アルバン・ベルクという作曲家は新ウィーン楽派に属する作曲家です。調性が完全になくなり、十二音音楽を世に広めた楽派のひとりですが、ベルクの目指した音楽はその中でも聴き易さを求めたものでした。
十二音音楽の中で、あえて調性を意識した音楽を作ろうと試みた作曲家だったのです。矛盾するようですが、ベルクはそれに挑戦し、調性の崩壊による音楽の危機を何とか上手く回避できないかを考えた作曲家でした。
ベルクは裕福な家庭の出身でしたが、金銭的に困ったり、作曲家としてなかなか認められなかったなど、決して平坦な道を歩いた作曲家ではありませんでした。ベルクの歩んだ生涯を見ていきましょう。
ベルクの青年期まで
ベルクは幼い頃から音楽の才能に恵まれた生活を送り、将来を嘱望された人物でした。しかし、父の死をきっかけに順風満帆だった人生が変わっていきます。
ベルクの幼少期
アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg)は1885年2月9日、ウィーンに生まれ。父は商家を営み、何不自由のない暮らしをしていました。
母も芸術的な素養のある人物で、兄2人と妹1人の4人兄弟のベルクは文化的な生活を送っていたのです。
そんな幸せな家庭の生活が一変したのは、1900年に父が心臓発作で急死してしまった事から始まりました。裕福だった家族が経済的に困窮する事態となったのです。
そんな中で、ベルクは雇っていたメイドの女性を妊娠させてしまい、私生児として生まれた子供の責任を取ることになります。また、学業の成績も低迷し、卒業試験にも失敗してしまい、自殺未遂まで起こしてしまいました。
ベルクの10代後半は父の死から始まり、波乱にとんだものとなってしまうのです。中産階級の没落の悲劇をしみじみ味わうのでした。
ウィーン音楽院入学
1904年(19歳)、ベルクは学校を卒業し、役所の会計士見習いとして働き始めます。とにかく一家の経済を安定させる事が第1でした。
そんな折、ベルクの音楽の才能に気付いていた兄がシェーンベルクに働きかけ、何とか無償でシェーンベルクの弟子になる算段をしてくれたのです。
1905年(20歳)に母方の遺産を引き継いだことで、一家は財政的な危機を脱します。これによりベルクも役人見習いの仕事を辞めて音楽の勉強に専念する事が可能となりました。そして、彼はウィーン音楽院に入学するのです。
ウィーン音楽院の生活
シェーンベルクの弟子となったベルクは、兄弟子ウェーベルンと出会います。その後2人は生涯の親友となっていくのです。
『ピアノ・ソナタ』(1907-08年)、『4つの歌曲』(1909-10年)は、音楽院に入ってからの作品で、本格的な作曲活動を示す作品となります。
ベルクにとって、シェーンベルクは単なる師ではなく、生き方そのものも教えてくれる父のような存在でもあったようです。1911年にシェーンベルクがウィーンを離れるまで修行期間は続きました。
1908年7月23日、ベルクは喘息を発病し、死ぬまで悩ませられる持病となります。23歳だったこともあり、これ以降、ベルクは「23」を自分の運命の数字と定め、自らを表す数として作品の中で使用しました。
ベルクの音楽院時代、彼はマーラーに夢中になります。ウィーン国立歌劇場に通い、マーラーの指揮するオペラに感激し、終焉後の楽屋へも訪ねたりしていました。
まだ先の話になりますが、マーラーの死後は、その未亡人アルマや、アルマの次の夫である彫刻家のヴァルター・グロピウスとも親交を結んでいます。
1911年(26歳)、声楽を学ぶヘレーネ・ナホフスキーと結婚しました。皇帝の庶子という話もありますが真偽のほどは分りません。
ベルク作曲家としての歩み
ウィーン音楽院を卒業し、またシェーンベルクからも独り立ちした彼は、作曲家としてなかなか芽が出ませんでした。
作曲家としての船出は難航
音楽院を離れ、独り立ちしたベルクでしたが、作曲家としてのスタートは好発進とはいきませんでした。保守的なウィーンの聴衆には、現代音楽は先端的過ぎたのです。現在でも拒否反応をする聴衆がいますから、当時にすれば当然の事でした。
一時は作曲家として生きる事を諦めた時期もあったようです。音楽ライターとして生きようと考えました。実際、音楽雑誌に投稿などをしています。ベルクの文章力は優れたものがありました。しかし、ベルクは作曲家として生きる道へ戻っていきます。
