作曲家バルトークの生涯【作曲と民俗学研究に費やした人生】

ハンガリーの作曲家バルトークといえば『管弦楽のための協奏曲』が非常に有名な1曲です。クラシック音楽に詳しい人たちは、「オケコン」と呼んでいます。

この「オケコン」が実にいい曲なのです。良くあの時代にこんな音楽が書けたものだと、いつ聴く時にも感心しています。聴き込めば聴き込むほど「オケコン」に嵌っていくはずです。

バルトークを理解する上で非常に大事な曲なのであえてこの1曲を取り上げましたが、他にも名曲といわれている曲を書いています。バルトークの生涯を纏めてみました。

バルトークといえば、ほとんどの方は『管弦楽のための協奏曲』しか知らないと思います。
バルトークは人気のある作曲家ではないからね。「オケコン」でさえ聴いた事のない人もいるだろう。

バルトークの生い立ち

まずは、バルトークの幼少期から青年期をどう生きてきたのかを見ていきます。幼少期は貧しさで苦しみましたが、音楽の才能でそこから脱していきました。

バルトークの幼少期

バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János)は1881年3月25日、ハンガリー王国のバーンシャーグ地方のナジセントミクローシュに生まれました。父は農学校校長であり、母はピアノ教師でした。

父は町に音楽協会を設立するほどの熱心な音楽愛好家であり、バルトークはこの両親から音楽的才能を引きついだようです。

母はピアニストでもあった事から、早くから息子の才能を見抜いていました。そこで母は彼が5歳の時から正式なピアノ教育を始めたのでした。

7歳の時に父が病気のため32歳で急死。一家を支える事となった母はピアニストとして各地を転々とします。バルトークも苦労したかもしれませんが、ピアノの練習はやめることなく続けました。

9歳前後からピアノ曲を作曲し始め、10歳でピアニストとして人前で演奏したりしていましたが、母は息子をじっくりと教育する道を選びます。

1894年(15歳)に、母がポジョニに仕事を得たため同地へ引っ越し、当地のギムナジウムに入学しました。後に作曲家となるエルンスト・フォン・ドホナーニと知り合い友人となります。

バルトークの青年期

1897年(18歳)にはウィーン音楽院に入学を許可されますが、ハンガリー人としての自分を意識すべきだという友人ドホナーニの薦めに従い、翌年ブダペシュト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学しました。

1905年(24歳)には、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場します。作曲部門では入賞せず奨励賞の第2席、ピアノ部門では2位でした(優勝者はヴィルヘルム・バックハウス)。

ピアニストを目指していたバルトークにとっては、この結果にかなり気を落としてしまいます。しかも、作曲部門でも優勝できず、彼は相当に打ちのめされました。

1906年(25歳)から作曲家コダーイやその他の研究者達と共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始めます。バルトークは生涯に渡り、ハンガリーの民族音楽研究を行う事になるのです。

1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となります。教育者として活躍する傍ら、作曲の道に進もうとしていました。

第1次大戦始まる

1909年(28歳)、ツィーグレル・マールタと結婚し、翌1910年には長男が生まれました。

1911年(30歳)、生涯ただ1つのオペラとなった『青ひげ公の城』を作曲します。それを芸術委員会賞に出品しましたが、演奏不可能という事で落選、拒絶されます。

芸術委員会賞に失望したバルトークは2、3年の間、作曲をせず、ライフワークである民謡の収集と整理に集中しました。その後のバルトークは公的な部門とは深くかかわらない事になっていきます。芸術委員に対してある種の不信感があったためでしょう。

1914年(33歳)、第1次世界大戦の勃発により、民謡の収集活動が難しくなったため作曲活動に専念し、バレエ音楽『かかし王子』〈1914~1916年)、『弦楽四重奏曲第2番』(1915年~1917年)を作曲しました。

バレエ音楽『かかし王子』はかなりの成功を収めます。この事により、芸術委員会賞で落選した『青ひげ公の城』の上演もされるようになるのでした。この作品も成功し、国際的な名声を得るようになります。

コンクールでの敗北や、芸術委員会賞の落選はずいぶん落胆したようです。
幼少時から才能があったから、余計に落胆が大きかったのだろう。ピアノはバックハウスに負けたのだから仕方がないね。

第1次大戦後のバルトーク

第1次世界大戦後はハンガリーは敗戦国だったため、音楽活動にも制約がありました。やがて、その制約もなくなり、音楽家として活躍の時代を迎えます。

音楽家としての活躍

1923年(42歳)、妻ツィーグレル・マールタと離婚し、ピアノの弟子であったパーストリ・ディッタと再婚しています。

戦後のバルトークは、民俗音楽の研究や演奏会活動に力を入れます。1926年に『ピアノ協奏曲第1番』、1927年(46歳)から翌年にかけて、『弦楽四重奏第3番』『弦楽四重奏第4番』などを作曲しました。

