エクトル・ベルリオーズ

ベルリオーズは『幻想交響曲』の1曲だけでクラシック音楽史にその名を残しました。彼の残した『幻想交響曲』はとても破天荒な音楽で、現在聴いても、その斬新さに心を奪われるほどの歴史的傑作となっています。発表された当時の聴衆たちはこの楽曲に戸惑ったに違いありません。

因みに私はこの曲が大好きで、プログラムに『幻想交響曲』が入っていれば迷わずその日のチケットを買います。大編成のオーケストラ、ティンパニは2セット。聴いていて、冒頭から終曲まで、様々に楽しめる曲です。視覚的にも、音楽的にもオーケストラの凄さを感じ取れる音楽です。

ベルリオーズは、この『幻想交響曲』1曲だけで、現在でも不動の人気を誇っている作曲家です。まさに、クラシック音楽界の一発屋です。『幻想交響曲』ほどの素晴らしい名曲を書いたベルリオーズの生き方はどんなものだったのか興味がわきます。彼の生涯を見ていきたいと思います。

ベルリオーズの誕生から幼年期

ルイ・エクトル・ベルリオーズは、1803年12月11日フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレに長男として生まれます。父は医師を務めるルイ=ジョセフ、母はマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン。

6歳の時に入った寄宿制の神学校は2年間で閉鎖となり、英才教育は己の手でと思ったか父親は、18歳まで一般学校に行かせず自分で勉強を教え、古代ローマの詩人ヴェルギリウスなどの古典まで教え込んでしまったのでした。学校に行かなかったので、彼には友人がいませんでした。

友人がいなかったベルリオーズは文学にのめり込み、空想する事に興味を持ちました。この事が後の作曲家としての道を切り開く大きな原動力となったと思われます。12歳の頃、父親の縦笛フルートであるフラジオレットを悪戯に演奏する息子に、父は指使いやら、楽譜の読み方を教えました。

13歳の時にはリヨンでヴァイオリン奏者をしていたアンベールを呼んで、フルートなどを教えさせてみました。すると、音楽にとても興味を持ち、自分で和声法や作曲法などを勉強するほどでした。母親は大反対でしたが、15歳ぐらいになると作曲するまでになります。

ベルリオーズ青年期

開業医の家に育ったベルリオーズですから、当然家族も後を継いでくれると思っていました。しかし、ベルリオーズは音楽家としての道を志し、医学の道を捨てる事になります。将来を約束された医学の道ではなく、音楽家を目指したのには彼なりの様々な葛藤がありました。

音楽家を目指す

1821年、父の意向に逆らえなくて、18歳の時に大学入学資格試験に合格し、家業を継ぐ名目で故郷を後にしてパリ大学に入学します。現代でいえばエリートです。そのまま、医学の道を進めば将来が約束されていたにも拘わらず、彼は医者になる道を自分から止めるのでした。

ベルリオーズは人間のグロテクスな実物の内臓を見る解剖学で目眩がしたといって、次第に医学から遠ざかり、音楽へ興味が移り、オペラ座通いをするようになります。1822年に上演されたグルックの「タウリスのイフィジェニ」を見て感激した事が何よりの決定打でした。

「例え誰の反対に遭おうとも、私は音楽家になるのだと心に誓った」と回想録に書いています。彼は音楽に目覚めてしまったのでした。それからは父親の大反対にも拘わらず、音楽の道を選択したのでした。友人のつてによりパリ音楽院のジャン=フランソワ・ル・シュールと出会います。

パリ音楽院で学ぶ

ル・シュールは彼にエールを送り、ベルリオーズは和声を勉強し直し、特別生徒としてル・シュールのクラスで受講させて貰えるようになったのです。また「ウグイスは声を持って生まれるが、君は管弦楽法を持って生まれたのだ」とベルリオーズに言ったという言葉も残っています。

両親とも何度も手紙のやり取りをして、何とか音楽の道を認めて貰い、1826年にパリ音楽院に正式入学しました。ル・シュールの授業はもちろんのこと、アントン・レイハの対位法授業を受講したり気合い十分だったようです。大反対していた両親を押し切ったぐらいですから当然です。

