ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル

クラシック音楽の本場欧米ではクリスマス・イブにはヘンデルの『メサイヤ』が良く演奏されます。そもそもメサイアとはメシア=キリストの意味で、クリスマス・イブに相応しい楽曲だからです。『メサイア』は作曲された当初から、非常に人気の高い音楽でした。

ヘンデルは恵まれた家庭に育ち、作曲家になってからはその当時から既に巨匠として名を馳せていました。そしてヘンデルが亡くなってからも1度も忘れられることなく、300年以上経った今でも彼の曲が演奏され続けている事は奇跡に近い物があります。

バッハでさえ死後はメンデルスゾーンが復活演奏するまで忘れ去られていた作曲家でした。今回はヘンデルの幼少期から大作曲家になるまでの道のりを辿って行きたいと思います。生まれ故郷のドイツを去り、イギリスで大成功を収めた理由なども徹底的に紹介します。

ヘンデルの生い立ち

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel、イギリスに帰化した後は、George frederick handel)は1685年2月23日、ドイツ中部のハレで生まれました。面白い事にバッハも同じ年に生まれています。バロック音楽を代表する2人が同じ年に生まれたというのも神のなせる業なのでしょうか。父親ゲオルクは宮廷つきの医師でした。家庭が豊かだったのも頷けます。

ヘンデルは聖マリア教会のオルガニスト、ツァハウのもとで、8歳から作曲とオルガン、チェンバロ、ヴァイオリンを学びました。幼い時からその才能は目を見張るものがありました。父は息子が生まれた時から法律家にさせようと思っていたため、音楽の道を目指す事に猛反対します。

しかし、ヘンデルはオルガンの才能がとても素晴らしく、この事が当時の領主のヴァイセンフェルス公爵の耳に入り、彼のオルガンを聴いてみます。領主は大層この演奏を気に入り、援助を申し出ます。この事により音楽の勉強を続けることができるようになるのです。

1702年(17歳)にヘンデルは法学を学ぶためにハレ大学に入りますが、音楽の道も捨てがたく思っていました。1697年に父は亡くなっていたため、自分の意志を通し音楽家への道に進むようになります。この年にハレの大聖堂のオルガニストの契約もしました。

ヘンデルのハンブルグ時代

1703年、18歳となったヘンデルはハンブルグへ行きます。オペラ座があり音楽的にも繁栄していました。ハンブルグで当時のドイツで名を馳せていた理論家、マッテゾンに師事し、作曲を学びます。同年ハンブルグオペラのヴァイオリン奏者となり、後に通奏低音奏者になりました。

作曲活動も進め、1705年(20歳)に最初のオペラ『アルミラ』を作曲して成功を収めました。しかし、ハンブルグオペラそのものが堕落の兆候を見せ始めたために見切りをつけ、より良い音楽家に成るために、1706年に当時音楽の最先端地域であったイタリアに向かいます。

ヘンデルのイタリア時代

ハンブルグに見切りを付けたヘンデルはイタリアを旅します。当時のイタリアの歌劇はヨーロッパを制覇していましたから、その最先端を走っていたイタリアで自分の腕を試したいという、密かな思惑もあったに違いありません。ヘンデルはイタリアでも成功を納めます。

イタリアでの成功

1706年(21歳)から1710年(25歳)までイタリアの各地を巡りました。今となってはどこをどう辿ったのか定かではありませんが、フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリを訪れた事は分かっています。1707年(22歳)フィレンツェでイタリアでの最初の歌劇『ロドリーゴ』上演。

1709年(24歳)にヴェネツィアで上演されたオペラ『アグリッピーナ』上演は大成功を収め、連続27回も上演されました。当時ローマでは歌劇の上演は禁止されていたため、ローマでの歌劇の上演は出来ませんでした。ヴェネツィアで外国人の作品がこれほど成功するのは異例のことでした。

この頃からヘンデルの名は世界中に広まって行きます。そして現在までもその名が忘れられることなく彼の曲が聴かれ続けています。その頃の音楽といえば、教会音楽以外はほとんどイタリアオペラを指すぐらいのイタリアオペラ全盛期であり、その地での成功が世に認められたのです。

鍵盤楽器での競演

ローマで当時の一流の作曲家ドメニコ・スカルラッティと鍵盤楽器の競演を行っています。チェンバロとオルガンの二つの楽器を使った対決でした。両者とも当代きっての作曲家であり、演奏家でもありました。今にして思えば、超豪華な対決でした。その場に自分も立ち会いたかったです。

