音楽伝記作家クロード・ロスタンは、フランスの近代音楽の発展へ大きく貢献した音楽家として3人の名を挙げています。ドビュッシー、ラヴェル、あともう一人がこのフォーレなのです。フォーレはこの3人の中で一番名前が知られていない作曲家ですが、大きな仕事を成し遂げています。
フォーレといえば何といっても『レクイエム』と『ペレアスとメリザンド』を挙げねばなりません。特に『レクイエム』はクラシック音楽史上、三大レクイエムと呼ばれるほどの名曲です。そのほかの楽曲では室内楽と歌曲でも良い楽曲を多く残しています。
しかし、クラシック音楽を愛するならば、必ず知っておかなければならない音楽史上に残る偉大な作曲家なのです!そこで、フォーレの略歴やクラシック音楽教育に携わった姿勢、彼の作品様式などを解説していきたいと思います。
フォーレの生涯
フォーレは幼少期からその音楽的才能を示した子供でした。音楽学校に入り順調に才能を伸ばしていきます。教会オルガニストを経て、その後パリ音楽院教授、院長を務めます。作曲だけではなく、音楽教育にも尽力した人物でした。
フォーレ幼少期
ガブリエル・ユルバン・フォーレは1845年5月12日フランス南部、ミディ=ピレネー地域圏のアリエージュ県、パミエで教師だった父の元に五男一女の末っ子として生まれました。幼い頃から教会のリード・オルガンに触れるうちに天性の楽才を見出されます。
フォーレは9歳のときに入学したパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校で学び、教師で校長であったルイ・ニーデルメイエールの死後は、カミーユ・サン=サーンスにピアノと作曲を師事しました。サン=サーンスとの交流は生涯続くこととなります。
この学校はかなり厳格な教育を施した宗教音楽学校であり、生徒は教会オルガニストなることが期待されるような場所でした。そのためその学校では、教育材料として、グレゴリオ聖歌が使われたりしており、複数の旋律を上手く合わせる対位法を幼いころから学びました。
教会オルガニスト
フォーレがニーデルメイエール古典宗教音楽学校を卒業した後は、レンヌで教会オルガニストとして迎い入れられます。彼にとってここから音楽生活が始まったわけです。1870年、フランスに戻ったときには当時勃発していた普仏戦争において、歩兵部隊に従軍志願した事もありました。
1871年に師でもあったサン=サーンスらとともにフランス国民音楽協会の設立に参加しました。教会オルガニストや指揮者としての活動、および国民音楽協会主催の演奏会での自作品の発表が、フォーレの音楽家としてのキャリアの基礎を築くことになります。
その後は、パリのマドレーヌ教会でオルガニストとなり、1896年にはマドレーヌ教会の首席ピアニストに任じられます。またパリ音楽院の教授にも就任しています。これらの事はフォーレが若い頃からいかに才能を持った人物だったのかをよく知ることができます。
パリ音楽院教授
先に述べたようにフォーレはパリ音楽院の教授になりました。彼の教え子の書いたフォーレの伝記によれば熱心な教授であり、仕事の多忙さから自分の作曲の時間がなかなか取れなかったこともあったようです。自分の事よりも学生たちの事を考えていた教育者だったのが分かります。
ちなみにフォーレのクラスの生徒には、ラヴェル、ケクラン、ロジェ=デュカス、フロラン・シュミットといった生徒がいました。ラヴェルを教えた先生ですから、その講義の濃厚さが分かってくるようです。後のラヴェルの活躍にはフォーレの力があったのですね。
この頃にはフォーレの社会的名声も大きくなり、新聞『ル・フィガロ』紙で音楽評論を担当するなどの執筆活動も行うようになっています。学生からは信頼され人気のある教授であり、また、売れっ子の音楽評論家だったわけですから、自身の作曲の時間はそう取れなかったでしょう。
パリ音楽院院長
1905年にはフォーレはパリ音楽院の院長に就任しました。フォーレの伝記によれば、彼は音楽に対し不偏不党の立場をとったといいます。ドビュッシーのような新しい音楽を攻撃することもなく公平に音楽に接したようです。
彼の教育材料も、モンテヴェルディから、ワーグナーに至るまでさまざまであり、音楽に偏りのない自由な教育を施していたことがわかります。そして、以前からの教育課程を改め、数々の教科で、音楽院の抜本的な教育制度改革を行いました。
