中村紘子

2016年7月26日、世界を照らしていた灯かりのひとつが消えました。日本クラシック音楽界を照らし続けた天才ピアニスト中村紘子が72歳、大腸がんで亡くなったのです。彼女が病気で入院するというニュースは知っていましたが、訃報を目にした時、にわかには信じられませんでした。

残念ですが、もう彼女はいません。彼女の残した沢山の音楽、演奏、文章、言葉、テレビ番組、みんな素敵でした。彼女の素晴らしさをもう一度振り返ってみましょう。ようやく彼女について語れるようになった今、彼女を忘れないためにも、きちんと見返して心にしまっておきたいです。

クラシックファンとして彼女の演奏を愛し続けた、私なりの追悼をこの記事でさせていただきます。クラシック音楽を、そして中村紘子という日本屈指の女性ピアニストを愛する全ての人々に少しでも共感して頂ければ幸いです。

中村紘子との出逢い

中村紘子との出逢い
ピアノの楽しさや面白さを教えてくれた彼女の人生がこんなにも早く終わりを迎えるとは・・・本当に、心から残念で仕方がありません。中村紘子との出逢いは私がまだ中学生だった頃、最初に買ったクラシックのレコードが彼女の「ショパンリサイタル」だったと記憶しています。

写真がついた素敵なレコードで、表紙のモノトーンの魅惑的な彼女の瞳はとても素敵でした。

中村紘子のレコードを選んだ理由

今でこそ超がつくクラシックファンですが、中学生の私はまだクラシック音楽に興味を持っていませんでした。当時のアイドル天地真理、浅丘めぐみらのドーナツ盤と一緒にレコード棚の端っこに、中村紘子のショパンのLPが場違いな感じで置いてありました。

どうしてあのLPを買ったのか、もう忘れてしまいました。当時の私は、おそらく、ピアニストは中村紘子しか知らなかったからだと思います。それにLPの綺麗なジャケット写真に興味をそそられたのです。後者の方が圧倒的に大きな理由だったのでしょう。

中村紘子とは

中村紘子は日本クラシック音楽界を代表するピアニストでした。ピアニストであったにもかかわらず、その美貌や話術の上手さからテレビの司会やゲスト、また、コマーシャルにも出演していました。クラシックファンじゃなくても知っている方が大勢いると思います。

中村紘子の略歴

  • 1944年7月25日:疎開先の山梨県東山梨郡(現甲州市)生まれ
  • 1948年:「子供のための音楽教室」に入り、井口愛子に師事
  • 1954年:レオニード・コハンスキーに師事
  • 1954年:両親離婚、母に育てられる
  • 1954年:全日本学生音楽コンクール小学生の部で第1位受賞
  • 1958年:全日本学生音楽コンクール中学生の部で第1位受賞
  • 1959年:日本音楽コンクールで第1位特賞受賞
  • 1960年:岩城宏之指揮東京フィルハーモニー交響楽団にてデビュー
  • 1960年:NHK交響楽団初の世界ツアーのソリストに抜擢
  • 1961年:日本人として初めての全額奨学金を獲得してジュリアード音楽院に入学
  • 1965年:ショパン国際ピアノコンクール第4位入賞、最年少受賞
  • 1974年:庄司薫と結婚
  • 1982年:チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門審査員、これ以降様々なコンクールの審査員になる
  • 1989年:「チャイコフスキーコンクール」で大宅壮一賞受賞
  • 2005年:エクソン・モービル音楽賞受賞
  • 2008年:紫綬褒章受賞
  • 2017年7月26日:大腸がんのため永眠、旭日中受賞追贈

中村紘子・世界的なピアニストへ

中村紘子©Hiroshi Takaoka

ひとりの少女があっという間にピアニストの階段を駆け上がり、世界に羽ばたく一流ピアニストになっていったのか。様々な分野で遺憾なく才能を発揮してタレント性を高めてきたのか、中村紘子の類まれな素晴らしい才能の数々を見ていきたいと思います。