この対決は、チェンバロの腕前については評価が分かれ、スカルラッティの方が優れているとする者もあリましたが、オルガン演奏についてはヘンデルが断然圧倒し、スカルラッティ自身がヘンデルの強い影響を受けたという逸話も残っています。

イギリスに帰化

ヘンデルはイタリアからドイツに戻りますが、ロンドンでの仕事も増えてきます。そして、ついにヘンデルはイギリスに帰化し、イギリスの音楽界の中心的存在となっていきます。ヘンデルの成功物語はここから本格的に始まっていくのでした。

ハノーファー宮廷楽長就任

1710年、25歳のヘンデルは、イタリア音楽家アゴスティーノ・ステッファニの推薦によって、ハノーファー選帝侯の宮廷楽長となりました。ヘンデルはイタリア音楽の能力を買われて推薦されたと思われますが、彼は就任後直ぐに休暇を取ってしまいます。

せっかく宮廷楽長の座に就いたものの、ハノーファーには落ち着かず、ハレで年老いた母を訪れた後、デュッセルドルフに滞在し、その年の暮には初めてロンドンを訪れます。ヘンデルにとって、ロンドンという都市は、何物にも代えがたいものを与えてくれるのでした。

ロンドンでの成功

当時、ロンドンではすでにイタリアオペラの上演が盛んに行われており、ヘンデルも1711年(26歳)にロンドンで最初のオペラ『リナルド』を上演し、15回の上演を数える大成功となりました。6月にオペラのシーズンが終わるとデュッセルドルフを再び訪れた後にハノーファーに戻ります。

翌1712年(27歳)11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにも拘わらずそのままイギリスに住み着きました。ハノーファー選帝侯の宮廷楽長の立場でありながら、満足にその仕事を果たす事無く、自分の気の向くまま自由な音楽生活を満喫していました。

ハノーファー選帝侯との因縁

当時のイギリスの女王アンが亡くなると、その後任にハノーファー選帝侯がジョージ1世となって新国王に決まります。ハノーファーの宮廷楽長になったにも拘らず、その任を果たさずロンドンで暮らしているヘンデルでしたから、自分に何らかのお咎めがあると思ったようです。

しかし、ヘンデルは彼の立ち回りの上手さもあって、二人は良好な関係を築きます。父親に法律家に成れと言われていただけあって、頭の回転も良かったのでしょう。ジョージ1世はハノーファーにいることの方が多く、音楽にもあまり熱心ではなかったようです。

ジョージ1世の時代、1717年(32歳)、有名な『水上の音楽』が作曲されます。国王が代わった後もヘンデルは従来と同じようにオペラや宮廷の祝祭音楽などの作曲を続けます。音楽家として、とても恵まれた地位を築きます。この自由さがロンドン定着を決意させた理由なのでしょう。

イギリス帰化、改名

何がきっかけになったのか明記した資料はありませんが、1727年(43歳)にイギリスに帰化し、名前もジョージ・フリデリック・ハンデル(George frederick handel、セカンドネームのスペルは3種類ありますが、ここでは良く使われているこれを用います)と改名しました。

イギリスに帰化した直後の1727年2月13日に、正式に王室礼拝堂付作曲家および宮廷作曲家に任命されますが、これはいわば名誉職のようなもので、生活は以前と変わりありませんでした。当時の音楽的英雄であったヘンデルに対して、自由に立ち回せる事が最善と考えたのでしょう。

ヘンデル反対派現る

1720年代に入ると、イギリスに帰化したといっても、元々ドイツ人が宮廷作曲家に就いているのはおかしいと思う貴族達が現れ、ヘンデルに反抗するようになります。彼らは「王室音楽アカデミー」に対しても反対運動を起こし、ついにはアカデミーは解散にまで至ります。

この動きは1737年ごろまで続きましたが、先陣を切っていた皇太子の熱が冷めたことなどから次第に落ち着いていき、また元のような形に落ち着きます。結局、何の変化もなく、この騒動は終局を迎えました。「王室音楽アカデミー」も復活され現在でも続いています。

