ジョン・ケージという作曲家をご存知でしょうか?全く知らないという人の方が圧倒的に多いと思われますが、クラシック音楽愛好家の人でも多くは『4分33秒』の作曲者という事ぐらいしか知らないと思います。
ケージが作曲した『4分33秒』が果たして名曲なのか、なぜこれだけ話題になったのか、理解に苦しむところはあります。
ケージは様々な実験音楽を作品に残してきました。ケージは果たして天才作曲家だったのか、ケージの生涯を纏めてみました。
ジョン・ケージの生い立ち
ケージの幼少期について書かれた文章を目にした事がありません。彼がどういう幼少期を送ったかは不明です。その後、突然作曲を始めますが、そのきっかけも分かっていません。
ジョン・ケージ少年期
ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cage Jr.)は、1912年9月5日カリフォルニア州のロサンゼルスに生まれました。父は発明家であったそうですから、ケージの性格形成に何らかの影響を与えたのかもしれません。
ロサンゼルスのロサンゼルス高校を優秀な成績で卒業し、カリフォルニア州クレアモントのポモナ・カレッジに入学しました。
しかし、学業に興味を失い、2年間で大学を退学しまいます。そして渡欧の計画を立てるのでした。
ジョン・ケージ青年期
その後ケージは1930年(18歳)から1年間パリやセヴィリアなどヨーロッパ各地を回って建築を学びました。しかし、パリでは最初の作曲を行なっています。
1931年、1年間の旅行を終え、ロサンゼルスへ戻りましたが、すぐに作曲の勉強を始めました。
何が彼を作曲の世界にいざなったのか、誰も知りません。彼が亡くなった今では、その理由は永遠に謎のなってしまいました。
1934年(22歳)にシェーンベルクが訪米したため、ケージは1937年まで南カリフォルニア大学のシェーンベルクのクラスで学びます。彼に感銘を覚えたケージは作曲に生涯をささげることを決意しました。
前衛音楽家として活動
ケージはまず電子音楽に挑戦しました。『心象風景第1番』はピアノとシンバルに加えて、ターンテーブルを用いて録音されたランダムな試験音声を用いるという前衛的なものです。
ケージを有名にしたものに「プリペアド・ピアノ」があります。ピアノの弦と弦の間にネジ回しやボルトなどを散りばめ、演奏と共にパーカッションのような響きが得られるようにしたものです。
ケージはこの「プリペアド・ピアノ」を利用して『バッカナール』などを作曲し、音楽の可能性を開いていきます。
1942年(30歳)、ニューヨークへ移住した彼はスランプに陥りました。そのスランプを振り払ったのは、「プリペアド・ピアノ」でした。
ネジ回しやボルトに変えて、木片や竹、プラスチックやゴム、硬貨といった小物を使用し、新たな響きを求めたのです。
「沈黙」の美学に目覚める
1946年(34歳)、ケージはインド人音楽家ギータ・サラバイと出会います。ケージは彼女からインド哲学を紹介され、アジア的な美学や精神世界に強い親近感を抱くようになりました。
「沈黙」を学ぶ
インド哲学を学んだケージは、その影響を受けた作品を発表するようになります。その特徴は「沈黙」が最大のものでした。
「プリペアド・ピアノ」によるかつてない響きの発見と「沈黙」の精神は、以降のケージに多大な影響を与えるのでした。
「沈黙」の美学を発展
1940年代末頃、ケージは「沈黙」の美学を発展させます。1945年から2年間に渡ってコロンビア大学にて鈴木大拙より禅を学びました。
1948年(36歳)にはノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとるようになります。
1950年、ケージは著書『サイレンス』の原型となった講義を行いました。この講義においてケージは沈黙を時間配分の構造と関連付けて論じています。この頃から、『4分33秒』へ繋がる事を考えていたようです。
「偶然性」の音楽の確立
「沈黙」の概念に取りつかれた彼は、作曲者の意図や趣向、願望を完全に否定する段階に至ります。「偶然性」の音楽にのめり込んでいくのです。
ついに『4分33秒』誕生
1952年(40歳)、ケージは長年温めていた「沈黙の祈り」の構想を形にします。『4分33秒』という作品でした。
作品とはいえ、4分33秒間、全く音は出ません。面白いのは、この作品は3楽章制であり、それぞれの楽章が、全休符しかないのです。楽器の指定もないので、どんな楽器でも演奏(?)できる音楽となっています。
