バッハの生涯

ベートーヴェンは、ドイツ語の“Bach”が小川を意味する事から「バッハは小川でなく大海だ」と称しました。この比喩は大海のように音楽を大きく発展させ、様々な功績を残したバッハにぴったりな言葉でした。今尚「音楽の父」の異名を持つ偉大なる作曲家こそ、バッハなのです。

バッハは生涯1000曲以上もの音楽を作曲し、室内オーケストラを指導し、演奏会を行ない、時には教会のパイプオルガンを弾いて聴かせたりと、とにかく毎日音楽から離れられない人物でした。クラシック音楽に人生を捧げた人物と言っても決して過言ではありません。

寝る時間も惜しみ作曲に励んだため目を患ってしまい、晩年は過酷な日々を過ごした作曲家です。でも、意外と計算高かったりもする所がまたバッハらしいです。そんなバッハの生涯を幼少期から年代順にみていきましょう。彼がいかに音楽を愛し、愛されていたのかが分かります。

バッハ【幼少期】

バッハの幼少期
バッハがどこで生まれ、どんな環境で育ち、幼少期からどう活躍してきたかを見ていきたいと思います。どうしてこんな天才が生まれたかなどを知る手がかりになる筈です。バッハ家は昔から音楽で生計を立ててきた家系です。その中でも一際光る才能を持って生まれたのがバッハでした。

音楽一家の末っ子

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)は1685年3月31日、ドイツのアイゼナッハで町楽師の父ヨハン・ アンブロージウス・バッハと母エリーザベトの8番目の末っ子として生まれました。幼少期のバッハについてはほとんど資料が残っていません。

7歳で由緒ある聖ゲオルク教会付属ラテン語学校に入学しました。彼は学生合唱団に参加し美しいボーイ・ソプラノで歌っていました。その仕事が忙しいため学校の出席率はよくありませんでしたが、成績はたいへん優秀で3歳年上の兄と同じ学級に飛び級し、しかも席次も上でした。

しかし少年バッハは人生の厳しい試練に出会います。母に続き父を失い、僅か10歳で孤児となったバッハはオールドルフという町でオルガニストをしていた長兄に引き取られます。優れた音楽家であった長兄の元でバッハの音楽的教養は著しい進歩を遂げていくのでした。

バッハ少年の一人立ち

14歳になったバッハはやがて兄の元を離れ、一人立ちしなければならなくなりました。たくさんの人を頼り、ようやく北ドイツ、ハンザのリューネブルクの聖ミカエル教会の合唱団で、ボーイ・ソプラノ歌手として月給をもらいながら学業を続ける事となりました。

間も無くして変声期を迎え、ボーイ・ソプラノとしては活動できなくなりました。一時は教会を去らねばならない事態となりましたが、幸いな事に優れた才能が認められ、ヴァイオリンやヴィオラ奏者として教会に雇われます。バッハ少年はその音楽的素養のために救われたのでした。

この時代、中部ドイツの伝統から出発したバッハはリューネブルクとハンブルクで北ドイツのオルガン芸術とオペラを知る事になります。そしてツェレではフランス音楽と接し、益々その視野を広げていきました。各地の音楽を吸収した少年バッハの音楽性は更なる磨きがかかりました。

バッハ【アルンシュタット~ミュールハウゼン時代】

バッハ【アルンシュタット~ミュールハウゼン時代】
バッハが本格的な就職口を得たのはアイゼナッハの東にあるテューリンゲン地方の中心都市であるワイマールの宮廷で、18歳(1703年)の春4月にその宮廷楽団にヴァイオリニストとして採用されました。しかし、もっとより良い就職口を探し、教会オルガニストとして活動します。

アルンシュタットのオルガニスト就任

1703年の8月にはバッハ一族と縁の深いアルンシュタットで再建中の「新教会」が完成し、オルガニストとして勤めることとなります。何よりバッハを喜ばせたのは専任オルガニストとして自分で自由に使える楽器を得られた事でした。この事が後のバッハの音楽的発展に繋がっていきます。

ここでの職務はあまり忙しくなく、バッハは自分の勉強のため、かなり恵まれた時間を持てることになりました。この時期に彼は熱心にオルガンの演奏技術をみがき、オルガンの作曲法を詳しく研究しました。自分専用のオルガンを自由に駆使して、様々なオルガン曲を作曲し始めます。

またオルガニストとしての仕事以外に聖歌隊の指導と指揮にも従事しました。この事もバッハにとって音楽の質の向上に大いに役立ちました。聖歌隊のための楽曲を作曲し、それを指導に使いました。さらにバッハの最初の妻となるマリア・バルバラともこの時期に出会っています。