音楽家としての転機

音楽を勉強するようになったベルリオーズですが、世の中そんなに上手く事が運ぶなどありません。ローマ大賞を目指し、何度も作曲しては審査を受けますが、全て撥ねつけられてしまいます。そんなある日、1827年9月に上演されたイギリスの劇団のシェイクスピア劇を見ました。

彼は驚いてしまいます。シェイクスピアの戯曲に感動してしまったのです。その熱も冷めやらない内に、パリ音楽院管弦楽団のベートーヴェンの交響曲を聴き、これを聞いたベルリオーズは雷に打たれたように、痺れて動けなくなってしまったのでした。

ベルリオーズは「シェイクスピアが詩で新世界を幕開けしてくれたように、ベートーヴェンは音楽で新しい世界を切り開いてしまったのだ!」と後に書いています。続いて起こったこの二つの出来事がベルリオーズの音楽に対する意欲をさらに高めたのは事実だったようです。

幻想交響曲誕生

ベルリオーズ
二つの出来事に感動したベルリオーズは、ローマ大賞のための応募曲と、それとは別の『幻想交響曲』の作曲に手を付けます。特に、ベートーヴェンを聴いた出来事は、彼の中で古典派のような音楽を書きたいとの情熱をもたらし、作曲に専念するようになります。

時代を超える交響曲の誕生

1830年2月(26歳)に『幻想交響曲』を作曲を開始し、6月に完成します。いよいよ、ベルリオーズの本領発揮の時がやってきたのでした。この半年で作曲された交響曲が永遠に音楽史上に残るなんて、当時のベルリオーズは考えていなかったでしょう。

この楽曲は標題音楽で交響曲としては珍しく5楽章で出来ています。音楽1楽章ごとに標題が作られ、物語のように5楽章迄続いていきます。作風は当時としては超革新的に聴こえたでしょう。楽器の使い方が他の作曲家とはまるで違っていて、現在聴いても凄いと思います。

全楽章通じて、衝撃的な音楽が続き、とても荒々しいと思えば、女性を思わせるセクシーな表現もあり、素晴らしい楽曲になっています。弦楽器の弓を糸ではなく背中のこの部分で演奏させるなど、新しい試みも取り入れられ、今でも現代音楽のようです。

12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴びるようになりました。ベルリオーズが人生で初めて自分の曲に光が当たったのでした。医者の道を捨て、作曲家を志してからわずか4年目の事でした。彼の一世一代の作品です。

ローマ大賞も受賞

『幻想交響曲』を作曲中の4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲し、4度目にしてようやくローマ賞を受賞します。この賞を取るぐらいですから才能は確かだったのだと思います。当時の作曲家は皆、この賞を取ることを目指していました。

『幻想交響曲』を初演する前でしたから、人々はようやくベルリオーズという名前を知ったのでした。4度の挑戦でようやく手にした大賞でしたから、喜びもひとしおだった事でしょう。この時期のベルリオーズは才能の頂点を迎えていたのだと思われます。超早熟の作曲家だったわけです。

ベルリオーズの結婚

『幻想交響曲』で有名になれた彼ですが、個人的にはある女優に初恋に落ち、告白しますが失恋し、自殺を考えるぐらい落ち込んでいた時期でした。1833年、この曲が話題になったため、この曲を聴きに来ていた初恋の相手と再び出会い、2人はついに結婚します。

1度は相手にもされずに振られたのですが、曲が成功を収めるや否や手のひらを返したように近づいてくるような女性ってどうなのでしょうか。ベルリオーズにすれば初恋が成就したのですから、喜び一杯で何も言う事はなかったのでしょうけど・・・。

演奏旅行の日々

パリではその後数曲作曲しましたが、金銭的に余裕がなくなり演奏旅行に出かけます。イタリア、ドイツ、ロシア、ロンドンなどを回り、各地で好評を得ます。一世風靡した『幻想協奏曲』を頼りに、食っていくために、いわゆるドサ巡りをしていたのでした。

