
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。この人の名を知らない人はいないでしょう。世界中に知られているドイツの作曲家です。山に例えるならば「エベレスト」!!クラシック音楽界の頂点に立つ作曲家です。作曲家としてこの人を凌ぐ人は未だ現れていません。
未だ現れていないということは、今後もこの作曲者を超える人は出て来ないと言う事でしょう。ベートーヴェンによって、それまでには考えられなかった革新的な音楽が次々と生み出されました。クラシック音楽界に革命をもたらした作曲家です。
唯一無二の作曲家ベートーヴェン。作曲家でありながら、耳の病にかかり、人生の途中で聴力を失いました。ベートーヴェンはどれほど悔しかった事か、その心中察するに余りあります。ベートーヴェンのその苦難に溢れた生涯を詳しく調べて行きたいと思います。
第1章:幼少期
ベートーヴェンの誕生から子供の頃の彼の姿を追ってみましょう。果たして最初から音楽の天才だったのでしょうか?そうなのです。モーツァルトと同様に、彼も幼少期から音楽の才能に溢れた天才的な子供でした。父親から徹底的にしごかれ、才能を伸ばしていきました。
誕生
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンは1770年12月16日前後に、ドイツのボンで生まれました。前後にというのは教会での洗礼を受けた日付が12月17日と記録されていますが、誕生日についての記録がないため当時の習慣に基づいて、12月16日だろうと多くの研究者は考えています。
父はヨハンといい、宮廷の歌手であり、母は宮廷料理人の娘であるマリア・マグダレーナの長男として生を受け、ルートヴィヒという名前は、祖父からもらいました。祖父はボンの城の王様召抱えの合唱団やオーケストラの指揮をする楽長で、初孫の彼をとても可愛がっていたようです。
父親も、宮廷合唱団の歌手でしたし、祖父も宮廷楽長でしたから、日常的に音楽に囲まれた生活環境にありました。ベートーヴェンは話せない頃から聞いた音楽はすぐに口ずさんでしまったようで、祖父も父親も早くから彼の音楽的才能を見抜いていた様です。
祖父の死と生活の困窮
父のヨハンは歌手として大成することなく飲んだくれになり、家計を祖父の稼ぎに頼っていました。ベートーヴェンが幼少の頃(3歳)に祖父がこの世を去り、弟も2人生まれ、生活は困窮するばかりとなりました。そんな中、父ヨハンの酒癖は日に日に悪化をたどります。
仕事もせずに酒を浴びるようになり、また、母に対して暴力を振るったりするなど、生活は益々困窮の度合いを深めていきました。そんな中でもベートヴェンはチェンバロが弾けるようになり、一度聴いただけでも、その曲が弾けるようにまでなっていました。まだ4歳の頃です。
父のスパルタ教育
そんなベートーヴェンの才能を見た父親は、かつてのモーツァルトのように息子で一儲けを考えます。モーツァルトのように稼がせるため、息子にチェンバロとヴァイオリンを本格的に教え始めます。まだ年端も行かぬ息子に毎日2、3時間しごきのような練習をさせました。
見かねた母親が止めに入ると、酔っ払っているため暴力を振るい、自分のやりたいように物事を進めました。ベートーヴェンも母が暴力を振るわれるからと歯を食いしばって自分でも必死になって勉強しました。今で言うところのスパルタ教育です。
そうして厳しい練習を積み重ねるうちに 実力はぐんぐん身についていきました。何よりもベートーヴェンを励まし、支えてくれたのは母親で、とても優しい人でした。酒乱の夫ゆえに働きずめで大変だった中でも、常にやさしく夫には逆らわず黙々と働き続けたようです。
ベートーヴェンは母親に励まされて、8歳の頃にはケルンの演奏会に出てチェンバロを演奏するほどになりました。モーツァルトの様にはなれませんでしたが、天才児ベートーヴェンの名は世に知れ渡りました。これ以後は、彼が家計の助けをする事になります。
音楽家としての第1歩