ミュールハウゼンのオルガニストに就任

バッハはアルンシュタットの教会の仕事をこなしながらも、並行して演奏旅行なども行っていました。しかし、それが元で、教会の上層部とトラブルが発生し、辞めざるを得なくなります。そして、1707年6月にミュールハウゼンの聖ブラージウス教会のオルガニストに採用されます。

この教会での仕事も前職と同じ、教会オルガニストでした。この頃になると、すでにバッハの能力は高く評価されていました。しかし、待遇は前の教会と大して変わりがなく、バッハとしては不本意ながらもその職を続けなくてはいけなくなります。結婚して、子供が出来たためです。

バッハの生活は決して楽なものではなく、常に良い条件の職場を探し求めていました。生活費の足しにするために教会とは関係ない作曲をして、それを売ったりしていました。こんな事情もあり、バッハは市当局と相容れず、結局1年程で次の職場に移っていくことになりました。

バッハ、最初の結婚

聖ブラージウス教会時代のバッハは、アルンシュタットで知り合ったマリア・バルバラと1707年10月17日に結婚しました。22才の若さで一家をもち、やがて2人のあいだには7人の子供が生まれます。生まれて間もなく子供を亡くしたりといった悲しい出来事もありました。

先に述べたように、この頃のバッハの生活は一家を支えるには収入が足りませんでした。そこで、要請があれば、何でも作曲し、それを売るアルバイトにも精を出します。この事が、この教会を去る要因の一つともなるのですが、背に腹は変えられぬバッハは、この生活を通します。

バッハは一家の家計を何とか豊かにしようと職探しを始めます。バッハの一生は本当にこんな感じで、好待遇を求めての職探しの連続でした。結婚はしたものの、幸せに浸るどころか、苦労の連続で、バッハの一番辛い時期でした。そして、ようやく次の職が見つかります。

バッハ【ワイマール時代】

バッハ【ワイマール時代】
1708年の夏、バッハは就職活動の甲斐あって、ワイマールに移り住むことになります。ワイマール宮廷での就職は2度目でしたが、今度は宮廷楽団の楽師および宮廷礼拝堂のオルガニストとして働くことになりました。ここから、ようやく後世まで残るバッハの名曲が生まれ始めます。

オルガンの名曲を数多く作曲

バッハはオルガンに対する深い知識と高い理想から、楽器の改造を求め、領主はこの要求を受け入れ、足かけ3年かけて改造されました。バッハの不滅のオルガン曲の半数近くがこのオルガンにより生み出されています。しかし、待遇は、彼が期待したほどではありませんでした。

1713年にはヘンデルの生地ハレを訪れました。バッハは、この地でより良い条件を出した教会に移ろうと考え始めていました。しかし、その事が領主の耳に入り、1714年、領主は彼の俸給を増やし、宮廷楽団の楽師長に任命しました。この結果、バッハはワイマールに留まることになります。

ワイマール時代の最も重要な作品はオルガン曲で、多数の前奏曲とフーガ、トッカータ、コラール前奏曲などがこの時代に作られました。また、楽師長に任命された以降はカンタータの作曲と演奏に集中し、現存する約200曲の教会カンタータのうち30曲近くがここで作られています。

不当な人事問題

楽師長の地位は楽長、副楽長に次ぐポストであり、当時の楽長は70才の老齢で、その息子の副楽長は無能な音楽家だったので、バッハは事実上楽長の役割を果たすこととなります。偉大な作曲家であり演奏家であったバッハは、同時に人並み以上の優れた教師でもありました。

ワイマール時代にも彼は何人かの有能な音楽家を育てたのでした。1716年の12月、老齢の宮廷楽長ドレーゼが亡くなります。過去2年間、事実上楽長の仕事を代行していたバッハは、当然自分が後任に選ばれると期待していましたが、結果はそうとはなりませんでした。

領主は副楽長をしていた無能なドレーゼの息子にその地位を与えたため、バッハはいたく心を傷つけられ、この事件以来ワイマールでの仕事に熱意を失っていきました。これが元で、バッハはまた、職探しにほんぽうし、新しい職場を探し始めるのでした。

バッハ【ケーテン時代】

バッハ【ケーテン時代】
バッハが新しい職場ケーテンに赴任したのは1717年も押し詰まったころでした。宮廷楽長の地位を手に入れた32才のバッハの胸は誇りと期待に大きく膨らんでいたことでしょう。事実、彼の期待は裏切られなかったばかりでなく、実りの多い幸福な生活が待ち受けていたのでした。