天才少女誕生

1944年疎開先の山梨県東山梨郡(現甲州市)で生まれ、東京都世田谷区等々力で育つ。本名福田紘子。3歳のときに桐朋学園音楽科の前身である「子供のための音楽教室」第1回生として通い始め、井口愛子に師事します。

同期には小澤征爾や江戸京子、堤剛という現代の名だたる音楽家がいました。教室内でちゃんばらごっこなどをして、教師の吉田秀和らを困らせたという話は有名なエピソードです。彼女が率先してやっていたそうですから、幼い時からリーダーシップがあったと想像できます。

早くから天才少女として名をはせ、全日本学生音楽コンクールの小学生部門、中学生部門と優勝を重ねたのち、慶応義塾中等部3年在学中に第28回日本音楽コンクールにおいて史上最年少で第1位特賞を受賞しました。

世界への飛躍

NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビューします。各国からの要望で、とても弾きにくそうにしながらも振袖姿でショパンの『ピアノ協奏曲1番』を弾いていました。その後、ジュリアード音楽院で日本人初の全額奨学金を獲得しました。

ピアニストとしての最大の功績はショパン国際ピアノコンクールの最年少入賞です。20世紀最高の音楽批評家の一人とされるハロルド・ショーンバーグが、ピアニストに関する代表的な名著『偉大なピアニストたち』の中で東洋人ピアニストとしてただ一人彼女の名を挙げました。

中村紘子の特色を「絢爛たる技巧」と「溢れる情感」、そして特に「ロマンティックな音楽への親和力」と、絶賛しています。彼女はショーンバーグのお気に入りのひとりでした。

3800回を超える演奏

中村紘子は国内外3800回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了しました。簡単に3800回と言いますが本当に凄いことです。地方公演に力を注ぎ、精力的に日本全国を回った結果でしょう。日本のクラシック音楽の普及に本当に貢献したピアニストでした。

演奏会場に行けなくても、テレビ番組を通じて中村紘子の演奏に触れた事のある人も大勢いたと思われます。指揮者の小澤征爾や岩城宏之、作曲家の山本直純や黛敏郎らと共に、テレビ時代のクラシック音楽界のスターを演じていました。

テレビで彼女の演奏を聴いて、ピアニストに憧れた子供たちは数知れません。その当時は高度経済成長時代と相まって、子供にピアノを習わせる家庭も随分多くなりました。誰もが中村紘子のようになりたいと思いつつ、ピアノ教室に通い始めたのでしょう。

中村紘子【日本へのこだわり】

中村紘子【日本へのこだわり】

日本人として嬉しかったのは、彼女が海外を拠点としないで日本に留まった事です。夫と話し合った結果でもあったようです。彼女にとってはマイナス面が大きかったかも知れませんが、我々にとっては彼女の演奏をそれだけ多く聴く事が出来るようになった訳です。

彼女が全国を回って演奏会を開いてくれる事でクラシックファンが増えました。また、テレビのバラエティ番組にもよく出ていました。CMにも出てましたし、本当にクラシックを身近にしてくれた事が、彼女の凄い所なんだと思います。クラシックファンも随分増えた事でしょう。

晩年は若手ピアニストの育成、紹介の仕事にも力を入れました。浜松で国際ピアノコンクールを始め、審査委員長になり、多くの優秀なピアニスト達を生み出し、このコンクール自体を国際的なものに育てました。

審査員としての中村紘子

チャイコフスキー国際コンクール

1982年、チャイコフスキー国際コンクールの審査員に選ばれ、それ以来数々のコンクールの審査員の仕事を務めるようになりました。ショパン国際ピアノコンクール、ロン・ティボー国際コンクール、ヴァン・クライバーンコンクールなど10以上のコンサートの審査員をこなしています。