やがてベートーヴェンは、父親では教えきれなくなり、9歳過ぎから宮廷楽長のネーフェにチェンバロやオルガンを習うようになりました。ネーフェは、ドイツ以外のイタリアやフランスの作曲家の楽譜も所持していたので、広く世界中の音楽を知ることができました。
また、ネーフェはバッハの曲を徹底的に教えてくれたので、ベートーヴェンは音楽の基礎をしっかりと身に付ける事が出来ました。14歳からは宮廷オルガリストになり、宮廷楽長であった同名の祖父ルートヴィヒのように、周りからも一目置かれる存在となりました。
宮廷オルガリストになれたお陰で稼げるようになり、父に代わり一家の家計を一手に引き受けるようになりました。大好きな母親のためにベートーヴェンは家計を支えようと必死でその仕事をこなしました。この事も長い目で見れば、ベートーヴェンの音楽的才能を伸ばす要因になったのです。
第2章:青年期
父親のスパルタ教育と宮廷楽長ネーフェのおかげで音楽の才能を開花させたベートーヴェンは、更に自分の才能を伸ばしていきます。モーツァルトに会い、また、ハイドンの弟子にもなります。青年期を迎えたベートーヴェンは、こうして音楽家として活躍していきます。
モーツァルトとの出会い
1787年、16歳のベートーベンはウィーンを訪れ、憧れのモーツァルトと対面を果たしています。 この時、モーツァルトは30歳。ベートーベンはモーツァルトに弟子入りを申し込みましたが、母親であるマリアの訃報によって、故郷へと帰る事となります。
本当に残念だと思うのは、この時ベートーヴェンがモーツァルトの弟子になっていたら2人の生涯も大分変わった生涯になっていた事でしょう。2人の音楽の大天才の才能が混ざり合っていたら、お互いにまた違った道を歩いていたのかもしれません。
歴史に「もしも」はありませんが、母親の死が無かったら、クラシック音楽史はまた変わっていたでしょう。けれども、ベートヴェンの才能が発揮されずに終わったかもしれない事も考えられます。モーツァルトは残念ながらベートーヴェンとの出会いの4年後に亡くなってしまいます。
ハイドンの弟子になる
1790年(19歳)、たまたまボンに立ち寄ったハイドンと会う機会があり、弟子入りを許されます。1792年にハイドンの弟子になるためにウィーンに旅立ちます。この時のベートーヴェンの気持ちはいかばかりであったでしょうか。我々にもこのときの喜びの深さが伝わってくるようです。
ウィーンの都会へ行って超有名な作曲家ハイドンの弟子になる・・・内に秘めた情熱が沸騰する様が伝わってくるようです。弟2人とウィーンに行ったベートーヴェンはハイドンに弟子入りし、本格的に音楽を学び、1794年(23歳)、初めて『ピアノ三重奏曲』を作曲します。
音楽家としての旅立ち
1795年(24歳)、『ピアノ協奏曲第1番』『ピアノ協奏曲第2番』が完成(順番は第2番が先)。ベートーヴェンは慈善コンサートで自作のピアノ協奏曲を演奏し、これが大きな話題を呼びました。さらに即興演奏の名手として人々を魅了します。
青年ベートーヴェンは作曲家としてより、天才ピアニストとして音楽好きのウィーン貴族たちから喝采を浴びました。一躍社交界の花形となり、楽譜出版社からの収入も増えていきます。この時期がベートーヴェンの中で最も充実していた時期であったと思われます。
まだ耳の疾患もなく、自分の腕で名声を確立した花丸の時期だったからです。社交界デビューし、パトロンも多くなり、本当に幸せの絶頂期であった時期です。この頃のベートーヴェンは晩年の彼とは違い、身だしなみに気を遣い、おしゃれだった様です。
第3章:予期せぬ病気
音楽家として確固とした地位を築き、充実した日々を送っていたベートーヴェンに予期せぬ病魔が襲ってきます。それは、作曲家・演奏家としては致命的な耳の病気でした。日々、悪化してくる耳の疾病に、ベートーヴェンは怯まずに作曲活動を続けます。
耳の疾病
