ピアノ

カラヤンが亡くなってから30年以上過ぎてもなおカラヤンの人気の高さや話題には事欠きません。20世紀に活躍した最後の偉大なる巨匠指揮者であり、夥しい数の録音を残した事でも有名です。

ベルリン・フィルという世界的オーケストラの終身音楽監督となってからのカラヤンは、自身の考える音楽性を追求すべくオーケストラまでも変化させてしまいました。

カラヤンのこうした音楽作りは多くの愛好家たちの支持も集めましたが、否定的な意見を持つアンチ・カラヤン派の数を増やした事も事実です。では、彼の目指した音楽性は間違ったものだったのでしょうか。この事を考えていこうと思います。

カラヤンの簡単なプロフィール

1908年4月5日、オーストリアのザルツブルク生まれ。ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で音楽を学びました。

1934年にドイツのアーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任したのを皮切りに、1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者、1948年にウィーン交響楽団の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督と着実に足場を固めていきました。

1955年にはついにベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督まで登りつめます。1956年にはウィーン国立歌劇場の芸術監督にも就任し、ヨーロッパ楽団の中心的地位を占め、この頃から「帝王」と呼ばれ始めました。

ウィーン国立歌劇場の芸術監督は1964年で辞任しましたが、その後、ザルツブルク復活祭音楽祭、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を相次いで創設。ベルリン・フィルがオーケストラ・ピットに入りオペラを上演するなど話題を集めました。

ベルリン・フィルとは長い間良好な関係を築いてきましたが、1982年、クラリネット奏者のザビーネ・マイヤーを入団させるさせないという所謂ザビーネ・マイヤー事件が起き、両者の関係に亀裂が生じます。

両者は一応の和解に至りましたが、一度生じた亀裂はますます大きくなり、カラヤンはウィーン・フィルとの関係を深めていきました。

そしてついに、1989年4月24日、カラヤンは健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任を発表するという最悪の事態にまで発展します。

カラヤンは同年7月16日帰らぬ人となってしまうのでした。81歳の生涯の幕引きはちょっと残念な形だったのです。

順風満帆な音楽人生だったのに、晩年にベルリン・フィルと喧嘩別れしてしまいました。お互いに辛かったでしょうね。
強い信頼関係で結ばれていた関係だっただけに、両者の傷の深さは大きかったのだよ。

カラヤンの目指した音楽性

カラヤンの音楽美への追求は留まる事がありませんでした。音楽の響きの美しさを突き詰めた生涯と言っても良いのかもしれません。

カラヤンは1音1音おろそかにせず、音に拘り、究極の“美”に彩られた音を追い求めました。“美”への審美眼が凄かった人物なのです。

美しくない響きは音楽ではない、この大前提がカラヤンを貫いていた美学でした。そして、その美しさは絶えず流れているものでなくてはいけないと思っていたのでしょう。

カラヤン・レガートとまで言われたレガートを多く使用し、音楽の流れを非常に大切にしました。

また、カラヤンの音楽は音響的ダイナミクスがとても大きい物であり、金管楽器をこれでもかと鳴らす事がよくありましたが、カラヤンはそれでもそこには内声の音楽が聴こえてくる事も要求していたのです。

オーケストラに室内楽のような緻密さも求めていたためでした。重厚でしかも緻密なアンサンブルが同居できる事をカラヤンは証明したのです。

カラヤンの音楽美の追求は一部の評論家には音楽の内容が希薄になってしまっていて音響面の美しさだけに目を向けられすぎていると酷評されています。

しかし、多くの聴衆にはカラヤンの美学が受け入れられ、レコードの売上はかつてないほどの記録を打ち立てたのです。

ベルリン・フィルの変革

カラヤンは自分の音楽美を実際の音にするため、手兵であるベルリン・フィルにも変化を多く求めました。

カラヤンがオーケストラ側に求めたのは、次のようなものです。

  • 演奏時にはコンサートマスター2人がいる事
  • コントラバスは他の楽器より少し早く音出しをする事
  • コントラバスの人数を10人にする事
  • 弦楽パートはいつでも聴こえていなければならない事

重厚であっても緻密な演奏ができるような変化を望んだのです。ベルリン・フィルはポテンシャルの高いオーケストラですから、カラヤンの要求を短期間で身につけたました。

それまでも世界を代表するオーケストラであったベルリン・フィルはカラヤンの登場によって、異次元の進化を遂げていきます。

カラヤンの望む音楽をいつでも表現できうるオーケストラに変貌していったのです。

前任者のフルトヴェングラーの時代はまだドイツの古き良き時代の雰囲気を残したオーケストラでしたが、カラヤンによって世界のオーケストラが目標とするようなより汎用性の高い、都会的なオーケストラに生まれ変わっていきました。