『ピアノ協奏曲第1番』は、1927年にフルトヴェングラーの指揮、バルトーク自身の独奏で初演されました。1928年に初めてアメリカへ演奏旅行を行ない、その後ソ連も訪問しています。その際、ヨゼフ・シゲティやパブロ・カザルスら大物と共演しました。

1934年(53歳)にはブタペスト音楽院教授を辞め、科学アカデミーの民俗音楽研究員に就任しました。

長年、ライフワークのハンガリー民謡の研究に充てる時間が取れませんでしたが、この事により、ようやく研究に没頭できるようになります。

1936年(55歳)には、彼の代表作『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』を作曲します。翌年バーゼル室内管弦楽団が初演しました。

この時期は、彼にしては充実した時期だったのですね。
作品数といい、演奏旅行の数といい、彼の充実期だったようだ。

アメリカでの生活

1939年には第2次世界大戦が勃発します。バルトークはナチスに反対だったため、亡命を決意し、アメリカに移住しました。

当初は不本意な日々

1939年から第2次世界大戦が始まり、バルトークはハンガリーからアメリカへの亡命を決意しました。ハンガリーはナチスにより占領されたためでした。

1940年(59歳)10月、妻と共にアメリカ合衆国へ移住します。バルトークは、自己中心的な性格だったため、他人となかなか打ち解けられず、新天地アメリカは決して居心地は良くありませんでした。

そんな事もあり、生計のための演奏会を行なう事以外は、作曲もせず、民族音楽の研究に没頭するだけでした。

しかし、健康状態は次第に悪化、1942年(61歳)になると断続的に発熱を繰り返すようになり、1943年(62歳)初頭にはついに入院する事になってしまいます。

名曲誕生

演奏会もできない状態のバルトークでしたから、金銭的にも苦労するようになります。そんな時に支援の手を差し伸べてくれたのが、友人たちでした。

指揮者フリッツ・ライナーなどアメリカ在住のバルトークの友人たちは、「作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会」に医療費負担を申請し、彼を支援していくのです。

また、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーに、バルトークに作品を依頼する事を提言します。ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーは、友人たちの提言通り、バルトークに新作を依頼しました。

するとバルトークは驚異的なスピードで『管弦楽のための協奏曲』を書き上げました。アメリカの友人たちの厚意に感激し、創作意欲が高まったようです。

バルトークはこの作品をきっかけに作曲への意欲が湧いてきます。また、ユーディ・メニューインの依頼で『無伴奏ヴァイオリンソナタ』にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会いました。

出版社との新しい契約で収入面の不安もやや改善され、健康状態も小康を取り戻して民俗音楽の研究も再開しました。

バルトークの最期

妻の誕生日プレゼントに書き始めた『ピアノ協奏曲第3番』でしたが、体調を崩し、これは未完に終わりました。

1945年9月26日、ニューヨークのブルックリン病院で亡くなります。64歳の生涯でした。彼は白血病だったのです。

アメリカでは苦労しましたが、良き友人たちの援助で『管弦楽のための協奏曲』という傑作を書き上げました。
『管弦楽のための協奏曲』は音楽史に残る名作のひとつ。バルトーク最大の成功作だな。

民族音楽研究者としてのバルトーク

バルトークは青年時代に友人の作曲家コダーイと一緒に農村などの小さな村ヘ出向き、当時エジソンによって発見されたばかりの蓄音機を使って、ハンガリーの民謡を録音し、それを研究していました。

これらの民謡は口伝えによるものだけだったので、楽譜も、録音されたものも何一つありませんでした。

第1次世界大戦によって、ハンガリー領土は3分の1程に減ってしまい、失った場所に居た住民は、昔の民謡をたくさん知っていました。

バルトークとコダーイがこの民謡の録音採集を行わなければ、時間とともに伝統までも全て失ってしまっていたでしょう。なぜなら、民謡を知っている人たちはどんどん年老い、若者は町を出て行ってしまっていたからです。

バルトークは真のハンガリー音楽を見付け出し、ハンガリー音楽の源に戻りたいと思っていました。ヨーロッパの伝統的な音楽と、真のハンガリー音楽とを結び付けたいとも思っていたのです。

ハンガリー民謡の音楽要素を分解し、バルトークなりに消化し、個性的で、数学的な手法と結び付けて、独特の音楽奏法を発展させました。

バルトークの研究はその後も引き継がれ、現在の民族音楽研究にも一役かっています。作曲家としてだけでなく、バルトークのこういった面も知ってもらえると嬉しいです。

まとめ

バルトークは天才だったのか否か、評価の分かれるところですが、『管弦楽のための協奏曲』だけを見ても才能豊かな人だった事は確かです。20世紀を代表する作曲家だったことは紛れもない事実と言えます。

ピアニストとしても才能がありましたし、民俗音楽の研究者としても第1人者です。ピアノ教育者としても優秀でした。

『管弦楽のための協奏曲』以外にも何曲も名曲を残しています。バルトークの音楽は音楽史に燦然と輝くものです。今後も彼の作品は聴き継がれていくことでしょう。

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