【作曲家ハイドンの生涯】宮使いの生涯は意外と幸せだった!?

作曲家ハイドンは「パパ、ハイドン」と呼ばれます。生涯に100曲以上の交響曲を作曲し「交響曲の父」だから「パパ、ハイドン」との愛称が生まれました。

ハイドンは生涯100曲以上の交響曲を作曲し、また、80曲以上の弦楽四重奏曲を作曲しています。現存する楽譜は700曲以上あり、失われた物をあわせると1000曲近くになる、途轍もなく多産家の作曲家でした。

しかし当時の作曲家はパトロンを持つか、貴族の宮仕えになるかでしか生きていけない時代でしたから、ハイドンも色々苦労しました。今回はそんな「パパ、ハイドン」の生涯を纏めてみます。

ハイドンは交響曲を104曲も作曲したので「音楽の父」と呼ばれています。
曲の多さだけでなく、交響曲というジャンルを完成させた作曲家なのだよ。その意味でもそう呼ばれているんだ。

ハイドンの生い立ち

ハイドンも他の作曲家に負けず、幼い時から音楽的才能を認められて育ったようです。やっぱり世界的に名を残す人は幼少期から違っているのですね。

ハイドン誕生

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)は1732年3月31日、オーストリアのニーダーエスターライヒ州ローラウで生まれました。父は車大工、母は城の料理人でした。

6歳の時に、音楽学校の校長をしていた叔父に音楽の才能を認められ、彼のもとで音楽の勉強を始めます。

1740年(8歳)、ウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊の一員に選ばれました。彼はウィーンのこの教会で9年間働くことになります。

生活面では食事が満足に与えられなかったり苦労したようですが、ここではラテン語や一般教養、音楽教育を施されました。ハイドンにとっては音楽的知識を学べる事が嬉しかったのです。

聖歌隊を解雇

17歳で変声期をむかえたハイドンは聖歌隊を解雇されたあと、生活のためウィーンで市中楽団のヴァイオリニストや音楽教師など、手近な音楽の仕事をしながら悪戦苦闘の日々を送ります。

次の仕事が見つかるまでの約10年はハイドンにとっては辛い時期でした。音楽教師の仕事なんてそう簡単にありませんから、その日暮らしの日々だったのです。

エステルハージ家との出会い

この時代、音楽家は貴族の持つ楽団に雇われるのが普通でした。ハイドンは色々な伝を使ってこの職を求めますが中々上手くいきませんでした。しかし、ようやく運が巡ってきたらしく素晴らしく音楽に造詣が深い雇い主に出会えます。

10年ぶりの定職

1759年(27歳)、カール・モルツィン伯の宮廷楽長の職にありつけました。ようやくフリー生活から脱したハイドンは交響曲の作曲などもしていたようです。

しかし、僅か一年余りでモルツィン伯の経済面の事情により、ハイドンは失職してしまいます。せっかく安定した仕事にありついたと思ったとたんの出来事でした。

エステルハージ家の楽長就任

フリーになったハイドンに声を掛けてくれたのはエステルハージ候爵でした。1761年(29歳)、貴族エステルハージ家の副楽長に就任、そして、1766年(34歳)には楽長に昇進します。

エステルハージ家当主ニコラウス・エステルハージ侯爵は音楽好きで、ハイドンの良き理解者であったといわれています。

その後ハイドンは、楽長として30年間にわたり、エステルハージ侯爵の専属作曲家として仕えるようになるのです。侯爵の計らいでいつでもオーケストラを使えるような好条件付きでした。

このような環境が待ち受けていたのですから、ハイドンは作曲家としての本領を発揮し始めます。交響曲を始めとする様々な音楽を量産するようになっていったのです。

しかし、楽長になったからといって良いことばかりではありませんでした。楽団での演奏、指揮、作曲、楽譜の管理から楽団員のレッスンやいざこざの仲裁まで、結構忙しかったようです。

ハイドンエピソードその1

エステルハージ侯が夏の離宮エステルハーザに長期滞在。そのために楽団員が「休みがほしい、帰りたい」という気持ちを侯爵に伝えるために作られた曲があります。交響曲第45番『告別』という曲で、最終楽章後半で、演奏者が一人ずつ、譜面台に立てられた蝋燭を吹き消して退席します。侯爵は彼らの意図を理解し、楽団員達に休暇を与えたそうです。