インターナショナルなオーケストラ、世界の模範となるようなオーケストラに変化していったのです。

オーケストラには世界各国から腕の良いソリスト級の名人たちが集ってきました。

ヴァイオリンのシュヴァルベ、シュピーラー、ブランディス、チェロのボルヴィツキー、フィンケ、フルートのゴールウェイ、クラリネットのライスター、オーボエのコッホ、ファゴットのピースク、 ホルンのザイフェルト、トランペットのグロートなど錚々たる顔ぶれが集まったのです。

1960年代後半から1970年代をベルリン・フィルの黄金時代と呼ぶ方が多くいるのは、上記に挙げた名人たちがそれぞれ個性を際立たせていたためにそう呼ばれます。

どんな音楽にでも対応できるオーケストラとしてカラヤンが作り上げ世界に君臨しました。このベルリン・フィルがあったからこそカラヤンの目指した音楽が表現できたのです。

ベルリン・フィルまで巻き込んで自身の音楽美を追求したのですね。
手兵のオーケストラの変革までして理想の音楽美に近づいていったのだよ。指揮者としての冥利に尽きるね。

カラヤンの音楽には精神性がないのか

ここでは具体的に例を上げると分かりやすいと思いますので、2,3の例を紹介しながら話を進めていきます。

バッハ『ブランデンブルク協奏曲』

1964から1965年にカラヤン/ベルリン・フィルはバッハ『ブランデンブルク協奏曲』全曲集を録音しました。

バッハの演奏といえばリヒターに代表されるバロック専門家が厳しい音楽を再現するものがほとんどです。

それに対してカラヤンのバッハは非常に流麗でした。カラヤンの美学ではバッハでさえ美しくなければならなかったのです。

多くの専門家はこのバッハの演奏はバッハではないと批判しました。聴き易い美しい音楽はイージーリスニングかムード音楽のようであり、バッハの本質を捉えている演奏ではないという理由で批判されたのです。

しかし、カラヤンが感じたバッハはあくまでもこの演奏の通りであり、これもバッハの音楽の表現のひとつなのではないかとも思います。

カラヤンほどの指揮者がバッハの本質を捉えていないなどという事はありえません。カラヤンはそれを理解した上で自身の美学を優先したのだと思うのです。

ブルックナー『交響曲第8番』

次に挙げたいのが1975年録音のブルックナーの『交響曲第8番』。勿論オーケストラはベルリン・フィル。この録音が出たときにはアンチ・カラヤン派は一斉に攻撃したものです。

カラヤンのブルックナーは少しも精神性を感じない、あくまでもカラヤンの音楽でしかないと散々叩かれましたが、本当にそう思って聴いたのでしょうか。

カラヤン・レガートに反発が大きかったのでしょうが、じっくり聴き込めば、カラヤンのブルックナーはとてもレベルの高い音楽が展開されています。

前時代の巨匠たちが行っていた演奏と大きく違っているから認められないのでしょうか。何を持って精神性が感じられないと言っているのか不明です。

マーラー『交響曲第9番』

そしてマーラーの音楽でもカラヤンの音楽性は槍玉に挙げられました。例えばマーラー『交響曲第9番』。美しすぎる演奏はマーラーの本質を分かっていないためだと批判されます。

「死の影」が全く感じられない、マーラーはカラヤンには振れない等々好き勝手を言われたものです。

カラヤンのこの演奏はベルリン・フィルの長所をよく引き出した名演だと私には思えます。ユダヤ系のバーンスタインのような演奏はカラヤンにはできないでしょう。

バーンスタインの描くマーラーは異常なほど情感が籠もっています。バーンスタインだからできる演奏であって、これはバーンスタインの持つ個性です。こちらも私は否定するものではありません。

カラヤンにはカラヤンのスタイルがあります。カラヤンの演奏だからこそ伝わる音楽もあるのです。自分の思い描く音楽像とカラヤンの目指した音楽像が違うからと言って、音楽性がないという表現はいかがなものでしょうか。

国際的な音楽を求めて

カラヤンが目指したものは究極のオーケストラを作り、自身の考える音楽美を表現する事でした。

指揮棒を小さく一振りしただけでオーケストラが反応し、理想の音楽を奏でてくれるような関係を作りたかったのだと思います。

ベルリン・フィルの終身芸術監督になってから10年でそこまでの関係性を築き、そこから10年は両者の黄金時代と呼ばれたのです。

目を瞑って音楽に集中する指揮者などカラヤン以外いませんでした。その指揮に着いていけたのもベルリン・フィルしかいません。カラヤンとベルリン・フィルはお互いにお互いを必要とする存在でした。

カラヤンは世界標準のオーケストラはかくあるべしとベルリン・フィルをインターナショナル・オーケストラの頂点に立たせます。カラヤンの音楽美の前には国籍など要らなかったのです。