名声を得て得意絶頂のベートーヴェンでしたが、人生が突如暗転する自体が起こります。1798年(27歳)、聴覚障害の最初の兆候が現れると次第に症状が悪化していきました。音楽家にとって聴覚を失うことは致命的!!他人にバレないようにするため、家に引きこもるようになりました。
同年、『ピアノソナタ第8番「悲愴」』を作曲。ベートーヴェンのピアノソナタの中でも初期を代表する傑作として知られます。この時期にこのようなピアノソナタを作曲する事のできる意志の強さは並大抵の物ではありません。『悲愴』というタイトルがまた意味深です。
ベートーヴェンが付けたあだ名ではありませんが、出版社がこのタイトルにする事に対して、反対もしなかったところを見ると、色々な事が頭を巡ります。現在では、ベートーベンの難聴の原因は「耳硬化症」であったのではないかと言われています。
鼓膜からの振動を内耳に伝える耳小骨の骨細胞が増殖・硬化することで音が伝わりにくくなる症状です。この難聴を自覚してからのベートーベンの症状は日に日に進行していきます。30歳になるころにはもうほとんど聞こえなくなっていたようです。
疾患を自覚してからのベートーヴェン
1800年(29歳)、明るく活気に満ちた『交響曲第1番』を書き上げます。まだベートーヴェンの個性は薄くハイドンに近い物といわれています。1801年(30歳)、弟子でイタリアの伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディ(16歳)に捧げた『ピアノソナタ第14番「月光」』を作曲。
ベートーヴェンは彼女に恋し、身分の差に苦しみ、結局のところ振られてしまいます。耳の疾病の中、これだけの作曲意欲があり、恋愛感情も衰えていないというところがベートーヴェンたる所以なのでしょう。頭の中では常に新しい音楽の事を考えていたのだと思われます。
第4章:ハイリゲンシュタットの遺書
1802年(31歳)、転地療養のため夏はウィーン郊外の静かなハイリゲンシュタットで過ごしていたベートーヴェン。この頃、難聴とジュリエッタとの恋愛の破綻で苦しんでいました。特に耳の疾病はどんな治療を行っても良くならず、ついにベートーヴェンは遺書を書きます。
自分の今後への決意表明
今でも有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」は、この転地療養に行ったハイリゲンシュタットで書かれました。1802年10月6日と10月10日付の2通の遺書を指して言います。しかし、2通の遺書は実際、宛先人には届けられなかった遺書でした。
「ハイリゲンシュタットの遺書」は自身の耳の疾病の事を嘆いて書いたものです。しかし、結局それを、誰にも渡さなかったという事は、もうその時点で実際に自殺をする意思はなかったといえるでしょう。遺書とは言っていますが、今後の生き方についての決意表明という物でした。
2通目ともに同じような内容です。ベートーヴェン自身が言っているように、「芸術」が死を引き止めました。まだ全て成し遂げられていないので、この世を去ることは不可能だと。ベートーヴェンの強固な意志が感じられる、凄みのある文章です。
遺書を書いた後のベートーヴェン
何かの運命で聴覚か視覚を失わなければならないとすれば、しかもどちらかを選ぶことが出来るとすればどっちを選ぶでしょうか?多分、音楽家ベートヴェンには耳が重要と考えるでしょう。幸運な事にベートーヴェンは作曲家でした。目が見えなければ何も書けなかった事でしょう。
ベートーヴェンには不幸中の幸いとも言えるでしょう。聴覚の衰えが始まってからベートーヴェンはますます立派な作品を書き始めます。でも、ベートーヴェンにとって大変な苦しみであったことはわかります。それを受け入れて全ての点で大きく成熟していったと考えられます。
遺書を書いた場所、ハイリゲンシュタットはウィーンの郊外にあります。耳の治療の通院にも便利でよく滞在しました。「遺書」を書いた同じ年に『交響曲第2番』、『ピアノ協奏曲第3番』、『ロマンス』などを完成しました。穏やかで希望にあふれた気迫がみられる作品となっています。
第5章:傑作の森