充実した音楽環境

前任者よりはるかに高い年俸で迎えられ、何より当時23才の若い領主レオポルトが音楽のよき理解者で、バッハの才能を尊敬し彼を友人として扱ってくれました。ようやく、バッハが望むような恵まれた職場と待遇に恵まれ、彼は次々と名曲を作曲するようになります。

領主レオポルトはオランダやイギリス、イタリアに旅して見聞を広めただけでなく、ヴァイオリンとビオラ・ダ・ガンバとクラヴィーアの演奏に素人の域を脱した腕前を示し、美しいバリトンの声を持っていました。ケーテン時代は恵まれた環境の中で自由に仕事ができたのです。

ケーテンの宮廷楽団は、弦楽器の他オーボエ・ファゴット・フルート・トランペットと打楽器を含む17人で編成され、楽員には優れた奏者が集まっていました。バッハの管弦楽や室内楽はこうした楽団や楽員のために作曲されました。この宮廷楽団により彼の作曲も大いに進んだのでした。

バッハ、名曲を多作

バッハの最高傑作に属する6曲の『ブランデンブルク協奏曲』、3曲の『ヴァイオリン協奏曲』、3曲の『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ』、3曲の『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』、6曲の『無伴奏チェロのための組曲』などをこの地ケーテンで完成させました。

この時代のバッハの作品は器楽曲が大部分で教会音楽はほとんどありません。その理由はケーテンの宮廷は、教会音楽を重んじないカルヴァン派 (改革派)に属していたからで、バッハはそれを承知でケーテンにやってきたのです。極上のオーケストラに魅力を感じたためです。

結果的には、7年後にこの地を去ることになるのですが、後に友人に宛てた手紙のなかで「この地で一生を過ごすつもりであった」述べているほど満足していたのでした。自由に作曲でき、自身の作品を演奏することの幸せ。音楽家ならば、こんなに素晴らしいことはないでしょう。

悲しい出来事

1720年35才のバッハはその年の5月、領主レオポルトに従ってボヘミアの避暑地カルルスバートに旅行しましたが、悲しい知らせが彼の帰りを待ち受けていました。13年間連れ添った妻のマリア・バルバラが、夫の帰りを待たずに7月7日に突然この世を去ったのでした。

バッハが帰郷したときは妻はもう埋葬された後でした。あまりに突然の死で彼の心は深い悲しみに沈みました。バッハがどれだけ彼女を愛していたか、心が痛む思いです。最愛の妻を失ったのですから、残された子供4人と共に、途方に暮れたことは容易に想像のつくことです。

バルバラの死から1年半後、16歳年下のソプラノ歌手アンナ・マグダレーナと再婚します。当時死に別れたらすぐに再婚することが一般的でしたから、1年半の独身生活はかなり異例の長さでした。それだけ、本当にマリア・バルバラを愛していたという事の証だったのでしょう。

新しい生活

1720年7月に妻のマリア・バルバラを失ったバッハは、1721年12月3日に2度目の妻を迎えることとなります。その後29年間文字通りバッハのよき伴侶として、夫の仕事を助けつつ、ヨハン・クリスティアンのようなすぐれた音楽家を含む13人の子供を生んだアンナ・マグダレーナです。

アンナ・マグダレーナとの幸福な生活のなかでバッハの筆からは次々と新しい作品が生み出されていきます。2巻から成る、『アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集』はバッハ一家の家庭音楽の音楽帳とみられています。実に40数曲も収められています。

このケーテン時代はクラヴィーアのための作品が非常に多くあります。この楽器購入はバッハの創作欲を大いにかきたてたのでした。『フランス組曲』、『イギリス組曲』、『平均律クラヴィーア曲集第1巻』、『半音階的幻想曲とフーガ』、『インヴェンション』などを生み出しています。

ケーテンを去る決意

音楽に深い理解をもつ主人に仕え、愛する妻と才能ある息子たちに囲まれたバッハの毎日は、この上なく幸福でした。しかしその彼が1723年にこの地を去ってライプツィヒのカントルの職に就くことになります。なぜライプツィヒに移ったのか、その理由として以下のことがあげられます。

第1には、レオポルト公が1721年の暮にアンハルト・ベルンブルクの公女フリーデリーカ・ヘンリエッチと結婚しましたが、彼女は音楽を少しも理解せずその影響でレオポルト自身の音楽熱も次第に薄れていったこと。第2に、息子の教育上、大学のある都市に移りたかったこと。

