向き合う美しい白鳥

ヨーロッパの言い伝えで、白鳥は死ぬ時に美しい声で鳴くのだそうです。その事から、作曲家が亡くなる直前に人生で最高の作品を残す事を「白鳥の歌」と呼ぶようになりました。

数多くの作曲家も「白鳥の歌」を残してきました。特にシューベルトにはそのものずばりの『白鳥の歌』という歌曲集があります。もっとも彼の死後に発表されたものなので、彼自身の命名ではありません。

音楽史に残るような素晴らしい「白鳥の歌」を残した作曲家も数多いですが、その中でも特に有名な作曲家の「白鳥の歌」を紹介していきたいと思います。

「白鳥の歌」という言葉の響きが物悲しい雰囲気を漂わせます。
作曲家の最後の作品を指す場合が多いからね。少し感傷的になってしまうな。

シューベルト『白鳥の歌』

最初はやはりそのものずばりのタイトルのシューベルトから紹介しましょう。シューベルトの歌曲集『白鳥の歌』は彼の死後に発表されたもので、彼の遺作を纏めたものです。

シューベルトの「三大歌曲集」と呼ばれている中のひとつですが、『美しき水車小屋の娘』『冬の旅』の2つの作品と違っている事は、同じ詩人の原作による連作歌曲ではない点となります。

この歌曲集はシューベルトの死後に兄のフェルディナントが、残された楽譜を「遺品」として、楽譜出版商トビアス・ハスリンガーに渡した事によって日の目を見ました。

歌曲の構成は3人の詩人のものから成り立っています。レルシュタープとハイネ、そしてシューベルトの友人であったザイドルです。レルシュタープは7曲、ハイネは6曲、ザイドルは1曲の計14曲で構成されています。

ハスリンガーはこの14曲に纏めた歌曲集を『白鳥の歌』として出版しました。1829年、シューベルトが亡くなった翌年の事です。14曲目の「鳩の便り」はシューベルトの絶筆とされています。

J.S.バッハ『音楽の捧げもの』

バッハの「白鳥の歌」は『音楽の捧げもの』としました。『フーガの技法』という方もいるでしょうが、完成された作品という事で『音楽の捧げもの』を挙げます。

『音楽の捧げもの』は謎の多い作品として知られています。一部の音楽を除いて楽器の指示もない事やどの順番で演奏を行なえばよいのかなど今でも結論は出ていないほどです。

そういう難しい話は専門家にお任せして、ここではこの作品が生まれたきっかけとなった出来事を紹介して行きましょう。

1747年5月7日にバッハはプロイセン国王フリードリヒ2世に呼び出されました。国王はフォルテピアノであるテーマを弾き、「このテーマを3声フーガに展開せよ」とバッハに命じます。バッハは見事な即興演奏でその場を乗り切り、居合わせた貴族たちの喝采を浴びました。

その後、国王は更にバッハに要求を出します。「6声はどうだ」。流石のバッハもこの要求には答えられず、違うテーマでの即興演奏でお茶を濁しました。

バッハはこの出来事の2ヶ月後に国王の要求通りに6声のフーガも完成させ、国王に献呈します。このため『音楽の捧げもの』と呼ばれるようになりました。

バッハにしてみれば、急に呼び出され、多くの人の前で恥をかかされたと思った事でしょう。だからこそ、急いで作曲し、2ヶ月間で出版まで行い、国王に献呈したのだと思われます。

ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第16番』

ベートーヴェンの生涯最後の作品です。死の5ヶ月前に完成されました。ベートーヴェンは人生の最後に弦楽四重奏曲に力を注ぎました。それまで規模を膨らませていた作品がここにきて元の4楽章制に戻ります。

ベートーヴェンの『白鳥の歌』らしく、どの楽章もベートーヴェンの良さが発揮されている音楽です。『第9』と同じように第2楽章にスケルツォを置いていますが、このリズムに満ち溢れた楽章は見事としか言いようがありません。

第3楽章の緩徐楽章の美しさ、抒情性に富む音楽とはこのようなものを指すのでしょう。そして、終楽章の明るいイメージとちらっと顔を出す不安な音楽、最後に想像もしなかったピチカートで終了させる技に感動してしまいます。

どうして、ベートーヴェンは最後に弦楽四重奏曲に拘ったのでしょうか。人間の心情を最も素直に表現できるのが弦楽四重奏曲だったからではないでしょうか。ピアノ単独では表現しきれない事も、弦楽四重奏曲なら思いのたけを表現できたのだろうと想像しています。