浜松国際ピアノコンクールでは審査委員長を15年間に渡り続けました。これだけ著名なコンクールから毎回審査員のオファーがあったという事はいかに中村紘子が世界的なピアニストであったかを物語るものです。本当に彼女の才能は多岐に渡るものなのだとわかります。

音楽家の将来を決めてしまう可能性もある審査員という役職は、中村紘子にとっても非常に重要で、かつプレッシャーやストレスが大きくかかるものだったと思います。

エッセイストとしての中村紘子

中村紘子 エッセー
天才ピアニスト中村紘子は音楽家だけでなく、物書きとしてもその才能を発揮しました。チャイコフスキー国際コンクールの審査員をやった時の感想をまとめた『チャイコフスキー・コンクール』は1989年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。

多数の著書を執筆

  • アルゼンチンまでもぐりたい
  • ピアニストという蛮族がいる
  • コンクールでお会いしましょう
  • どこか古典派(クラシック)
  • etc…

上記の本以外にも本当はエッセイストなのではないかと思うぐらい、読み応えのある作品が多いです。愛猫に対するエッセイなど気楽な話は面白おかしく読めますし、映像描写だけではなく、音楽評論やもっと大きく文明論まで発展するような幅広い知識を惜しみなく披露しています。

幸田延や久野久を扱った『ピアニストという蛮族がいる』ではピアニストの悲劇的な一面を捉えた文章に涙したりと、作家顔負けの出来栄えになっています。CDを聴くだけでなく、彼女の本も一度読んでみてください。ピアニスト中村紘子のイメージが少し変わると思います。

中村紘子の挫折


あの中村紘子でも大きな挫折がありました。今まで信じていたものが音を立てて崩れていく、本人に取ってとても残酷な日々だった事でしょう。彼女にはいろいろな名著がありますが、4位入賞したショパン・コンクールについてはあまり多くを語っていません。

全てを否定された中村紘子

15歳で日本音楽コンクールに優勝し、N響初の海外公演のソリストに抜擢されたあと、ジュリアード音楽院に留学したところ、ロジーナ・レヴィン教授に基礎から直すように言われてショックを受けたという話です。

「それこそもうショックで無気力になって、壁を見つめて一日ボーッという感じで、ピアノにも触れないという状態が半年ほど続きましたね。」とのちに彼女が語っています。その後すぐにショパン・コンクールに出て入賞はしましたが、優勝したマルタ・アルゲリッチの実力に絶望します。

あんなテクニックは自分には真似できない、今の自分の音楽性では表現できないと言っています。しかし、それ以上のことは彼女は何も書いていませんし、インタビューでも語っていません。日本での先生だった井口愛子に気を遣ってその辺の事情は話題にしなかったのかもしれません。

日本のピアニスト教育への貢献


この問題を多く語らなかったのは、日本で教わったテクニックを全否定する事になるからでした。当時の日本の主流はハイフィンガー奏法というもので、3歳からずっとそれで練習してきた彼女にとって半年ほどピアノに触れられなくなる気持ちは察するに余りあるものだったでしょう。

中村紘子は、この時の経験を踏まえ、若いうちに世界で通用する奏法を身につけられるよう、1996年に浜松国際ピアノアカデミーを創設するなど、教育活動にも情熱を注ぎました。身体のメンテナンスにも気を配り、デビュー50周年では全国で80以上も公演をこなしました。

中村紘子【結婚】

中村紘子【結婚】
有名な話で知っている人も多いと思いますが、一応書いておきます。中村紘子の夫は作家の庄司薫です。『赤頭巾ちゃん、気をつけて』で芥川賞を受賞されています。今の若い人たちには馴染みがないかもしれませんが、我々世代は彼の4部作を夢中になって読んだものです。

『赤頭巾ちゃん、気をつけて』の中で「中村紘子みたいな女性と優雅にショパンなどを弾きながら暮らそうかなんて思ったりもするわけだ。」との1文が出てきます。これを彼女が友人から聞いてその本を手に取り、庄司薫の写真を見た瞬間、「私、この人と結婚する」と直感したそうです。

