルト教会のオルガニストに就任する事になりました。年間契約を結び経済的な保証を得たドヴォルザークは、更に作曲に専念していくのでした。
作曲活動を続けるドヴォルザークは、新しく設立されたオーストリア政府の国家奨学金の審査に『交響曲第3番』と『第4番』などの楽曲を提出すると、この作品が認められ彼の年収の2倍以上の奨学金を受け取ることができました。
奨学金を得る事が出来たドヴォルザークはその後も5年ほどこの国家奨学金に作品を提出していきます。この審査員の1人がブラームスであり、ドヴォルザークの才能に気付き出版社に推薦したほどです。
ブラームスとの出会い
ドヴォルザークを世に出してくれるようになった運命の作曲家ブラームスと親しくなります。この出会いが彼を世界的作曲家に押し上げる好機となりました。
ブラームスとの親交
1876年(35歳)ドヴォルザークは、『弦楽五重奏曲第2番』で芸術家協会芸術家賞を獲得します。作曲家として一歩一歩階段を登っていくのでした。
ブラームスとは個人的にも親しくなり、お互いの家を訪問しあうなどの交流が始まりました。何といってもブラームスはドヴォルザークをジムロックという出版社に紹介してくれた恩人であり、友人になった事は彼にとって喜ぶべきものでした。
その後、何度もふたりの作曲家は行き来し、ブラームスの死の3日前にもドヴォルザークはブラームスと言葉を交わしています。
ドヴォルザーク世界的作曲家へ
一躍有名作曲家に躍り出たドヴォルザークはイギリスからの招待を受け、当地で演奏会を行います。
人気作曲家として定着
ジムロック社はドヴォルザークに『スラヴ舞曲』の作曲を依頼します。ブラームスの『ハンガリー舞曲』に匹敵するような作品にしてくれとの注文付きでした。ドヴォルザークは『スラヴ舞曲』を完成させます。すると、これがまた大ヒットとなります。
その後もジムロック社の依頼をいくつか受けて作曲を続けていき、更に名声を伸ばしていくのでした。
作曲活動も順調に進んでおり、1878年には歌劇『いたずら農夫』を作曲すると、この時に初めて自らが指揮をとってプラハで演奏会を行いました。この演奏会も大成功を収め、指揮者としての才能も発揮することになりました。
その後もチェコ、ドイツの各地で演奏会が行われ、各地で成功を収めドヴォルザークの名声はいよいよ高まっていくのでした。
大成功のイギリス訪問
ヨーロッパにその名声が伝わると、1884年、43歳のドヴォルザークはロンドン音楽協会の招待を受けてイギリスを訪問しました。イギリスでもいくつかの演奏会を開きますが、イギリス各地の聴衆からも大喝采を受け、大成功を収めました。
ロイヤル・アルバート・ホールで行なわれた演奏会(曲は『スターバト・マーテル』)は、自ら指揮をしロンドンの聴衆から大喝采を浴びました。
イギリスで成功を収めると、イギリス楽友協会から名誉会員の推薦を受け、同時に協会からは、新しい交響曲を作曲して欲しいとの依頼を受けます。ドヴォルザークはこの依頼を受け、翌1885年に『交響曲第7番』を携えてイギリスを訪れます。
イギリスでのドヴォルザーク人気は高く、その後もドヴォルザークは何度もイギリスを訪れる事になるのでした。
世界的な有名作曲家となる
1890年(49歳)には『交響曲第8番』を完成させ、交響曲作曲家としても大作曲家の道を歩んで行きます。
この曲の出版に関しては、ジムロック側と折り合いが付かず、結局イギリスのノヴェロ社が出版する事になりました。このためこの交響曲のことを「イギリス」と呼ぶようになりました。内容はイギリスとは無縁のものです。
1891年からプラハ音楽院の教授にも就任しています。作曲から演奏旅行、そして教職までこなすようになり多忙な日々を送るようになりました。
ドヴォルザーク、アメリカへ
ドヴォルザーク自身、アメリカから声が掛かるなんて思ってもいなかったでしょう。でも、断れ切れずについにアメリカ行きを決めてしまいます。
音楽院の学院長就任
数々の名誉ある称号をうけたドヴォルザークは1891年(50歳)、アメリカのニューヨーク・ナショナル音楽院の理事長から、学院長へ就任する事を依頼されます。この話をはじめにもらったときに、ドヴォルザークは一度辞退します。
ドヴォルザークになんとしてでもアメリカへ来て欲しかった理事長サーバー夫人は、彼を熱心に説得し、破格の報酬を提示してドヴォルザークを口説き落とすのでした。ちなみに理事長の提示した年俸はプラハ音楽院でもらっていた額の25倍だったそうです!!