1804年に『交響曲第3番「英雄」』を完成させたのを皮切りに、10年間に6つの交響曲の他、ピアノやヴァイオリンの優れた協奏曲を次々と作曲しました。この10年間は後世の音楽愛好家から「英雄の時代」と呼ばれ、作家ロマン・ロランはこの時期を「傑作の森」と呼びました。
『英雄』の誕生
ベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」を音楽にしたような作品をどんどん生み出していきます。それは『交響曲第3番』から始まります。この交響曲は今までのハイドン、モーツァルトとはまるで違う、過去の伝統を打ち破る大傑作でした。
第1楽章だけでも20分近く演奏する交響曲なんて、当時の人には考えられない音楽だったことでしょう。ましてや全曲が50分も掛かる曲であって、葬送行進曲やスケルツォなど、当時としては前衛的な音楽だった事でしょう。『英雄』の誕生は新しい時代を切り開くものになりました。
これも有名な話ですが、革命のために平民出身のナポレオンが活躍している姿に感動を受けて『英雄』とあだ名を付けたのはベートーヴェン自身でした。後に皇帝に即位した知らせを聞くや否や怒りの余り、楽譜の表紙に書かれていた「ある英雄のために」という文章をペンでぐちゃぐちゃに消し去ったという逸話は有名ですし、その表紙も現在でも残っています。
新しいピアノ
『英雄』の作曲に取り掛かっていた1803年8月に有名なピアノ制作者エラールからグランド・ピアノが届けられました。大型の広い音域、完璧なペダル装置をもつ新型ピアノにより、『ピアノ・ソナタ第21番「ヴァルトシュタイン」』『ピアノ・ソナタ第23番「熱情」』(1805年)を作曲。
この新型ピアノの存在なくしては「傑作の森」は考えられないことでした。ベートーヴェンは耳が聞こえなくなったのでは?と皆さん疑問に思うかもしれませんが、この頃のベートーヴェンは会話の声は聞こえませんでしたが、ピアノなどの高音は聞こえていたようです。
こうして楽器の進歩もベートーヴェンの味方をしてくれています。この当時のベートーヴェンはオペラ『レオノーレ』の失敗以外は全てが順調に進んでいきます。次々と頭に湧き出す新しい音楽に、ベートーヴェン自身も驚いていたに違いありません。
『交響曲第4番』
1806年(35歳)、ベートーヴェンの内省的で情感のこもった作品群はさらに進化。『交響曲第4番』『ピアノ協奏曲第4番』作曲。『ピアノソナタ第23番「熱情」』や現在、3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれる『ヴァイオリン協奏曲』作曲。弦楽四重奏曲にもラズモフスキー3部作を作曲。
『運命』『田園』
1808年(38歳)、12月22日、『交響曲第5番「運命」』『交響曲第6番「田園」』が同日にウィーンで初演。『英雄』『運命』で描かれた「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という姿勢がベートーヴェン作品の基軸となります。『運命』で音楽史上初めて交響曲にトロンボーンやピッコロを導入。
『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』
1809年(38歳)、『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』作曲。「皇帝」はベートーヴェンがつけたあだ名ではなく、後世の音楽ファンが「ピアノ協奏曲の皇帝的存在」と讃えたものです。
『エリーゼのために』
1810年(39歳)、ピアノ小品『エリーゼのために』作曲。ベートーヴェンが愛したテレーゼ・マルファッティに捧げられました。最後には、結局振られてしまいます。
『ピアノ三重奏曲第7番「大公」』
1811年(40歳)、『ピアノ三重奏曲第7番「大公」』作曲。優雅で気品のある当曲は、ベートーヴェンを最後まで金銭的に援助し続けたパトロン兼弟子のルドルフ大公に捧げられました。
『交響曲第7番』『第8番』