彼女の方からいろいろな伝をたどり、庄司薫に会いに行き、交際を始め、ついに5年後二人は結婚します。彼女の積極性がよく出ている話で、微笑しながらこのエッセーを読みました。この話はどこかの新聞社が載せた物で、のちに彼女の何かの本にまとめられているはずです。

中村紘子は料理上手

料理上手なピアニスト
テレビ番組でピアノを弾きながらスクランブルエッグを作っていました。グランドピアノの鍵盤の横にガスコンロを置いて、左手でピアノを弾きながら、卵を割ってフライパンに入れ、卵をかき混ぜて、調味料を振り完成するところまでを、ワンカットで流していました。

ピアノの音楽は一度も止まらずに最後まで弾いていました。曲はショパンの『子犬のワルツ』だったような?ピアニストって凄いなと感心したのはこの時が初めてでした。天下の中村紘子がこんなことしてくれるのも、彼女の人柄が出ていて感激した思い出があります。

中村紘子は猫好き

猫好きなピアニスト
『私の猫ものがたり』は猫好きの私にとって最高に楽しめた1冊でした。猫好きな有名人たちの猫に対するラブレターのような本です。彼女が高層マンションに住んでいるため、定期的に猫にリードを付けて散歩をさせるといつも狸に間違えられる話とか、猫好きには笑える話でした。

中村紘子【追悼】

中村紘子【追悼】
2014年別の病気で手術した際、大腸がんが見つかります。一度は復帰しましたが、2016年7月26日大腸がんのため永眠しました。わがままを言って病院から自宅に戻り、72歳の誕生日を夫と二人でお祝いした翌日の事です。夫からプレゼントされた指輪を握り締めて旅立ちました。

中村紘子さんを偲ぶ会

2016年9月17日「中村紘子さんを偲ぶ会」、ステージ正面の高台に置かれた漆黒のグランドピアノ。誰も弾くことはありません。故人をおいて弾ける者はほかにいない。とても印象的な光景です。そう彼女はもういないんです。

「中村紘子さんを偲ぶ会」には皇后陛下からの供花もあったそうです。世界各国を舞台に活躍したピアニスト。戦後の日本で奇跡のような、気高くも豪放なピアノを鳴らし、ショパンやラフマニノフの音楽を全国津々浦々まで浸透させた功労者でもあります。

ショパン弾きとして知られていますが、ショパンに限らず、とりわけラフマニノフやチャイコフスキーなどロシアのロマン派音楽で情感あふれる華麗な演奏を聴かせました。高貴なロマンチシズムの響きは、ジュリアード音楽院で師事したロジーナ・レヴィーンの教えによるものです。

ピアニストとして数々のレコーディングをしていますので、その点では恵まれたピアニストでした。残されたレコーディングアルバムはこれからも改めて聴き込まれます。中村紘子はピアニストの代名詞であり続けるでしょう。それに相応しいレコーディングを残しています。

中村紘子さん 安らかに

「上手い人は山ほどいる。大切なのは聴き手になにを伝えるか。」彼女の言葉です。彼女がピアノという楽器を通して聴き手に音楽を伝えるために、毎日どれだけピアノの練習を繰り返してきたか。手術を受ける時もピアノが弾けなくならないようにという事をいつも気にしていたそうです。

亡くなる前日も「モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試す」と夫に、興奮の面持ちで語っていたといいます。最後までピアノ演奏にこだわりを持ち続けた彼女の生き方は、私たちに多くのことを教えてくれます。

国際ピアノコンクールの審査や文筆などを通じ、後に続く世代を教える側に回っても「あしき日本的奏法の撲滅と、グローバルスタンダードへの接近」をつねに標榜し、日本のピアノ界全体の水準向上に全身全霊を捧げた人でした。