サーバー理事長の熱意に押されたドヴォルザークはアメリカ行きを決心します。1892年、51歳になったドヴォルザークは約2週間ほどかけてはるばるニューヨークへと旅立ったのでした。
アメリカでも大歓迎
ニューヨークに着いたドヴォルザークは、アメリカ市民の間でもその業績が既に有名になっていたため、偉大なる作曲家の到着を熱烈に歓迎したのでした。
当時のアメリカは音楽の分野ではまだまだ途上国でしたが既にニューヨーク・フィルやボストン交響楽団などの楽団は存在していました。
しかし、音楽家を育成するシステムが確立されていなかったため、サーバー理事長がニューヨーク・ナショナル音楽院を設立して、その流れを付けようとしているところでした。ドヴォルザークも学院長ながら、自ら教壇に立ち、教えることになりました。
アメリカですから、生徒の中には黒人もいたようです。ドヴォルザークはこうした生徒達に音楽を教えると同時に、自分の作曲にもこれらの生徒達から「黒人霊歌」を吸収し、大いに影響を受けたのでした。
作曲面について
こうした環境に接して作曲したのが1893年(52歳)に完成した『交響曲第9番「新世界より」』でした。黒人霊歌やアメリカ民謡などが形を変えて使われています。
ドヴォルザークは同年アイオワ州にも足を運びます。既に大都市となっていたニューヨークとは違い、同郷人のいるアイオワ州に郷愁を感じながらもしみじみとした土地柄に影響されました。ここで作曲されたのが『弦楽四重奏「アメリカ」』でした。
今では三大交響曲として有名な『新世界より』、それに弦楽四重奏『アメリカ』はこうして生まれたのです。
契約延長
ニューヨーク・ナショナル音楽院で教鞭を取っていたドヴォルザークは、ニューヨーク・フィルの名誉会員に推薦される事になります。アメリカでもドヴォルザークはその業績を認められたのでした。
ドヴォルザークは1894年、2年間の契約延長を求められました。5ヶ月の休暇をもらいボヘミアの故郷へ一時帰国する事を条件に、契約を更新します。
音楽院からの撤退
5ヶ月の休暇を終え、長い旅路を経て1894年(53歳)10月、ニューヨークへ戻ったドヴォルザークは又教壇に立つ予定でしたが、一度ボヘミアへ帰ったせいなのか、ホームシックにかかってしまい、体調を崩してしまいます。
なんとか体調を回復させるドヴォルザークでしたが、この頃、音楽院の経営も危ういものになっていたのでした。
1893年に起きた大恐慌に影響されて音楽院は破産寸前にまで追い込まれていたのでした。すると当然ドヴォルザークに対する報酬の支払いにも遅延が起きるようになって来ました。
その後も報酬が滞ることがたびたび続くと、さすがのドヴォルザークもこれに溜まりかねて、ニューヨークを去る事を決意するのでした。1895年(54歳)4月にアメリカを発ち故郷へ戻ります。
ドヴォルザークの晩年
アメリカから帰国したドヴォルザークはプラハでまたもとの作曲家兼指導者に戻ります。54歳という歳を考えれば、ちょうど良い帰国だったのかもしれません。
国を代表する音楽家に
帰国したドヴォルザークは再びプラハ音楽院で教壇に立ちました。翌1896年(55歳)にはイギリスへも訪問します。帰国後ウィーン学友協会から名誉会員に推薦されます。
ドヴォルザークの名誉受賞ラッシュはとどまる事を知らず、1897年(56歳)にはオーストリア国家委員に就任するのでした。この国家委員はかつてブラームスがドヴォルザークの提出していた作品を審査していた地位だったのです。
さらに、1898年(57歳)には芸術科学名誉勲章を受章します。その後のドヴォルザークは、歌劇の作曲へ専念します。そして、1901年(60歳)オーストリア貴族院から終身議員に任命されるのでした。そして同年、長年務めたプラハ音楽院の院長にも就任します。
ドヴォルザークの最期
ドヴォルザークには、尿毒症と進行性動脈硬化症の既往がありましたが、1904年(62歳)4月にこれが再発。5月1日、昼食の際に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。死因は脳出血でした。
葬儀は国葬とされ、偉大なる作曲家は盛大に見送られていくのでした。音楽家として始めはパッとしませんでしたが、その後大成功を収めた生涯でしたから、本人も納得の人生だったのではないでしょうか。
ドヴォルザークは鉄道オタク
皆さんご存知だったでしょうか。実はドヴォルザークは鉄道オタクだったのです。それもそんなにのめり込んでたのって感心するぐらいの異常なレベルでした。
子供の頃、ドヴォルザークの実家のすぐ近くを蒸気機関車が走るようになったことが彼を鉄道好きにしたきっかけといわれています。
彼の鉄道好きは今で言えば「鉄っちゃん」と呼ばれるオタクそのものでした。「乗り鉄」「車両鉄」「時刻表鉄」・・・とにかく全て当てはまります。
彼の有名な鉄道エピソードを挙げてみます。
- 毎日の様に散歩に出かけては最寄りの駅に通いつめ、汽車を見学していた。
- 地元の駅の時刻表を全て暗記していた。
- 駅員達とも仲良しで汽車の事を話していた。
- 鉄道が遅延した時は、何故か駅員に代わってお客に陳謝していた。
- 鉄道の通過音から異音を聞き分けて車両の異常を発見し、故障である事が分かった。
- 機関車の車両番号を確認していた。自分でいけない日は弟子に行かせていた。
- 「本物の機関車が手に入るなら、今までに私が作ったすべての曲と交換してもかまわない」と発言した事がある。
- アメリカに行ったのも実はアメリカの機関車が見たかったからという説もある。
ドヴォルザークの奥さんは彼の性格を良く知っていて、機嫌が悪い時や作曲で悩んでいる時に散歩に行くことを勧めたようです。当然駅に行って機関車を眺めて、上機嫌で帰ってくる事を知っていたからです。
彼の『交響曲第9番「新世界より」』の中には、汽車が走っている様子を描いている部分があるといいます。私には分かりませんが・・・。
まとめ
ドヴォルザークの生涯を簡単にみてきました。何よりも相当な鉄道オタクだったとは驚きです。
ブラームスの目に止まったから今のドヴォルザークがあります。縁があったのですね。それ以降は本当に作曲家としては夢のような毎日を送りました。
『第9』が年末ならば『新世界より』は新年に多く演奏されます。新世界という響きが新しい年を迎えるに相応しそうなイメージなのでしょう。
ドヴォルザークは作曲家としては珍しく幸せな家庭を築き、その生涯を全うしました。