1812年(41歳)、この年に書かれ翌年初演された『交響曲第7番』はベートーヴェンの交響曲の中で最もリズミカルであり、後年ワーグナーは「舞踏の聖化」と讃えました。この年には、なんと『交響曲第8番』も作曲してしまいます。まさに、絶頂期だったのですね。
『ウェリントンの勝利』
1813年(42歳)、交響曲『ウェリントンの勝利』を発表。本作はフランス民謡をイギリス国歌が覆す(仏敗北)という分かり易さでウィーン市民から絶大な人気を集める。現在は殆ど演奏されないが、ベートーヴェンにとって生前最大のヒットとなりました。
歌劇『レオノーレ』
1814年(43歳)、歌劇『レオノーレ』が3回とも失敗を重ねていましたが、『フィデリオ』と名を変え、改作、発表し、ようやく人気のてい歌劇となりました。ベートーヴェンの歌劇は生涯この1作のみです。ベートーヴェンは歌劇に対して、そう興味を抱かない作曲家でした。
第6章:10年間の苦悩の時期
「傑作の森」の後ベートーヴェンには耳の疾患意外にも難題が振りかかってきます。これからの10年はベートーヴェンにとって不遇の時期になります。弟の死や甥の養育権争いなど、音楽以外の部分で神経をすり減らす事となります。作曲家ベートーヴェンにとって最悪の時代です。
ベートーヴェンの苦悩の始まり
1815年(48歳)の時に弟のカールが亡くなります。弟の嫁と不仲だったベートーヴェンは甥のカール(父と同名)の養育権を巡り、義妹と争います。なかなか両者とも折り合わず、ついに裁判で決着させることになります。この裁判が長引きベートーヴェンの作曲の手が止まります。
この出来事が晩年にまで渡ってベートーヴェンの日常生活及び創作意欲に対して苦しめる元となります。甥カールの問題が無かったら、ベートーヴェンはもっと多くの名作を残していた事でしょう。また、人間不信の程度も、そう深くはならなかったのではないかと思われます。
甥カールの問題
この裁判は5年間も続き、有力パトロンのルドルフ大公の仲介もあって、ようやく甥の養育権を勝ち取り後見人となりましたが、14歳という思春期になっていたカールはベートーヴェンと激しく衝突しました。その後非行に走り、ベートーヴェンの苦悩の種となりました。
癇癪持ちだったベートーヴェンはますます癇癪が酷くなり、また身だしなみにも全く無頓着になって他人から変人扱いされるようになっていきました。この甥の問題はベートーヴェンが亡くなるまで続き、どれほどベートーヴェンの創作意欲を削いだか計り知れません。
事実、「傑作の森」とまで言われた10年間の数々の傑作に対し、その後の10年間はほんの一握りの名作しか生み出されなくなっています。その問題だけではなく、全く聞こえなくなった耳の疾患と自身の健康状態の悪化により仕事の時間が減り、もがき続けながら日々暮らしていました。
ベートーヴェンの日記
その頃の日記が面白いので少し記述しておきます。
「4月17日、コックを雇う。5月16日コックを首にする。5月30日、家政婦を雇う。7月1日、新しいコックを雇う。7月28日、コック逃げる。8月28日、家政婦辞める。9月9日、お手伝いを雇う。10月22日、お手伝い辞める。12月12日、コックを雇う。12月18日コック辞める」。
癇癪で、わがままなベートーヴェンの下ではなかなか使用人も長く勤められなかったということでしょう。日記にはこんな内容が延々と続きます。創作に対する意欲などこれでは沸いてきません。甥の問題は長く続き、不遇の時代が10年間も長引いたわけです。
第7章:晩年の作品群
ベートーヴェンの精神は耳が聞こえない事から孤独となり変化していったと思われます。晩年の作品はそれを物語るように、思想家的、哲学者的要素を持ち始めます。10年間の不遇の時代の出来事なども、精神的に影響しているのかもしれません。
『交響曲第9番「合唱付き」』
1824年(53歳)、5月7日にウィーンで『交響曲第9番』の初演が行われました。『交響曲第8番』から10年も経っていました。ベートーヴェンは最初、『第9』初演をベルリンで行おうとしました。これを知ったウィーンの文化人は連名の嘆願書を作成しベートーヴェンを感動させました。
