作曲家ホルストの生涯【『惑星』1曲だけで有名になった作曲家】

『ジュピター』は平原綾香が歌ったことで世間に知られるようになりました。『ジュピター』は元々ホルストの組曲『惑星』という曲の中の1曲なのです。『ジュピター』=木星だけではなく、海王星までの惑星がこの曲の中に入っています。

ホルストは本当に『惑星』の1曲だけで世界的名声を得ました。クラシック音楽の愛好家でもホルストの他の音楽はと聞かれても即答できないでしょう。

逆に言うと、『惑星』以外は知られていない作曲家です。売れずに去っていく作曲家は星の数ほどいますから、1曲だけでもその名を音楽史に残した事は素晴らしい事です。作曲家ホルストの生涯について纏めてみました。

ホルストといえば『惑星』の作曲者という事しか知りません。
ほとんどの人がそうだろう。作曲に専念したがったが、本業は女学校の教師だったのだ。

ホルストの略歴

ホルストの生い立ちから青年期までを見ていきます。作曲家として活躍するまでは、紆余曲折がありました。その作曲家ですら、本職ではなかったのです。

ホルスト誕生・幼少期

グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)は1874年9月21日、イングランド、グロスターシャー州チェルトナムでスウェーデン・バルト系移民の家系に生まれました。

チェルトナムは温泉の町として知られています。王室御用達の温泉地でもありました。

父は音楽教師でピアノ、オルガン奏者、母はピアニストだった事もあって、家庭環境は非常に音楽的でした。しかし、母はホルストが8歳の時に亡くなり、伯母の元で育てられます。

父はホルストと弟イーミルに非常に厳しく音楽を教え、2人をピアニストにしようと考えていました。

しかし、ホルストは、12歳の頃から作曲家になる事に憧れ、独自に勉強を始めます。しかし、ピアニストにしたい父親はそれをむしろ邪魔し、ホルストが大好きだったグリーグの音楽を聴くことさえ禁じました。

そんなホルストは父のいない時を見計らって、ベルリオーズの『近代の楽器法と管弦楽法』を読みふけり、作曲家としての道を独学で進んでいきます。

その後、ホルストは右腕の腱鞘炎が悪化したため、ピアニストへの道は難しくなります。流石の父もけがのためでは仕方がないと諦めてくれました。ホルストはようやく自身がなりたかった作曲家への道を目指すのでした。

1887年(13歳)、チェルトナム・グラマー・スクール入学、1891年卒業。1892年、17歳でウィック・リッシントンのオルガニスト兼合唱指揮者の職に就きます。経済的な理由でした。

ホルスト青年期

1893年(18歳)、イギリス王立音楽大学に入学してチャールズ・スタンフォードの下で作曲を専攻しました。しかし、期待していた奨学生にはなれず、父が借金をして入学できたのです。

1894年(19歳)、腕の神経炎のため副科のピアノは断念し、代わりにトロンボーンを修めることになります。

1895年(20歳)、生涯の友、ヴォーン・ウィリアムズと出会い、その交流は終生続き、お互いの作品を批評しあうなどして互いに影響を与え合います。

1898年(23歳)、イギリス王立音楽大学を卒業しました。この頃からインド文学に興味を持つようになり、バラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』に感銘を受け、後にその一部を作品に引用するようになります。

また、トロンボーン奏者として身を立てようと考えた彼は、スコットランド管弦楽団のトロンボーン奏者の職に就きました。

作曲家を目指してはいましたが、作曲家として食べていくのは難しいと考えたため、とりあえずトロンボーン奏者としての道を選択したのでした。

1901年(26歳)6月22日、イザベル・ハリスンと結婚します。しかし、貧乏だったため新婚旅行には行けずじまいでした。

1903年(28歳)、父の遺産でようやく新婚旅行替わりの休暇をドイツで過ごし、毎夜演奏会に通い、マックス・ブルッフや愛好家と交流しました。

再就職先は女子高教師

帰国後はスコットランド管弦楽団のトロンボーン奏者を辞め、ジェームズ・アレン女学院の音楽教師になりました。彼は教師をやりながら作曲もしようと思ったのです。評判が良く、ほどなくして非常勤から常勤に格上げされます。

1905年(31歳)、セント・ポール女学院に招かれ音楽部長に就任します。この学校から与えられた音楽室が、彼の作曲の場となります。何とここにはセントラルヒーティングが付いていました。彼はこの学校でこれからの一生涯を過ごす事になります。

平日は教鞭を執るのに忙しく、週末と長期休みの時だけが彼の作曲家としての時間となりました。時間がない事も影響したのか、彼の作品はいくつかの作品を除き、大変短い作品が多いのが特徴です。

1919年(45歳)から1923年まで、王立音楽大学教授とレディング大学教授に就任。セント・ポール女学院との掛持ちでした。

トロンボーン奏者を辞めて女学院の教師になったのですね。果たしてそれは彼のためになったのでしょうか。
学校の先生は夏休みなど長期休暇が取れるから、作曲するには適していると考えたのだろう。

ホルスト『惑星』作曲

『惑星』は勤務先の女学校の音楽室で作曲されました。この曲は初演当時から人気のあった曲ですから、学生達は驚いたでしょうね。うちの先生は大作曲家だったのねとキャーキャー言われたはずです。

『惑星』の作曲

ホルストは東洋思想や占星術、ギリシャ神話に凝っていましたから、『惑星』はそのことから着想を得て作曲しました。

作曲時期は1914年から1916年まで。第1次世界大戦の最中でした。しかし彼は神経炎と極度の近視のため兵役免除となっていたのです。戦争に行っていたらこの曲は出来なかったかもしれません。