エステルハージ侯爵と巡り合えた事で、ハイドンの人生は大きく変わりました。
多忙な日々だったが、自分の好きな作品を作曲できる環境が整ったのだ。この期間にハイドンはかなりの作品を作曲している。

ハイドン最悪の結婚

「世界三大悪妻」をご存じでしょうか。なんと、ハイドンの奥さんもその1人に入っているのです。何でハイドンはそんな女性と結婚してしまったのでしょうか。音楽家には珍しくまともな人だったのに。

不幸の始まり

ハイドンは当初妻の妹に恋していました。その妹を結婚相手に考えていたのです。しかし妹は修道院へ入ってしまい、その恋は適いませんでした。

楽長という地位のため早く結婚する事が必要だったハイドンは、姉妹の母に言いくるめられ、売れ残っていた姉のマリア・アンナ・ケラーと結婚する事になってしまったのでした。

最悪の嫁

1760年(28歳)、ハイドンはマリア・アンナ・ケラーと結婚しました。彼女は教養がなく浪費家で彼の才能に全く無理解だったと言われています。

結婚生活は幸福ではなく、子供もできませんでした。マリア・アンナは1800年に没しましたが、最後の10年間はほとんど別居状態にありました。

ハイドンは嫁には目もくれず、長く付き合っていたエステルハージ家お抱えの歌手ルイジャ・ポルツェッリ夫人と不倫、1人、あるいはもっと多くの子をもうけたのではないかと言われています。

形だけの結婚だったのですね。ハイドンは誰でもよかったのかもしれません。性格が悪くて行き遅れていた女性をあてがわれたのも、運命だったのでしょうか。

エステルハージ家の楽長辞任

ハイドンはエステルハージ公爵にも愛され、彼が亡くなるまでの30年間、公爵へ尽くして来ました。しかし、公爵が亡くなると楽団は解散され、またフリーランサーになってしまいます。

エステルハージ家での成果

エステルハージ公爵の後押しもあり、彼のオーケストラの元で音楽の技を磨いていきました。勤めの合間をぬっては好きな作品を作曲する充実した時期だったでしょう。

この30年簡に作曲した作品は数えるのも一苦労な数に達しています。ハイドンの名は有名になっていました。

音楽のスタイルもより向上し、エステルハージ家の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家のためだけではなく、出版するためにも曲を書くようになりました。

楽長退任

1790年(58歳)、ハイドンのよき理解者であったニコラウス・エステルハージ公爵が亡くなると、その後継者アントン・エステルハージ侯爵は、音楽に全く興味が無く、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンを年金暮らしにさせてしまいました。

定職が無くなったとはいえ、年金が付くし、ハイドンにとっては忙しい宮仕えから解放され、作曲に専念出切る環境が整ったわけで、彼にとっては悪い話ばかりではありませんでした。

ハイドン、イギリス訪問

フリーランスになったハイドンは、2度イギリスを訪問しています。このイギリス訪問は大成功を収めました。ハイドンは富と名声を獲得します。

なお、このイギリス訪問の間に、ハイドンの最も有名な作品の数々(『驚愕』、『軍隊』、『太鼓連打』、『ロンドン』の各交響曲)が作曲されています。

これらの交響曲は12曲に及び、ロンドンに招へいした人物に因み、ザロモン・セットと呼ばれています。ハイドンの交響曲の最後を飾る名曲揃いです。

イギリスから戻ったハイドンは、稼いだお金でウィーンに豪邸を立て、悠々自適の生活を謳歌する事になります。成功者のみが手にできる贅沢でした。

ハイドンエピソードその2

当時の演奏会はいわば社交場であって音楽に没頭するような人は多くいませんでした。演奏会中寝るのは当たり前の光景でした。このことに頭にきたハイドンは演奏途中にティンパニを思いっきり強打させる曲を作りました。この曲が有名な交響曲第94番『驚愕』です。あだ名通りびっくりさせて目を覚まさせたのでした。