自由思想の持ち主であったベートーヴェンは権力者から要注意人物とされていました。そんな作曲家のコンサートにもかかわらず、初演には大勢のウィーン市民が足を運びました。多くのウィーン市民はベートーヴェンを尊敬し、人気のある大作曲家でした。
ベートーヴェンはドイツのボンにいる頃から、感動したシラーの「歓喜に寄す」の詩に曲を付けたいと思っていました。彼は初めて4人の独唱者と合唱を使って、この詩を交響曲に用います。交響曲に声楽を入れるという発想は、当時とすれば前代未聞の事でした。
『交響曲第9番ニ短調「合唱付き」』の第4楽章に織り込むにあたって、シラーの詩を3分の1ほどの長さにしています。冒頭にバリトン歌手が独唱で歌う「おお友よ、このような音ではなく・・・」は、ベートーヴェンが自分で考えたものであり、シラーの原詩にはありません。
『第9』初演
ステージではベートーヴェン自身が指揮棒を振りましたが、聴覚の問題があるため、もう1人のウムラウフという指揮者がベートーヴェンの後ろに立ち、演奏者はそちらに合わせました。普通はこんな事ありえませんから、オーケストラはきっと演奏しにくかったと思います。
演奏が終わって聴衆から大喝采が巻き起こりますが、ベートーヴェンはそれに気づかず、失敗したと感じて振り向きませんでした。見かねてアルト歌手のウンガーが歩み寄り、ベートーヴェンの手をとって振り向かせ、彼は魂が聴衆に届いたことを知ります。
『第9』評判
こうして『第9』初演は成功裡のうちに終わりますが、その後、ヨーロッパ各地で何回か演奏が試みられましたが、全て失敗か微妙な評価に終わっています。評論家からは、第4楽章がその前の三つの楽章に比べて「異質」とされ、「長大すぎる」事で演奏機会に恵まれなくなりました。
当時のオーケストラのレベルからすると、『第9』は難度が高すぎたせいもあり、後の時代のワーグナーの再演(1846年)までこの曲は忘れ去られます。ワーグナーの再演は大成功に終わり、それ以降この交響曲は傑作であるといわれるようになります。
後期ピアノ三大ソナタ
『ピアノソナタ第30番』『ピアノソナタ第31番』『ピアノソナタ第32番』の最後のピアノソナタ3曲を「後期三大ピアノソナタ」と呼びます。この3曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ32曲のうちの最後に作曲されたものであり、内容的に円熟した孤高の音楽となっています。
穏やかで、かつ厳かという感じの曲です。品の良さもあります。漂うにまかせて無になっていたら、ベートーヴェンが勝手に素晴らしいところに連れて行ってくれるという印象です。もしかしたら、この頃からベートーヴェンは自分の死を予感していたのかもしれません。
後期弦楽四重奏曲
『弦楽四重奏曲第12番』から『弦楽四重奏曲第16番』までの5曲の弦楽四重奏曲はベートーヴェン人生の最高の傑作群であり、人間として彼がもはや達観の境地に辿り付いた音楽です。神の領域にまで踏み込んだようなその音楽はベートーヴェンの全てが詰め込まれているようです。
これらの音楽は、ベートーヴェンが辿り付いた神の領域に、聴く側にも同じ領域に近付く事を強いる音楽です。死の前年に書かれた『弦楽四重奏曲第14番』について、これを聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と述べたといわれています。
第8章:ベートーヴェンの最後
後期弦楽四重奏曲で神の領域までに踏み込んだベートーヴェンでしたが、甥がまた事件を起こし、ベートーヴェンには気が休まることがなかったのでした。このため、さらに病状が悪化し、死への道のりを歩みだします。甥の問題は娩年までベートーヴェンを悩ませたのです。
甥カールの自殺