演奏旅行といっても多くは指揮者ベルリオーズとしての演奏会が主でした。一時期は、作曲家ベルリオーズよりも指揮者として名を成しています。作曲家が自分の楽曲の指揮をする事は現代でも多くあります。しかし、ベルリオーズとしてはどういう思いだったか図りかねます。

演奏旅行はパリに何度も帰りながら、幾度も続けられました。その間に妻と不仲になり別居するなど、幸せな時期ではなかったようです。恋愛を成就させて結婚した相手では無いので、当然といえば当然の結果です。妻にしてみれば、何不自由なく暮らせると思っていたのでしょうから。

ベルリオーズの後期

主に評判がよかったドイツを中心に公演を続け、辛い時代を払拭させる活躍をみせました。また、幾度も栄光と挫折を味わったフランス・パリにおいても声楽曲『キリストの幼時』を皮切りに再び名声を博し、名作曲家として確固たる地位を確立します。

1856年にはフランス学士院会員に選ばれ、ついに安定した生活を送れるようになります。4年後の1860年にはドイツのバーデン=バーデンにて2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』を公演し、好評を得ます。その後も精力的に活動を行い、60歳で筆を置くまで作曲を続けました。

不幸な晩年

演奏旅行の日々は結局、指揮者ベルリオーズとしてしか評価されず、作曲家としては不遇な時期でした。前妻が亡くなり、それまで一緒に暮らしていた後妻にも先立たれ、さらに1人息子も亡くします。息子を亡くした時は半狂乱となりかなり精神的にまいったようです。

孤独になったベルリオーズはオーストリア、ドイツ、ロシアと演奏旅行に旅立ちます。彼にとってこれが最後の旅行となりました。ですが、元々不健康だったベルリオーズは、ロシアの厳しい寒さで身体に致命的な打撃を受け、帰国後の1868年3月には健康状態はより悪化していました。

その後、南フランスで保養した後にパリで病床につきましたが、1869年3月8日の午前0時半に眠るように息を引き取りました。享年65歳。遺体はモンマルトル墓地において、2人の妻とともに葬られ、永い眠りに就いています。音楽家としては不遇な生涯だったと思います。

ベルリオーズは天才だったのか?

名作『幻想協奏曲』を何故彼が作曲できたのでしょうか。彼の生涯を前半で見てみると、神童振りとか音楽院でその才能を発揮したとか、そういった話は出てきません。では、なんで歴史に名を残すような、こんなに凄い交響曲が書けたのかを考えてみましょう。

彼はこの作品を阿片を吸いながら書いたという説があります。これは、この交響曲に幻覚的、幻想的な性質があり、ベルリオーズが阿片を吸った状態で作曲した可能性があります。おそらく、世の指揮者たちは、そう思いながら、この楽曲を指揮していると考えられます。

たまたま、彼の絶頂の波と作曲の波がいい具合に合ったために、こんな名曲を書けたのでしょう。本当にその波を人生で1度だけ捕まえられたために、この楽曲を書けたのだと思います。ベルリオーズは世界的・歴史的一発屋の作曲家といえるでしょう。

ベルリオーズの作品

一発屋としてこの記事を書きましたが、現在でも取り上げられる楽曲を挙げておきます。中でも『幻想交響曲』が95パーセントぐらいの割合で演奏されているはずです。ベルリオーズ=『幻想交響曲』といってもいいぐらいの割合です。本当に彼はこの1曲だけで音楽史に名を残しました。

【交響曲】

『幻想交響曲』
『イタリアのハロルド』

【劇的交響曲】

『ロメオとジュリエット』

【劇的物語】

『ファウストの劫罰』

まとめ

ベルリオーズの生涯について簡単にみてきました。ベルリオーズはとても斬新な交響曲『幻想交響曲』を作りました。他に2、3曲は現在でもコンサートには取り上げられますが、はっきり言ってそれらの出来は『幻想交響曲』には及びもしませんでした。

タイトル通り本物の一発屋でした。でも私はこの曲は大好きです。編成の大きい大オーケストラが必要という事はサウンド的にも大音量ですから、余計に身体に響いて来るのですね。オーケストレーションも上手くて、痺れる音楽です。こんな不思議な交響曲はもう誰も書けない事でしょう。

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