第3にライプツィヒの申し出た経済的条件がよかったことが考えられます。3ヶ月も決心を引き延ばしたほどで、よほどケーテンを去り辛かったことが伺えます。この地は、先に述べたように、友人に生涯この地で暮らしたいとの手紙を送っていたほど愛していた地であったためです。

バッハ【ライプツィヒ時代】

バッハ【ライプツィヒ時代】
10才で生まれ故郷のアイゼナッハを去って以来、バッハは各地を転々としながら、多忙な生活の中から次々と名作を生みだしてきました。その彼が38才の1723年から65才で世を去るまでの27年間、ライプツィヒの聖トマス教会付属学校カントル(合唱長)の地位を続けることとなります。

約束とは違う多忙さ

聖トマス教会は付属の高等学校をもち音楽教育が盛んで、ここの生徒たちによる合唱団が町全体の教会音楽の中心をなしていました。バッハは1722年6月1日に新カントルに就任しました。カントルの地位は校長、副校長につぎ、音楽教育の責任者という立場でした。

器楽や声楽の個人教授と合唱団の訓練がバッハに課せられた第一の使命でしたが、バッハは単に音楽教師だったわけではありませんでした。トマス合唱団は事実上ライプツィヒ全市の教会音楽の供給源であったため、同時に教会音楽の責任者でもあったわけです。

そして、市側はバッハに「ライプツィヒ市音楽監督」の肩書きを与えました。こうしてバッハは礼拝に用いる音楽の作曲や演奏と音楽の指導に多忙な日々を送ることとなってしまいます。しかし、収入面では臨時収入が想像以上に少なく、バッハは期待を裏切られる思いでした。

ケーテン領主との友情

ライプツィヒに移ってからも、ケーテンでの幸福な思い出はバッハの心を去らず、領主レオポルトとの友情はレオポルトが世を去るまで続きました。レオポルトの誕生祝いやその他の機会に何度かケーテンを訪れて、自分の作品を演奏してレオポルドに聴かせています。

1726年にレオポルトの子供が生まれた時には『クラヴィーアのためのパルティータ第1番』を献呈しています。しかしレオポルトは1728年11月に若くして世を去ってしまいました。翌年3月に行われた追悼式にはバッハは自作の葬送カンタータを演奏しました。

追悼式に演奏された、この葬送カンタータは、残念ながら現在楽譜が残っていません。しかし、その何曲かは『マタイ受難曲』の中に見い出されるそうです。このバッハ不滅の最高傑作『マタイ受難曲』はそれから1ヶ月後の1729年4月15日に聖トマス教会で初演されました。

バッハ、トラブル絶えず

次々とこのような傑作を生み出していきましたが、バッハの生活は決して安定したものではなく、年を追って彼はますます苦しい立場に追い込まれていきます。1728年には賛美歌の選定権をめぐってトラブルがあり、聖職会議との関係がとても気まずい仲になってしまいました。

この関係のまずさは続き、1729年5月には、バッハが選定した新入生の合唱隊員の試験結果を、市参事会はまったく無視して勝手に採用者を決めてしまいました。更に、1730年8月にはバッハの勤務ぶりが市参事会で問題になり、彼の減俸が満場一致で可決されたのでした。

しかしバッハにも言い分がありました。市参事会に覚書を提出しましたが、この内容から当時のライプツィヒにおける教会音楽が、誠に憂うべき状態であったことがわかります。しかしこの訴えも次の市参事会では問題にもされず、彼の希望は完全に無視されてしまったのでした。

バッハの創作活動の変化

バッハの作曲活動をみてみると、ライプツィヒに来てから教会音楽家としてカンタータ等の作曲を精力的に行いましたが、それは最初の数年間せいぜい1729年までです。1729年頃を境にして教会音楽の作曲に対するバッハの関心は急速に減退していきます。

この原因として1729年にコレーギウム・ムージクムという大学生の演奏団体の指揮者に就任したことと聖職会議や市参事会との争いが頂点に達していたことがあげられます。こうして1729年以降はコレーギウム・ムージクム用の器楽曲や世俗カンタータ等の作曲に活動を変化させています。

更に1736年ころからは以前に書いた作品に手を加えたり、いくつかの作品を曲集の形でまとめたり、あるいはそれらを出版するようになりました。『6つのパルティータ』、『イタリア協奏曲』、『ゴールドベルク変奏曲』等がクラヴィーア練習曲集として次々と出版されていきました。