1826年(55歳)、ベートーヴェンは養育していた甥カールと将来の進路を巡って激しく対立(カールは軍人志望、ベートーヴェンは芸術家にしたかった)します。カールは伯父からの独占的な愛情に息が詰まり、ピストル自殺をはかりますが、奇跡的に一命を取り留めます。
この事件にベートーヴェンはショックを受け、すっかり気弱になってしまい、病状も悪化していきます。作曲意欲もなくなり、五線紙に向かう事もなくなってきました。自分の病状が悪化するばかりでしたから、仕事どころの話ではありませんでした。
ベートーヴェンの死
1826年12月、肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が悪化。何度も腹水を取り除く手術が行われましたが快方には向かいませんでした。ベートーヴェンは1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えました。最期の言葉はラテン語で「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」。
1827年3月29日、ウィーンのヴェーリング地区墓地で執り行われたベートーヴェンの葬儀に2万人もの市民(当時の人口は約25万人)が参列し、臨終の家から教会に至る道を埋めました。当時のベートーヴェンが音楽家として如何に市民に慕われていたかを象徴する出来事でした。
ベートーヴェンの遺書
遺書は死の3日前に書かれていました。
第9章:後世の音楽家への影響
ベートーヴェンの作品だけではなく、音楽感や思想、発想など後世の音楽家には多大なる影響を与えています。それは、現在に続くクラシック音楽史の上で、ベートーヴェンという人物が果たした大きな功績を物語っています。ベートーヴェン無くしてクラシック音楽はなかったでしょう。
音楽家の有り方
ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどでした。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家のさきがけとなりました。
音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事でした。それまで続いてきた音楽を飛躍的にレベルアップさせ、音楽家の地位をも向上させました。
この事は音楽家が職業として成り立って、独り立ちして食べていける道を開いたとも言い換えられます。クラシック音楽家の独立はベートーヴェンがいたから成し遂げられたわけであって、音楽の芸術的レベルもそのために上がってきたといえるでしょう。
音楽への影響
音楽の表現の仕方が、ハイドンやモーツァルトとは全く別物といっていいような手法を完成させたベートーヴェン。音楽の発想法、構成の仕方から展開法までのあらゆる方法を革新的に発展させました。当然、この事は同時代の作曲家及び後世の作曲家たちに影響を与えました。
有名な作曲家を挙げれば、ワーグナー、ブラームス、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えています。いえ、作曲家で影響を受けなかった人物はいないでしょう。
ベートーヴェンはそれだけ偉大な作曲家だったのです。革新的で、進歩的で、やりたい事を何でも音楽に取り入れてしまう積極性、それらが後世の作曲家に影響を与えないわけがありません。彼らがやりたかった事の、まさに、先頭を走っていたのでした。
最後に
偉大なる作曲家ベートヴェンの生涯を年代順にみてきました。自らの運命を手繰り寄せ、より高みを目指した作曲家でした。いつでも苦悩が付いて回りましたが、その中でベートーヴェンは強烈な忍耐力と努力を持って傑作を生み出し続けました。まさに楽聖と呼ぶに相応しい作曲家です。
彼の作品は今後も数百年と聴き継がれていくでしょう。永遠に残る曲を残してくれた大天才を前にただただ感謝するのみです。ベートーヴェンはクラシック界の金字塔であり続ける事でしょう。前文にも書きましたが、ベートーヴェンを超える作曲家は今後出てこないでしょう。