この時の改革のうち、入学前の生徒と教授の癒着を避けるため、音楽院の外部者に入学審査を行わせたことは、現在でも入学審査に必ず音楽院の外部者が加わっているという形で受け継がれています。このように彼は優れた音楽教育者としても知られています。
フォーレの晩年
晩年には、難聴に加えて高い音がより低く、低い音がより高く聞こえるという症状に悩まされながら作曲を続けました。『ピアノ五重奏曲第1番』以降の作品は、そうした時期のもので、次第により簡潔で厳しい作風へと向かっていきました。
フォーレは、1924年11月4日、肺炎のためパリで死去しました。享年79。過去にオルガニスト、ピアニストとして働いていたマドレーヌ教会で自身が作曲した『レクイエム』が演奏される中、国葬が執り行われ、パリのパッシー墓地に葬られました。
フォーレは死の2日前、二人の息子に次のような言葉を残しています。「私がこの世を去ったら、私の作品が言わんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ・・・」。自身の作品に十分な自信がないとこんな言葉を発することはできません。
フォーレの作品について
フォーレは『レクイエム』、『ペレアスとメリザンド』などの管弦楽曲もありますが、主に室内楽、歌曲を多く作った作曲家でした。これは、フォーレ自身が大曲を好まなかったということが、大きく影響していると考えられます。
フォーレの楽曲
フォーレはむしろ小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多くあります。それぞれ2曲ずつの『ピアノ五重奏曲』、『ピアノ四重奏曲』、『ヴァイオリンソナタ』、『チェロソナタ』と、各1曲の『ピアノ三重奏曲』、『弦楽四重奏曲』があります。
また『バラード』、『主題と変奏』、『舟歌』、『夜想曲』、『即興曲』、『ヴァルス・カプリス』、『前奏曲』など多くのピアノ曲を作りました。歌曲でも『夢のあとに』、『イスファハーンの薔薇』、『祈り』、『月の光』、『優しい歌』などかなりの数の歌曲を残しています。
室内楽曲以外では、心の優しい人間にしか書けない、永遠の名作である『レクイエム』、CMなどでも使われている『ペレアスとメリザンド』が特に有名です。オペラなども作曲していますが、現在ではほとんど上演される機会はありません。
フォーレ音楽の作品様式
フォーレの音楽は、便宜的に初期・中期・晩年の3期に分けられることが多くあります。初期の代表作として、『ヴァイオリン・ソナタ第1番』や『ピアノ四重奏曲第1番』があります。初期の作品には、明確な調性と拍節感のもとで、清新な旋律線が際だっています。
フォーレの中期は、『ピアノ四重奏曲第2番』、『レクイエム』などが作曲された1880年代の後半から、『ピアノ五重奏曲第1番』が完成した1900年代前半までと見られています。ロマン派の影響が色濃いこの時期の作品は華々しさを具えています。
歌劇『ペネロープ』や『ヴァイオリン・ソナタ第2番』が作曲された1900年代後半からは、晩年と考えられます。耳の障害が始まり、扱う音域も狭くなり、半音階的な動きが支配的で、調性感はより希薄になっていきます。しかし、深い精神性を持った傑作が書かれた時期でもあります。
フォーレの意外な一面
フォーレはずっと見てきたように、とても真面目で律儀な人のイメージがありますが、女性関係だけは派手だったようです。若いころのフォーレは享楽的な傾向を持っていました。1883年に彫刻家エマニュエル・フルミエの娘、マリーと結婚した後も変わりませんでした。
1890年代前半はのちにドビュッシー夫人となったエンマ・バルダックと、後半はイギリスの楽譜出版社の夫人のアディーラ・マディソンと関係を持ちました。そして、マルグリット・アッセルマンという女性と出会い、彼女を生涯旅行などに付き添わせるといった事も続けていました。
作曲家に限らず芸術家というのは女性関係が派手な人が多く存在します。フォーレもまさにその1人でした。愛人のために作った歌曲も何曲かあります。あんなに精神的に豊かな『レクイエム』を作曲した作曲家となかなか結び付かない事実です。
まとめ
作品番号だけを見てみると多くの楽曲を作った作曲家でしたが、その多くが室内楽曲、ピアノ曲、歌曲に占められています。大曲として世に知られている曲は『レクイエム』と『ペレアスとメリザンド』ぐらいです。
教育者としても立派な人でした。パリ音楽院の院長まで務められたのは彼に人望があったためです。フランスを代表する作曲家としてこれからも彼の楽曲は聴かれていく事でしょう。