モーツァルト『交響曲第39番』

モーツァルトの「白鳥の歌」は迷いました。昔から定番とされてきた『交響曲第39番』にするか、『レクイエム』や『クラリネット五重奏曲』、あるいは『ピアノ協奏曲第27番』こそモーツァルトの「白鳥の歌」だという方もいます。

悩みましたが、定番とされる『交響曲第39番』にする事にしました。定番とされるにはそれなりの理由があるからだと思うからです。

最後の作品ではなく、亡くなる3年前の作品であって、しかも交響曲の最後の作品でもないのに「白鳥の歌」と言われるのはなぜでしょうか。

この作品の持つ明るくて軽やかな、いかにも健康的なイメージが最後の作品として相応しいからそう呼ばれてきたのだと思います。

『第40番』でも『第41番』でもなく、この作品が「白鳥の歌」とされてきたのは、名曲である事は当然として、2曲にはない美しさを持っているためです。優美という言葉の方が合っているかも。

この作品はモーツァルトの生きている間に演奏されたかどうか分からない作品です。これら三大交響曲は僅か1ヶ月半で作曲されましたが、3曲とも演奏されたという証明がなされておらず、何のためにこんなに急いで作曲されたのかもわかっていません。

R・シュトラウス『4つの最後の歌』

R・シュトラウスは死の前年に作曲した『4つの最後の歌』が「白鳥の歌」と呼べるものです。オーケストラ伴奏付きのソプラノ向け歌曲集として作曲されています。コンサートでも良く取り上げられる作品です。

ヘルマン・ヘッセの詩から3曲、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの詩から1曲の4曲からなる歌曲集。R・シュトラウスの生前最後の4曲という事でこの愛称が名付けられましたが、誰が名付けたのかは不明です。

曲の並びについても誰がこう決めたのか分かっていません。作曲者が亡くなってから纏められた遺作ですので、R・シュトラウス自身がこの4曲を歌曲集として出版するつもりだったかどうかも不明です。

しばらくは作曲者の最後に作曲した4曲として扱われてきましたが、この後にもうひとつの歌曲を作曲していた事が分かりました。こちらはピアノ伴奏のソプラノ歌曲であり、当時活躍していたソプラノ歌手に献呈されていたのです。

しかし、『4つの最後の歌』がオーケストラ伴奏の歌曲であり、内容的にも「死」の予感を歌っており、作曲者が連作歌曲集にするつもりはなくともひとつの纏まりのある作品となっている事は否定できません。

これらを持って最後の輝きを見せる作品と取る事は誰もが納得するものと考えます。

マーラー『交響曲第9番』

マーラーは何といっても『第9番』しかありません。ベートーヴェンの「第9ジンクス」に恐れたマーラーを象徴する作品です。『交響曲第10番』を作曲中に亡くなってしまいました。

第4楽章の最後の小節に「死に絶えるように」と書き入れてあるように、作品全体を「死」が支配しています。まるでマーラー自身がこの作品が「白鳥の歌」になると分かっていて書いたような音楽です。

マーラーの場合は『第9番』だけに限ったわけではなく、「死」を意識させる作品を多く作曲していますが、『第9番』はどこにも救いが見えない音楽となっています。

最後にこんな傑作を作ったわけですが、マーラー自身はこの作品の演奏を聴く事なく逝ってしまったため、他の作品のように演奏後に作品に手を加える事が出来ませんでした。

マーラーがはもう少し長生きしていれば、この作品も今とは違った音楽になっていたかもしれません。第4楽章にはマーラー独特の各種の指示が非常に少ないという指摘がありますから、彼は後で手を加えようとしていた可能性も否定できないのです。

2002年、小澤征爾がボストン交響楽団の音楽監督としての最後の演奏会に選んだ作品は、マーラー『交響曲第9番』でした。この作品はこういったような節目や記念すべき時に演奏される機会が多くあります。

マーラーの最高傑作であるとともに、ハイドンから続いてきた交響曲のひとつの完成形と位置付けられる事が反映されているからでしょう。

ブルックナー『交響曲第9番』

ブルックナーの「白鳥の歌」は『交響曲第9番』です。この『第9番』は未完成で、第3楽章までしかありませんが、通常そのままの形で演奏されます。

ブルックナーもマーラー同様、ベートーヴェンの第9ジンクスを超えられませんでした。とはいうものの、ブルックナーはマーラーと違い交響曲の番号などは意識しなかった人物です。

晩年のブルックナーは病が重くなり、病床の中で最後まで作品を完成させようとしていました。しかし、第4楽章を完成させる気力が残ってはいなかったのです。

ブルックナーは、もし完成しなかったら第3楽章の後に『テ・デウム』を演奏してほしい旨を生前語っていました。

しかし、現在は未完成の『第9番』を単独で演奏する事が当然であり、『テ・デウム』が演奏される事はほとんどありません。この2曲を合体させるのは、音楽的に見て無理な話だからです。