バッハの晩年

バッハの晩年
バッハは反対派が多い事を苦にせず、やりたい事をやっていきます。市の許可なく各地を訪れました。しかし、長年の苦労のせいで目の疾病に冒されていきます。他の病にも冒され、バッハはついに鬼籍に入ってしまいます。一生音楽のために捧げ、雇い主に苦労した人物でした。

自身のやりたいように

カントルの義務規定では市参事会の許可なくしてライプツィヒを留守にしてはならないことになっていましたが、バッハはこの規則にあまり忠実ではなかったようで、ケーテンやドレスデンへの旅行のほかにもオルガンの試奏に招かれ、しばしばライプツィヒを留守にしました。

1747年の春には長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハを伴って2度目のベルリンを訪問しました。1度目は1741年に次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハがプロシャのフリードリヒ二世の宮廷にチェンバロ奏者として仕えていたので息子に会うためベルリンを訪ずれました。

2度目のベルリン訪問では『ゴールドベルク変奏曲』の依頼主でもあったカイザーリンク伯爵や次男のエマヌエルからバッハのことをきかされていたフリードリヒ二世の希望もあってポツダムの宮殿に招かれることとなり、バッハは王の前でオルガンやチェンバロの妙技を披露しました。

また、この宮殿にあった最新のジルバーマン製のピアノフォルテを試奏したことも確かなこととされています。王侯貴族の前で大いに名誉を得たバッハはライプツィヒに帰ると王の主題による作品を改めて作曲し、2ヶ月後の7月7日に『音楽の捧げ物』と題して王に献呈しました。

バッハの最期

1749年5月に起こった脳卒中の発作にともなって、彼の視力は急激に減退します。『フーガの技法』が未完の大作に終わったのはこのためです。未完といえどもこの楽曲は晩年のバッハの心の動きを良く反映した作品です。クラシック音楽の最高傑作の1つと言われています。

この時期、たまたまイギリスの名眼科医がライプツィヒに滞在中で、1750年3月から4月にかけてバッハは2回にわたって手術を受けましたが失敗に終わり、バッハの視力はすっかり奪われてしまいました。2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療はすでに高齢なバッハの体力を奪いました。

1750年7月18日頃、一時視力を回復しましたが、すぐまた脳卒中の発作が起こり、7月28日、愛する人々に見守られ静かに息を引き取りました。65年の人生でした。バッハは作曲家ではなくオルガンの演奏家として認知されていたため、彼の死後は人々からすぐに忘れ去られました。

バッハ作品の復活

バッハ作品の復活
生前のバッハは作曲家というよりもオルガンの演奏家・専門家として、また国際的に活躍したその息子たちの父親として知られる存在にすぎず、その曲は次世代の古典派からは古臭いものと見なされたこともあり、死後は急速に忘れ去られていきました。

それでも、鍵盤楽器の曲を中心に息子たちやモーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リストなどといった音楽家たちによって細々と、しかし確実に受け継がれていきます。バッハの偉大さを認めていた作曲家は数多く存在していました。

バッハの復活の最大の要因は、1829年のメンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』のベルリンでの復活公演がきっかけでした。この演奏会によって、一般にも高く再評価されるようになったのです。70数年間、忘れられていたバッハの作品群は、これをきっかけに聴かれるようになります。

バッハの子供たち

バッハの子供たち
バッハは二度の結婚によって、数多くの子供を作りました。最初の結婚によって7人、二度目の結婚によって13人の子供が生まれましたが、その半数は生まれてまもなく亡くなってしまいました。父親バッハよりも長生きしたのは、6人の息子と4人の娘だけでした。

息子達の中でも、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-88)とヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-82)は特に作曲家として大成しました。この二人は当時かなりの評価をされ、父バッハと同じような名声を得ています。音楽の才能は遺伝するのですね。

兄カール・フィリップ・エマヌエルがハンブルクにおいてテレマンの後継者になったように、ヨハン・クリスティアンはロンドンでヘンデルの後継者となりました。バッハ一族は多産家のため、はっきり区別をつけるため「ロンドンのバッハ」とも言われています。

まとめ

バッハは最初から仕事を求めての人生でしたが、街を移るにしたがってその地位が高まっていくところが音楽家バッハの素晴らしいところです。しかし、最期の地ライプツィヒでの思い出はそう良いものが無かったようです。しかし、自分のやりたいことを押し通しました。

様々な思いで作った1000曲を超える楽曲は、バッハを愛する人々によって今後も聴かれ続けていくでしょう。小品から大曲まで実に傑作の多い作曲家です。バッハの作った楽曲を全て聴くことは、難しいでしょう。しかし、傑作と言われる楽曲はぜひ聴いていただきたいと思います。

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