ドイツのオーケストラである必要がなく、あくまでも世界最強のオーケストラを作り上げました。ザビーネ・マイヤー事件がなければ両者はどんな形まで進化した事でしょう。

最後は関係はこじれましたが、その間に行った両者による演奏は長い時間が作り上げた信頼感に包まれたものでした。

カラヤンの功罪

カラヤンほどレパートリーの広かった指揮者はいませんでした。バッハからシェーンベルクまで、つまりバロックから現代音楽までを難なくこなしていたのです。

そしてそのレパートリーに入れた作品を次々と録音していきました。カラヤンの録音は驚異的な売れ行きを記録します。多くのクラシックファンの心を掴んでいったのです。

しかし、これさえも攻撃の対象になりました。大衆に媚びた音楽、音楽のセールスマンなど、まるでLP、CDが売れる事が悪い事のように批判されたのです。

カラヤンのLPやCDでクラシック音楽に興味を持ったファンを多く生み出した事はまるで評価されず、レコードセールスの数を嫉妬するかのようなコメントが絶えず繰り返されます。

音楽とは別に金の亡者のように言われた事はカラヤンとしては残念に思っているでしょう。カラヤンがビジネスマンとしても超一流だった事は決して悪い事ではありませんでした。

録音が売れるという事はベルリン・フィル団員ひとりひとりの収入も増えるという事です。オーケストラの収入が増える事はより音楽に専念できますし、より良い楽器を手に入れる事にも繋がります。

新たな人材を入れたい時にも、より待遇の良いオーケストラの方に人材は集まるのです。カラヤンはこれらの事を全て考えていて、だからビジネスマンとしての成功者とも言われるようになりました。

音楽には金が掛かる事をよく理解していたのです。天下のベルリン・フィルをインターナショナルなオーケストラにしたかったカラヤンは音楽以外の事柄でもやれる事は全てやりきりました。

ビジネスマンとしての仕事が時には避難される事があったのも事実です。自分たちの録音が売れなくなるからと、テレビでの演奏会の放映を拒否したこともあります。

こういったところが音楽セールスマンと揶揄されるところなのでしょう。

改めてカラヤンの音楽性とは

アンチ・カラヤン派の意見として代表的に思える音楽評論家の岩井宏之氏の言葉を引用しておきます。(出典 Wikipedia)

「カラヤンは、いかにもスマートで美しい響きを生み出していたものの、作品の中に込められている作曲家その人の、あるいは当の作曲家が生きていた時代の”切なさ”を十分に表出するには至らず、したがって聴き手の心に迫ってくる力が弱かった。」

「カラヤンがオーケストラに対すると、どんな作品であれ、美しく響かせること自体を目的にしているような趣があり、それが私には不満だった。」

カラヤンの美学がカラヤンの音楽性を生んだ事は先に述べた通りです。カラヤンの演奏が全て素晴らしいとは思いません。しかし、これほどまでに多くの作品をこんなにレベルの高い音楽として聴かせてくれた指揮者が今までにいたでしょうか。

「聴き手の心に迫ってくる力が弱かった」、「美しく響かせること自体を目的にしている」ーーー カラヤンの目指した音楽美は美しい音ですから、こういう批判が出てくるのも仕方がないかとは思います。

時には人工美とも形容されるカラヤンの音楽ですが、カラヤンの音楽をスタンダードではないと考えれば、こうした音楽美を目指した音楽性も許容されるのではないでしょうか。

カラヤンは自己のスタイルを確立し、それに邁進した指揮者だったのです。そういうカラヤンの音楽性を否定する事は誰にもできないと考えます。

カラヤンはそのカリスマ性と神秘性でスター指揮者となりました。一時はベルリン・フィルとウィーン国立歌劇場の音楽監督を同時にこなし、「帝王」とまで呼ばれます。

人気が出ればアンチも出てくるのは必然と思いますが、だからといってなぜカラヤンだけがこれほどまで批判を浴びるのでしょう。

スターとはいえスーパーマンではないのですから、万能ではないのです。カラヤンを否定しなければ通ではないような雰囲気が生まれた事に対し、どうしても悪意しか感じられません。

カラヤンの音楽性や芸術性について、もっと真剣に見直す時期が来ているのではないかと強く思います。

カラヤンを否定する事が音楽通なんておかしい話です!
そういう人達は本当のカラヤン像が見えていないのだろうね。もっと音楽性や芸術性について考えてほしいと思うよ。

まとめ

カラヤンの音楽性について見てきました。カラヤンの音楽が本当に人工美に満ちているのか、美しい音を追求する事は音楽の本質を疎かにしているのかなどを考察してきましたが、そういった音楽も否定されるものではなく、評価の対象とすべきと思います。

そんなに人工的な音楽なら多くの人はそっぽを向いたでしょう。しかし、現実に共感する人が多いという事はカラヤンの音楽を肯定している証だと思われます。

カラヤンの目指した究極の音楽美に興味を抱く人の多さを示しているのです。カラヤンの芸術性を認めているといえます。

そういった音楽性も肯定すべきだという事をカラヤン・ファンたちが実際に証明してくれているのです。

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