ブルックナーは第4楽章のスケッチを数多く残している事などから、この楽章を補完して完成させる試みが複数の人たちによってなされてきました。第4楽章付きというCDまで発売されています。

こういった試みは果たして本当に正しい道なのか、私は否定派です。モーツァルトの『レクイエム』のように完成までを他人に指示した上でのものだったらまだしも、そうではない場合は手を入れるべきではないと思います。

バルトーク『管弦楽のための協奏曲』

バルトークの「白鳥の歌」は『管弦楽のための協奏曲』です。この作品はバルトークがアメリカに亡命して孤立していた時期に、アメリカの音楽の友人たちが彼を助ける意味で、彼に依頼した作品であり、文字通り「白鳥の歌」となりました。

バルトークと言えば「オケ・コン」(『管弦楽のための協奏曲』の通称)が最高傑作と思いますし、人生の最後に輝いた作品です。アメリカでの不遇な生活を一変させた作品でもあります。

亡命後は身体を壊し、内にこもっていたバルトークをこの作品の依頼が全てを変えてくれました。友人たちの手を差し伸べる行為を意気に感じた彼は、寝食も忘れるぐらいの創作意欲を見せ、わずか2ヶ月という早さで完成させます。

バルトーク渾身の出来です。聴いていて面白く感じられるのも、作品の構成が素晴らしいから。これからどうなっていくのという思いが続く作品なのです。

現代作曲家の作品だからと敬遠している方もいらっしゃると思いますが、決して前衛的ではありません。ひとりでも多くの方に聴いて欲しい作品です。

チャイコフスキー『交響曲第6番』「悲愴」

チャイコフスキー『交響曲第6番』「悲愴」は彼の最晩年に作曲された、まさに「白鳥の歌」として相応しい名曲です。「悲愴」というタイトルも作曲者自身が名付けたもので、人生について作曲したものとチャイコフスキーは語っています。

チャイコフスキーによる当時の常識を打ち破る音楽であり、彼の最後を飾るに相応しい名曲となりました。とてもダイナミックレンジが広い作品で、超弱音から最強音まで使われている作品です。

この交響曲は作曲開始から8ヶ月で完成し、すぐに初演されています。しかし、初演は聴衆の反応はそれほどいいものではありませんでした。それでも、チャイコフスキーはこの作品に自信を持っていたと言われています。

残念な事に初演の9日後に彼はコレラにより亡くなってしまうのです。自殺説など死因は様々な説が存在していますが、どれもが推測の域を出ないものになっています。

「悲愴」はまるで自らの死を予想するような形で作曲され、演奏されました。だからこそ、自殺説という事まで出てくるのだと思われます。真相は闇の中ですが、名作だけは永遠に残って行く事でしょう。

ビゼー歌劇『カルメン』

最後の「白鳥の歌」はビゼーの『カルメン』です。ビゼーもチャイコフスキー同様、死の年に作曲され、初演された作品です。初演は成功とはいえず、少し手を入れる作業をしているところで、ビゼーは亡くなってしまいます。

残された部分を友人である作曲家エルネスト・ギローが完成させ、ウィーン上演で大成功を収め、その後は現在まで人気のオペラとなりました。ビゼーの「白鳥の歌」はビゼー最大の人気曲になったのです。

ビゼーはそれを知ることなく36歳の若さで亡くなってしまいました。最後の作品が最大の輝く作品だったわけです。文字通りの「白鳥の歌」となったわけで、この1曲だけでビゼーの名は音楽史に刻まれるようになりました。

台本の良さと音楽の良さが合わさると、1X1が1ではなく2にも3にも相乗効果が大きくなるのです。この作品の音楽、例えば序曲などは一度聴いたら忘れられないほどの魅力的であり、とても庶民的なものなので、人気になったと思われます。

どれもが素晴らしい「白鳥の歌」ばかりでした。
作曲家として完成され充実した時期に作曲されている作品だからこそ名曲が多くなるのは当然なのだよ。

まとめ

有名な作曲家の「白鳥の歌」を見てきました。ここに挙げた10作品は作曲家の最後に光り輝いた作品となったのです。交響曲、歌曲集、管弦楽曲、オペラとジャンルは違っていて、「白鳥の歌」は様々なものにわたっていました。

どれもが音楽史に残る名曲です。「白鳥の歌」が最大のヒット作になった作曲家も存在しました。命と引き換えに輝ける作品を残してくれた作曲家たちに感謝しながら、今後も彼らの名曲を味わっていきたいです。

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