エルガーの音楽は誰にも慕われているものが多くあります。例えば『威風堂々』や『愛の挨拶』などはとても有名です。これらの楽曲を聴いた事のない人を探すのが大変なぐらい知られています。
楽曲は有名ですが、どんな音楽家だったかは余り知られていません。日々音楽に没頭していた幸せな人物だったと思っている方々が多いと思われますが、決してそんな単純な生き様ではありませんでした。
エルガーが作曲家としてイギリスの代表格になるまでは苦労の連続だったのです。エルガーの生涯について纏めてみました。
エルガーの青年期まで
驚く事にエドガーは独学で作曲法を習得しました。どの先生に付く事も無く自然に楽譜を手にして自分で覚えたようです。子供の頃から音楽的素養に恵まれていました。
エルガーの生い立ち
エルガー(Sir Edward William Elgar)は1857年6月2日、ウスター近郊のロウアー・ブロードヒースで生まれました。父は、ピアノ調律師兼楽器商を営んでおり、エルガーは7人兄弟姉妹の4番目の子供です。
エルガーの音楽との出会い
父はプロ並みの腕前を持つヴァイオリニストであった事から、エルガー家の子どもたちは皆、父から音楽を教え込まれました。
母も芸術面で理解のある人で、子供たちの音楽を伸ばしてあげたいと思っていたようです。母は本を読む事をエルガーにも薦めており、エルガーも音楽だけではなく、文学にも関心を示します。
エルガーは10歳の頃には作曲をするまでになり、音楽的才能は7人の兄弟姉妹の中で最も優れていました。
音楽の勉強
エルガーは15歳になるまでウスター近郊のリトルトン・ハウス校で一般教育を受けました。その後音楽の道へ進もうと思いますが、家庭の経済的ゆとりが無いため、音楽の教育は受ける事が出来なかったのです。
エルガー自身の言によれば「私の最初の音楽は大聖堂で学んだもの(中略)それと、8歳、9歳か10歳頃に音楽図書館から借りた本で学んだものだった。」
彼は独学で音楽を勉強したのです。貧しさのためにレッスンを受けなれないのだったら、自分で勉強しようと思ったのでした。音楽図書館では本を読み漁り、音楽理論などを身に付けていきます。
あくまでも音楽の道へ
一般学校を卒業したエルガーは地元の事務弁護士の元で事務員として働く事になります。しかし、彼は毎日失望の連続で結局数ヶ月で事務員を辞め、父のピアノ調律師の手伝いをしていました。
その後音楽教室を開き、ヴァイオリンとピアノを教え始めます。ここで割合安定した収入を得られたため、彼は足繁くロンドンに通いさまざまな音楽に接し、シューマン、ワーグナーの作品にはとりわけ強く影響を受けました。
エルガーの結婚
1889年(32歳)にピアノの教え子だったキャロライン・アリス・ロバーツと結婚しました。婚約に際しアリスのために作曲した『愛の挨拶』はのちに広く知られるようになります。
その頃は作曲家としては地元の合唱音楽祭のために作品を委嘱される程度でしたが、夫人の多大な協力もあり徐々に作曲家として認められるようになっていくのです。
エルガー作曲家としての転機
エルガーの名を知らしめることが次々と起こります。エルガーはイギリスを代表する作曲家としての第一歩を踏み出していくのです。
エルガー高まる名声
1899年(42歳)、エルガーに大きな転機が訪れます。代表作のひとつである『エニグマ』変奏曲(1898年)がハンス・リヒターの指揮によって初演され、当時既に42歳だったエルガーは一躍世の注目を集めたのです。
翌1900年にはオラトリオ『ゲロンティアスの夢』が完成、リヒャルト・シュトラウスがこの作品を絶賛したことで、その名声はヨーロッパ中に広まります。
エルガーのもっともポピュラーな作品である行進曲『威風堂々』第1番は、1901年(44歳)に作曲されました。
中間部の有名な旋律は、時のイギリス国王エドワード7世のために書かれた『戴冠式頌歌』(1901年)でも再び用いられ、今日『希望と栄光の国』として愛唱されています。イギリス第2の国歌とまで称されているものです。
次々と名作誕生
これ以降、オラトリオ『使徒たち』(1903年)、オラトリオ『神の国』(1906年)、『交響曲第1番』(1908年)、『ヴァイオリン協奏曲』(1910年)などを次々と作曲します。
さらに、『交響曲第2番』(1911年)、交響的習作『フォールスタッフ』(1913年)、『チェロ協奏曲』(1919年)等々、近代音楽史上の傑作を矢継ぎ早に発表しました。
これらの作品の評価を受けて、1904年にはナイトに叙されるなど、エルガーはイギリスを代表する作曲家として自他共に認める存在となります。
悲しい出来事
しかし、1920年(63歳)に妻のアリスが肺がんで亡くなりました。献身的に支えてくれた妻を亡くした事で、彼は創作意欲までもなくしてしまいます。
世間での人気も衰え始めた時期で、新作の依頼もなく、妻の死をもって、ついに作曲からも離れていきました。
エルガーの晩年
妻の死を乗り越えたエルガーは、当時の新しい試み「録音」を始めます。あの有名なEMIのアビー・ロード・スタジオでの録音は彼が最初となりました。
新たな試み
新技術としてレコーディング技術が開発されるとエルガーはいち早くこれを取り入れます。HMV(グラモフォン)やRCA、EMIなどと契約を結び自作を次々と録音していきました。
また、マイクロフォンによる電気吹き込みの技術が新しく開発され、エルガーはこれにも興味を示し、自身の代表作を次々とレコーディングしていきます。
有名なEMIのアビー・ロード・スタジオで初録音を行なったのはエルガーだったのです。アビー・ロードには1993年6月24日にエルガーを記念する銘板が取り付けられます。
1924年に「国王の音楽師範」の称号を受け、1931年には准男爵にも叙されるなど、その声望が衰えることはなかったようです。
エルガーの最期
最晩年には創作意欲が湧き出し、『交響曲第3番』、歌劇『スペインの貴婦人』、『ピアノ協奏曲』といった大作に次々と着手しますが、いずれも未完成のまま1934年2月23日、癌のため死去します。76歳の生涯でした。
まとめ
ある大きな転機がきて以来、長らくエルガーは祖国イギリスの誇りでした。戦争をはさんで過去の作曲家になりかけた時期もありましたが、彼の楽曲の優秀さのおかげで現在でも高い評価を受けています。
『チェロ協奏曲』を聴いてみてください。彼の才能が良く分かります。『威風堂々』や『愛の挨拶』だけの作曲家でなく、もっと深い音楽性を持っている事が分かっていただけるでしょう。