『ヴォツェック』の成功
ビューヒナーの戯曲『ヴォイツェク』を観たベルクは、これをオペラにしようと考えます。作曲を開始したものの、第1次大戦が始まり、兵役に服務するため中断を余儀なくされました。
1917年(32歳)から作曲を再開し、無調のオペラ『ヴォツェック』は、1922年(37歳)に完成をみるのです。実に構想段階から8年間も要しました。
オペラ『ヴォツェック』は、1925年(40歳)、ベルリン国立歌劇場でエーリヒ・クライバーの指揮によって初演されます。初演にあたっての練習はなんと約150回にも及んだそうです。
初演はかなりの批判が上がりましたが、この上演によってベルクの名は知られるところとなりました。作品も徐々に認められるようになり、ベルクの名声は高まっていくのでした。
ベルクの作曲の考え方
ベルクは、師であるシェーンベルクの開発した十二音技法を自らの作品にも取り入れ始めます。しかし、その手法は師のシェーンベルクの考えたものとは違っていました。
シェーンベルクは、十二音技法を使用するにあたっての規則を作りましたが、ベルクはこの規則によらない音楽を生み出そうと考えたのです。十二音技法と調性音楽を両立させるような音楽を目指しました。
ベルクは聴き易い音楽に拘った結果、このような手法を選んだのです。彼の中には伝統的な調性音楽を無視できないという思いもあったのでしょう。
ベルクの晩年
ベルクは『ヴォツェック』の成功と自分の進める十二音技法が成功している事に気を良くし、新しいオペラに挑戦し始めますが、時代が暗さを増して来ました。
ナチスの台頭
『ヴォツェック』が成功を収めた事で、ベルクはすぐに次のオペラに取り掛かります。原作に選んだのは魔性の女「ルル」を主人公にした、フランク・ヴェーデキントの戯曲でした。
しかし、時代は戦争の足音が聞こえてくるようになります。ナチスの台頭によって、シェーンベルクがユダヤ人だった事から新ウィーン楽派への弾圧が激しくなり始めました。このため、ベルクは1933年(48歳)にアメリカに亡命します。
ベルクに批判的だった保守派の声は大きくなり、シェーンベルク同様、ベルクの作品も「退廃音楽」と批判され、『ヴォツェック』の上演もされなくなっていくのでした。
嫌な予感
1935年4月(50歳)、アルマ・マーラーの娘、マノンが18歳の若さで他界します。
マノンを可愛がっていたベルクは『ヴァイオリン協奏曲』を追悼の曲にする事にしました。「ある天使の思い出に」という副題が添えられています。
ベルクは時間を掛けて作曲する人でしたが、この『ヴァイオリン協奏曲』についてはかつてないほどの速さで書かれました。まるでそれは自身の死への予感があったように感じられます。
ベルクの最期
『ルル』の仕上げに掛かっていたベルクは、思わぬ出来事にあってしまいます。背中を虫に刺されてしまい、それが原因で重体にまでなってしまったのです。
ベルクは、1935年12月24日の未明、敗血症で息を引き取ります。まだ50歳という働き盛りの年齢でした。
いみじくも『ヴァイオリン協奏曲』に捧げられた言葉「ある天使の思い出に」が自分の身にも降りかかってしまったのです。この曲がベルク最後の曲になりました。
『ルル』のその後
オペラ『ルル』は、最終幕が未完のままで残されました。ヘレーネ夫人がベルクの全作品の管理を徹底するとともに『ルル』への補筆を全面的に禁止したのです。
ヘレーネ夫人が『ルル』の補筆を禁止した理由は、夫ベルクが不倫していた事実を知った事などで亡き夫への反感があったためと思われています。『ルル』の補筆版完成は夫人の死まで待たざるをえませんでした。
ヘレーネの死後、第3幕の補筆版(フリードリヒ・チェルハ補筆)が完成されます。補筆版はピエール・ブーレーズの指揮により1979年に上演されました。
死後40年以上が立ってようやく『ルル』は上演されるようになったのです。現在では『ヴォツェック』と並んで世界の歌劇場で上演されています。
まとめ
ベルクは、極めて寡作な作曲家でした。生涯で50曲ほどしか作品を残していません。1曲毎に時間を掛けて作曲していたのです。しかし、評価の高い作品が多くあります。
師のシェーンベルクが完成した十二音音楽を形を変えて自分の特徴とした作曲家です。親友、ウェーベルンとは別の道を選択したベルクでした。