セザール・フランクは作曲家というよりも生涯教会のオルガニストとして身を捧げた人物でした。この影響から彼の音楽にはオルガンの響きに通じるような物が多くあるといわれます。

彼は作曲家を志したのも遅く、不遇な事に作曲する楽曲に対して高い評価は得られませんでした。しかし、晩年には次々と傑作を作曲しその名声が高まった途端に亡くなってしまった悲劇の人物だったのです。

作曲した曲数が異常に少ない作曲家でもありましたが、その中でも『ヴァイオリン協奏曲』『交響曲』『3つのコラール』は現在でも演奏される名曲です。作曲家フランクの生涯について纏めてみました。

フランクは一般の人には馴染みのない作曲家です。
『バイオリン・ソナタ』や『交響曲』を聴いてもらえば、フランクの人柄が分かって貰えるだろう。真面目で、謙虚な人物だったのだよ。

フランクの幼少期から青年期

1822年12月1O日、フランクはネーデルラント連合王国(現ベルギー)のリエージュに生まれます。元来ドイツ系の家系で、父は銀行家でした。

フランクは幼い頃から絵画と音楽の才能を持っていたようです。リエージュ王立音楽院に入ったフランクはソルフェージュ、ピアノ、オルガン、和声学を学びます。

フランクの演奏会デビューは1834年(12歳)の事で、建国間もないベルギー王国の国王レオポルド1世も臨席していました。

フランクは1837年10月(15歳)にパリ音楽院に入学を果たします。パリ音楽院はフランス国籍の者しか入学を認めなかったため、父は息子のためにフランスへの帰化をしたのでした。

しかし、優秀な成績であった事から、父はフランスからフランクを呼び戻し、各地で演奏旅行をさせてお金を稼ぐようになります。父は昔のモーツァルトのようなやり方で金儲けをしようと考えたのです。

この事が批判され、父は仕方なく演奏旅行を止めざるをえませんでした。フランクはまたパリ音楽院へ戻ります。

またパリ音楽院に復学できた事は、後のフランクの人生にとって有意義なものになりました。

教会オルガニストに就任

パリ音楽院卒業後、フランクは生計を立てるために教会のオルガニストの職に付きます。フランクは3つの教会に関係しましたが、3つ目のサント・クロチルド教会は彼が生涯を捧げる教会となるのです。

フランクがサント・クロチルド教会にオルガニストとして就任した7ヶ月目に、この教会のオルガンは新しくなり、とても上質な高級オルガンに置き換わりました。この楽器を通してフランクはオルガンのための作曲を行なっています。

オルガニスト、即興演奏家としての名声が高まるにつれ、フランクはオルガン製作者カヴァイエ=コルが新設や改修したオルガンの除幕式や奉献式での演奏を任されるようになっていきました。

教育者兼作曲家となる

オルガニストとして名声を獲得したフランクはいよいよ作曲にも挑戦する事になります。パリ音楽院教授に就任した事による安定した収入がもたらした結果です。

パリ音楽院教授に就任

フランクのオルガニストとしての名声はフランス国内では広く知れ渡っていました。1873年(51歳)、フランクはパリ音楽院にオルガン科の教授として迎えられるのです。

フランクのもとに集まった弟子たちは、師弟間で相通ずる尊敬と愛情によって固く結ばれるようになっていきます。

音楽院の教育方針を遵守していないといった音学院側からの批判もありました。あくまでもオルガンの演奏法のために採用したにもかかわらず、作曲までも教えている事が問題があると批判されたのです。

フランクは教育者の立場に強いストレスを覚えます。人気の高い教師であったため、他の教師たちからの嫉妬などもありました。彼は悩みながらも教育者を続けたのです。

作曲家としての活動

フランクは今までにも何曲か作曲はしているものの、出版社へ持ち込んだりといった事はしていませんでした。50歳過ぎて初めて作曲家という仕事に専念できる環境が整ったのです。

フランクは今まで温めていた楽曲を次々に作曲していきます。オルガンのための音楽だけではなく、交響詩『アイオリスの人々』(1876年)、オルガンのための『3つの小品』(1878年)、『ピアノ五重奏曲』(1879年)などを作曲します。

フランクの晩年

パリ音楽院の教授であったフランクはようやく作曲家としても名を馳せていきます。これから彼の代表作がようやく生まれようとしていました。

名曲誕生

1885年(63歳)8月4日、フランクはレジオン・ドヌール勲章の「シェヴァリエ」を受勲しました。ようやくフランクの才能が公に評価されたのです。

しかし、この受勲は長年のオルガン演奏に与えられたものであって、作曲家としての功績に対してではありませんでした。作曲家としての評価はまだまだ低いものだったのです。

そんな事があった翌年、彼の名を音楽史に刻み付ける名作を作曲します。その作品こそ現在でも良く演奏される『ヴァイオリン・ソナタ』でした。

この作品はベルギーのヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイの結婚祝いとして作曲されたものです。64歳にして始めて後世に残る傑作を生み出しました。

イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏し、さらに演奏旅行に組み込んでしばしば弟のテオ・イザイのピアノ伴奏で演奏しています。

1889年(67歳)、フランク唯一の交響曲となる『交響曲』が出版されますが、曲の評価は良くありませんでした。この作品は彼の死後に評価されていきます。当時の音楽の先を行っていた音楽だったため正当な評価がされなかったのです。

『弦楽四重奏曲』は、1890年(68歳)の初演が聴衆と評論家から好評をもって迎えられます。

作曲だけでなくコンサート・ピアニストとして、演奏会が各地で行われました。ここにきて、フランクは名実ともにフランスを代表とする音楽家としての成功を味わうのです。

作曲者としての成功の後も、彼はサント・クロチルド教会で定例の大きな日曜集会にはオルガンの即興演奏を披露し続けていました。

突然の事故

1890年7月(68歳)、フランクが乗車していた辻馬車が馬引きの列車と衝突事故を起こします。頭を打った彼は一時意識を喪失しました。後遺症が見られなかったため、本人も事故を重要視することはなかったのです。

しかしながら次第に歩行が苦痛になり始めます。このため、しばらく仕事は全てキャンセルされました。この事故が彼の寿命を短くした事は否定できません。

遺書としての傑作作曲

オルガン作品が1890年の8月から9月に書き上げられます。この作品はオルガン音楽で有名な『3つのコラール』であり、今日でも頻繁に演奏されているものです。

後の時代の伝記作家は「全体を通してフランクの意識が大きな別れの言葉となっているのは明らかである」と表現しています。遺書を音楽として残したと言いたいのでしょう。

フランクの最期

1890年10月から音楽院の新学期に入ったフランクでしたが、風邪を引き、これをこじらせ胸膜炎までになるまで悪化させてしまいます。

彼の容体はますます悪化し、1890年11月8日に亡くなりました。68歳の生涯を閉じたのです。

64歳にしてようやく傑作を生み出しました。こんなに奥手の作曲家はそうはいません。
晩年にして『バイオリン・ソナタ』『交響曲』『3つのコラール』と次々に名曲が生まれた。フランクは最後に大輪の花を咲かせたのだな。

フランクの再評価

死の直後からフランクの名声は急激に高まり始めました。かつては評価が低かった作品が各地で演奏され、賞賛を受け、それが止む事はなかったのです。

フランク生誕100周年

彼の死から14年後、ダンディら弟子達がフランクを偲ぶ会をサント・クロチルド教会で開いた時には、多くの熱狂的な一般観衆が参列しました。1922年、フランク生誕100周年での事です。

ベルギーで行われた記念コンサートにはエリザベート王妃が臨席し、自国が生んだ「フランス近代音楽の父」に敬意を表しました。

ドビュッシーの言葉

ドビュッシーは一時フランクの生徒でしたが、彼とはたもとを分かちました。

ドビュッシーはフランクを純粋なフランスの作曲家とは思っていませんでしたし、ワーグナーに影響されすぎているとも考えていたようです。

しかし、ドビュッシーはフランクについて深い敬意を持ち続け、彼が嫌ったワーグナーに唯一対抗しうる「フランス音楽」の作曲家と位置付けていました。

1918年7月1日付けの『Music Times』に、彼によるフランク評が載っています。

「 “至福”にはただ音楽のみがある。ただ美しい音楽のみが」
「不運で、認識されず、子供の魂を持った人物」
「条理にかない、苦悩から解脱した天才」
「フランクは絶え間ない献身をもって芸術に奉仕した。人は彼の音楽を好きか嫌いになるかのどちらかだ。この世のいかなる力も、彼が正しく、必要と思った長さを奪うことなどできない。」

まとめ

フランクは作曲家というよりは教会オルガニストであり、教育者でした。発表している楽曲数は本当に少ない作曲家ですが、『交響曲』、『ヴァイオリン・ソナタ』、『3つのコラール』は後世に受け継がれていくでしょう。

派手さは少しも感じさせない作曲家です。勤勉な努力家タイプの象徴のような人物。作曲家として認められるまでは時間を要しましたが、奥さんとオルガンと弟子達に囲まれ、本人は意外と充実した日々を過ごしたのではなかったかと思われます。

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