中村紘子を惜しむ音楽界からの声

2016年7月、訃報のニュースが流れると各界からお悔やみの言葉が寄せられました。中村紘子という稀代の一流ピアニストの交友の広さを物語るものでした。ピアニストとしてだけでなく、その人間性も本当に素晴らしい人でした。

外山雄三氏【指揮者】

オーケストラと練習していてあなたの表情が一瞬、キッとなることが時々ありました。潔癖なあなたの感性が許せないことが起きた瞬間だったに違いないけれど、すぐに思い直して優しい表情に戻るのをしばしば見ました。

萩谷由紀子氏【音楽評論家】

ものすごく記憶力がいい人で、会った相手のことは人柄や性格を含めよく覚えていた。必ず手書きの文章で返事をくれる人だった。

 

大友直人氏【指揮者】

クラシック音楽界で、実力、知名度ともに一時代を築き、足跡を残されたという意味で、小澤征爾さんと並ぶ方だった。

堤剛氏【チェリスト】

心に穴があいた感じ。『子供のための音楽教室』で一緒に学んだ小学生時代からの友人で、チャンバラごっこなどをして遊ぶときにもリーダーシップを発揮していた。そして、ピアノだけでなく、音楽全般の魅力を広く伝えるリーダーになった。音楽を通じて社会貢献したいとも考えて、それが教育という形で実を結んだ。その精神を引き継ぐことが供養になると思っています。

青柳いづみこ氏【ピアニスト・文筆家】

72歳のお誕生日翌日の旅立ちはあまりに早い。4月にミューザ川崎で弾かれたモーツァルトの24番の協奏曲は、一切の夾雑物を排した名演だったときく。演奏家として文筆家として、円熟の境地にはいった中村紘子さんをもっ と聴き、もっと読みたかった。

ワルシャワのショパン協会からの訃報

「優れたショパン解釈のできる日本人ピアニストのひとりで、第7回ショパンコンクールの4位入賞者、のちに審査員もつとめた。日本でのショパン音楽の普及に相当なる寄与」と紹介

中村紘子を惜しむ政界からの声

政官界や経済界にも多くのファンがいました。彼女が音楽界だけでなく、日本という国にまで影響力を持ったピアニストだったのでしょう。本当に日本が世界に誇る一流の音楽家でした。

細田博之氏【衆議院議員】

日本国にとっても世界の芸術にとっても大変な損失である。

近藤誠一氏【元文化庁長官】

私がワシントンの大使館にいた時に初めてお会いし、ショパンの『バラード第1番』を聴いてとても感動したのを覚えている。
その後、中村さんのホームコンサートに何度も招かれて、家内とピアノ連弾をやって笑われたりした。ピアニストとしては超一流、人柄も素晴らしかった。

その他の分野の人々からの追悼の声

日本文学研究者のドナルド・キーン氏
「中村さんは文章も優れていて、エッセーをたくさん書かれて読まれています」

夫・庄司薫(本名・福田章二)氏
「(25日)の誕生日を迎える日も、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだと言って興奮していました。僕もそれを聞きたいと熱望していました。残念です」

2016年7月30日の朝日新聞、天声人語
「72年の生涯だった。勝ち気で前向きでしぶとくて、常に周囲を励まし気品があって、恐ろしく楽天的かつ芯のしっかりした大輪の花のようなピアニストだった。」

まとめ

大好きだった中村紘子について私なりにまとめてみました。日本の音楽界にとって如何に大切な人を失ったのか、改めて振り返って彼女の偉大さを実感しています。日本のピアノ界の為に汗を流し、隠し事無く事実を話し、音楽のために人生を捧げた人でした。本当に尊敬に値します。

私達はこれからも彼女を忘れません。ずっとずっと彼女の音楽を聴き続けて行くでしょう。そして彼女の才能にその都度驚くことと思います。

中村紘子さん、ありがとうございました。

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