ホルストは曲の順番を下のようにしました。天文学の知識があったためです。黄道12宮の守護惑星に基づく様に作曲したため水星と火星が実際とは入れ替わっているのです。

『惑星』はピアノ、オルガン用に作曲しましたが、後に管弦楽用に編曲しています。

  1. 火星、戦争をもたらすもの
  2. 金星、平和をもたらすもの
  3. 水星、翼のついた使者
  4. 木星、歓びをもたらすもの
  5. 土星、老年をもたらすもの
  6. 天王星、魔術師
  7. 海王星、神秘主義者

この曲は1920年(46歳)に初演されました。海王星には女声合唱が入るので、その斬新さに聴衆は驚いたそうです。最初から好評を得ました。

私も初めてこの曲を聴いたときの驚きは今でも忘れられません。『火星』の独創的な音楽、そして『木星』はこの曲がこの楽曲の中で1番の聴かせどころなんだなと分かるフルオーケストラの大音声!これは現代人が好む音楽だと感じました。

『惑星』の大ヒットはカラヤンのおかげ

初演は大成功でしたが、同時代の作曲家の意欲的な作品と比較してやや低水準と見なされた本作品は、ホルストの名と共に急速に忘れられる道を辿ります。一時は英国内の一作曲家のヒット作という程度の知名度に甘んじるようになります。

今日のような知名度を獲得するのは、1961年頃にヘルベルト・フォン・カラヤンがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会で紹介した事がきっかけです。

カラヤンは続いて同じオーケストラでレコードを発売、鮮明な録音もあって大ヒットとなり、この曲は一躍有名になりました。それ以後、近代管弦楽曲で最も人気のある作品の一つとして知られるようになります。流石は帝王カラヤン!!

『惑星』エピソード

  • カラヤンの他に、日本ではもう1人忘れてはいけない作曲者がいます。それは、冨田勲が「シンセサイザー」を使ってこの曲を編曲し、レコードを作った事も人気になるきっかけでした。スピーカーから出る音をもう1セットスピーカーがあるように音の広がりを生み出し、「シンセサイザー」にしか出来ない音響効果を作り出しています。本当に素晴らしい物でした。
『惑星』は一時期忘れられた作品だったのですね。
そうなのだ。カラヤンがウィーン・フィルの公演で取り上げた事が再評価のきっかけになったのだよ。

ホルストの晩年

ホルストは女学院の仕事と大学での仕事と両立させていた時期もあり、多忙を極めました。その間に次第に病魔に冒され始めます。

ストレスのたまる仕事

ホルストは一時、女学校教師・大学教授・作曲家を全てこなしていました。1924年(50歳)、多忙とストレスで作曲以外の仕事から離れるよう医師から勧められます。そのため、大学教授の仕事は辞めてしまいます。

1932年(58歳)ハーバード大学から6カ月間講演を依頼され渡米しますが、十二指腸潰瘍が発見されイギリスに戻ります。

ホルストの最期

ホルストは女学校で相変わらず忙しい日々を過ごしていました。大学の方は辞めたといっても、女学校で教鞭を執り、オーケストラを教えていたわけですから、医者が勧める様な生活は無理でした。

1934年(59歳)3月、ホルストは健康が優れないまま女学校の仕事を続けていました。しかし、5月25日ロンドンで胃潰瘍の手術をした後、心不全で死去しました。59歳。サセックスのチチェスター大聖堂に埋葬されました。

ホルストは教師という職業が天職だったようですね。大学の教授にまでなっています。
『惑星』以外の作品は全く人気が出なかったのだから、作曲家として独立する夢は叶わなかったのだね。

ホルストの作品

ホルストが存命中に作曲し、楽譜を出版した作品は53作品に留まります。不本意ながら、作曲家が本業ではなく、女学校及び大学での教師をしながら作曲していたため、発表した作品数は少なくなっています。

その中には交響曲、オペラ、歌曲、合唱曲、交響詩、吹奏楽などの作品があり、様々なジャンルに渡っています。

1:歌劇『撤回』(1895)
8:交響曲ヘ長調『The Cotswolds』(1899-1900)
11:歌劇『若者の選択』(1902)
13:交響詩『インドラ』(1897-8)
23:歌劇『シータ』(1899-1906)
25:歌劇『サーヴィトリ』(1908)
28-1:吹奏楽のための組曲第1番(1909)
28-2:吹奏楽のための組曲第2番(1909)
29-2:セントポール組曲(1912-3)
30:讃歌『The Cloud Messenger』(1910-2)
32:組曲『惑星』(1914-6)
33:日本組曲(1915)
39:歌劇『どこまでも馬鹿な男』(1918-22)
53:6つの合唱曲(1931)

この中で、作品30の讃歌『The Cloud Messenger』は大作でホルストが自信を持って世に送り出したものでしたが、失敗に終わっています。

1974にはホルストの娘イモージェン・ホルストによって、主題別カタログが出版されてました。これによると、未発表の作品が140曲ほどあった事が分かります。

まとめ

ホルストの半生は教育のために費やされました。女学校と大学教授、そして作曲家として多忙な人生でした。作曲家としては数々の合唱曲を始め管弦楽曲など合わせても200曲ぐらいの作品しか残していません。

作曲が本業ではありませんでしたからね。有名なのは『惑星』だけと言っても過言ではありません。でも、この1曲が我々に幸せを与えてくれます。それだけで十分です。

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