ハイドン、二大作曲家との出会い

このフリーランスの時代にモーツァルトベートーヴェンに会っています。勿論、ハイドンの方が当時では大作曲家であり、音楽家たちは面会できる事を皆望んでいました。

モーツァルトとの出会い

24歳年下のモーツァルトをハイドンは「私が知っている中で最も偉大な作曲家」と評し、モーツァルトもハイドンの作品から影響を受け、手本にして作曲し、また一緒に演奏したりしています。

旅先のロンドンにおいてモーツァルトの死を知った時は、その死を悼み、ひどく悲嘆したといわれています。

モーツァルトもハイドンに敬意を表して6つの弦楽四重奏曲を彼に贈っています。ハイドンセットとして名高い作品です。

ベートーヴェンとの出会い

ベートーヴェンとはロンドンからの帰途ボンで出会い、短期間ではありますがベートーヴェンはハイドンの門下生になっています。

ハイドンは、気難しく頑固で自分の才能に自信を持っていたべートーヴェンを持て余していたようでしたが、その才能は見抜いていました。

再びエステルハージ家に宮仕え

エステルハージ家の主が変わり、再度エステルハージ家の楽団を再建して欲しいと請われたためです。こうしてまたハイドンは宮仕えの道に戻ります。

ニコラウスⅡ世侯からの要請

2回目の渡英から帰国したハイドンは、再びエステルハージ家に楽長として仕えています。アントンⅡ世侯が亡くなり、後を継いだニコラウスⅡ世侯が熱烈な音楽愛好家で、楽団を再建したかったからです。

楽長の職務は以前とは比べものにならない軽さでした。この時ハイドンはすでに64歳でしたが、創作意欲は衰えることはなかったようです。

大作を次々と作曲

ロンドンで聞いたヘンデルの『メサイア』に感動した彼は、滞在中に手に入れた台本を基に、オラトリオ『天地創造』の作曲に取りかかります。

彼の持てる力と技術の全てを注いだ『天地創造』は3年の年月をかけて作曲され、1798年(66歳)4月に完成しました。

その後オラトリオ『四季』や6曲のミサを作曲していますが、『四季』を作曲し始めたころから偏頭痛に悩まされ、その後急速に衰えていきました。

ハイドンは合計で40年以上も宮仕えをしていました。
宮仕えといっても、ハイドンの場合は良い理解者に恵まれて、幸せな生活を送れたのだ。

ハイドンの晩年

ハイドンも寄る年波に逆らえず、引退の道を選びます。中断はありましたが、エステルハージ家という良き理解者に恵まれて、幸せな生涯だったと想像出来ます。

エステルハージ家楽長退任

1802年(70歳)、ハイドンは持病が悪化して、作曲ができないほど深刻になります。晩年のハイドンは自分でかつて作曲したオーストリアの祝歌をピアノで弾くことを慰めとしていたようです。

1804年(72歳)になったハイドンは老衰を理由に、42年間4代の主君に仕えたエステルハージ侯爵家の楽長職から身を引きます。その時のハイドンの気持ちの中にはいろいろな事が思い出され、感傷にふけったに違いないでしょう。

ハイドン死去

1809年5月31日早朝、ウィーンで亡くなりました。77歳と2ヶ月の生涯です。追悼式には多くの市民が駆けつけ、モーツァルトの『レクイエム』が演奏されました。

ハイドンエピソードその3

現在のドイツ国家はハイドンが作曲したものです。『神よ、皇帝を護りたまえ』という曲で、第2次大戦でドイツが敗れた後でも、歌詞を変えて歌われています。ハイドンが作曲の国家なんて素晴らしいですね。

まとめ

ハイドンは青年期に少し出遅れましたが、後は順風満帆な人生でした。侯爵の使用人として優秀だったからという事もあるでしょう。現在でもハイドンの曲が演奏されている事実は紛れも無くハイドン自身の才能の結果です。

我々はハイドンに敬意を表して、今後も聴き続けます。演奏する側にとってハイドンは難しいと良く言われます。人類の宝であるこれらの曲を後世に引き継ぐのも我々の責任です。

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