ヘンデル『メサイア』作曲

反対運動などがあり、意欲を失ったヘンデルは、歌劇活動を制限し、オラトリオ(主に聖書をテキストにした宗教音楽)を中心にすえた作曲家に転進していきます。人間、やはり最後は神にすがるようになるのですね。しかし、そのために傑作『メサイア』が誕生します。

オラトリア作曲家への転向

1736年(51歳)から数年間はオペラとオラトリオを平行して作りますが、1736年にオラトリオ『アレキサンダーの饗宴』、1738年(53歳)にオペラ『セルセ』(冒頭のアリア『オンブラ・マイ・フ』はCMで使われたりしてとても有名な曲)などがあります。

オペラは1741年(56歳)の作品が最後で、その後はオラトリオだけになって行きます。結局、終生で作曲したオペラの数は36曲といわれています。オラトリオは旧約聖書を題材にしたものが殆どで、演奏は教会での礼拝を意識したものではなく、公開演奏会での演奏を前提にしたものです。

『メサイア』誕生

1741年(56歳)に、ヘンデルの最も有名な曲『メサイア』が完成しました。慈善演奏会で演奏される機会が殆どでしたが、大好評を得ています。ヘンデルは、オラトリオ作曲家としての名声を高めていったのです。現在聴いても、この楽曲は感動する楽曲です。

『ハレルヤコーラス』では立つのが慣例になっていますが、この楽曲を聴いた国王が起立して拍手したというのは後付の出鱈目ですから、立たなくてもいいです。私は1度も立った事がありません。却って隣近所の席に迷惑が掛かりますから、今度からは座って聴いていましょう。

宮廷音楽家の役目

オラトリオ作曲家となってからも、宮廷の祝祭音楽の作曲は続きます。声楽曲も幾つかありますが、何といっても有名なのは『王宮の花火の音楽』です。これはオーストリア継承戦争が1748年にようやく終結し、その祝典が1749年(64歳)に開かれたときのために作曲されたものです。

ヘンデルの晩年

ヘンデルの晩年は白内障に悩まされていました。1751年(66歳)に左眼の視力、1752年(67歳)には完全に両目を失明してしまいます。作曲どころの話ではなくなってしまいます。1758年(73歳)の夏、有名な眼科医による手術を受けましたが手術は失敗に終わります。

作曲家として、また、音楽家として視力を失った事は、ヘンデルにとってとても歯がゆい事だったでしょう。視力を無くしてからは、細々と音楽活動は継続していましたが、翌1759年、死去しました。享年74。ヘンデルは独り身であったため今も一人ウェストミンスター寺院に眠っています。

ヘンデル豆知識

ヘンデルほどの大作曲家でも、なるほどそれは知らなかったといった事が以外と多くあります。そんな中から、三つほど豆知識として紹介します。どれも、有名な話ですから、知っている方も多いかなとも思います。あやふやに覚えていた方はこの際しっかり頭に刻んでおきましょう。

英語圏ではハンデル

日本ではヘンデルの事を今もドイツ名の「ヘンデル」と言っていますが、英語圏では彼のことを「ハンデル」と呼びます。これは彼がイギリスに帰化したためで、例えばアメリカで『メサイア』を紹介する時は当然「ハンデル」の作品と紹介します。

勇士は帰りぬ

なんといってもヘンデルといえば『メサイア』ですが、同様に超有名な曲ももう1曲あります。主にスポーツの表彰式に流れる音楽です。誰でも知っていますよね。これは『ユダス・マカベウス』という1747年に作曲されたオラトリオの1曲で、『勇士は帰りぬ』という曲です。

英欧では今でも人気作曲家

イギリスではしばしば重要な行事でヘンデルの音楽が採用されます。少々前の事になりますが、チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式でキリ・テ・カナワが歌った曲もヘンデルの物ですし、サッカー・UEFAチャンピオンズリーグの入場曲もヘンデルの曲が原曲です。

まとめ

作曲家としてデビューしてから生涯にわたって大活躍してきた作曲家です。晩年は失明という作曲家としては致命的な病気で作曲はできなくなりましたが、彼の生涯は決して後悔の無い一生だったと思います。作曲家としては満足できる生涯だったと思います。

300年の長きに渡ってヘンデルの『メサイア』は演奏されて来ました。そして、現在でもその輝きは少しも失われる事なく、燦然と音楽史上に輝いています。それだけでも我々はヘンデルに感謝したいと思います。名曲を残してくれてありがとう、と。

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