「偶然性」の要素と「沈黙」とを合わせた結果、この作品が誕生したわけです。この作品は作曲家の中でも論争を巻き起こします。
楽譜の変化
1940年代のケージの楽譜を見た事があるでしょうか。それは5線譜ではなく、図形譜と呼ばれるものでした。現代絵画のようなものもあれば、現在のQRコードに近いようなものもあります。これらをチャートと呼ぶのです。
演奏家はそれを自由に解釈して音楽を付けるといったものでした。「不確定音楽」とか「偶然性の音楽」と呼ばれた時代です。
1950年代における音響機器の技術革新も、ケージにとっては興味深いものでした。1952年、ケージはテープレコーダーを用い、磁気テープのための曲『ウィリアム・ミックス』を発表します。
こうした環境の変化に応じて、ケージはチャートを使うのをやめ、今度は5線譜に様々な輪郭を持った図形を配置する譜面形態を使う事を始めるのです。
ケージは新たな図形譜によって不確定性音楽の探求を行なっていきます。
ジョン・ケージ自然への関心
1950年代にニューヨークから郊外へ転居した頃より、自然に対して強い関心を示していました。この事からきのこに取り付かれ、きのこ研究者としても名を馳せます。
自然への関心、なかでもキノコ狩りへの情熱は群を抜いており、彼のコレクションは現在カリフォルニア大学サンタクルーズ校が収蔵しています。
またニューヨーク菌類学会の創設者にも名を連ねました。こうしたケージの嗜好は1970年代以降の作品に登場してきます。
キノコを好む理由のひとつは、辞書で “music” の一つ前が “mushroom” だったからだと言われています!
ジョン・ケージ晩年
晩年はまた違った音楽の嗜好になってきます。ナンバー・ピースと呼ばれる、題目が数字だけの作品が増えてきました。
ナンバー・ピース
ナンバー・ピースに属する作品は、タイトルの数字が楽器または演奏者の数(パート譜の数)を示し、その右肩の小数字が、その数のために書かれた何番目の作品なのかを示しています。
ピアノのための『One』などの独奏曲から、『Seven』などのアンサンブル曲、『101』となると101人を要する巨大編成のオーケストラ曲の作品となります。
演奏方法などはここでは省略します。興味がある方はナンバー・ピースを調べてみてください。
ジョン・ケージの最期
1992年8月12日、脳溢血のためにニューヨークで死去しました。79歳の生涯。ここまで実験音楽をやり続けてきた人生に悔いはなかったはずです。
『4分33秒』について
世紀の名曲とされていますが、本当にこの曲?は名曲なのでしょうか。楽器を演奏しないこの曲をどう理解すればよいのでしょうか?
3楽章から成る『4分33秒』
『4分33秒』の楽譜です。TACETは休みを表します。
Ⅰ TACET
Ⅱ TACET
Ⅲ TACET
楽器の指定も無く、ピアノでやる場合やオーケストラでやる場合もあります。
この楽曲の価値
以下は作曲家、薮田翔一氏による解説です。長文ですがそのまま引用します。
『4分33秒』を語る上で一番大切な事は、この曲の持っている「新しい概念」にこそ価値があることを理解しないといけません。
現代音楽の持っている特性の1つに「新しい概念の創造」と言うものがあるのですが、例えば、「これまで価値が無いと考えられていたものに対して価値がある事」を証明できたり、「既に有る価値観に対して大きな変化」を与える事が、それに当たります。
芸術と言うのは、常にそうした「価値の証明」や「価値の変化」が起こった時に新しい作品は生まれてきました。つまり、ジョン・ケージが提唱した『4分33秒』の世界は、「最も複雑な音楽」とは対の存在となる「最も単純な音楽」を証明し、その価値を世に伝えたのです。
「4分33秒」は、この曲に続くような曲を作曲する事は不可能で(『0分00秒』、『4分33秒』の第2番は発表されている)、たった1曲で1つのスタイルを頂点にまで持っていき、そして終焉させてしまいました。
このような決定力の強い楽曲は他には無く、もしかすると、この先の将来、数百年、数千年経ったとしても、これほどの作品は世に出てこないのかも知れません。
これこそが、『4分33秒』が評価される大きな理由の1つです。
本当に名曲なのか
正直に言うと、残念ながら私には理解できません。この楽曲は私にとっては一生?マークのつく楽曲であり続けるでしょう。皆さんは、どう思われるでしょうか。ご意見を伺ってみたいものです。
楽器を何も演奏しないのです。どう評価していいのか、残念ながら私の理解を超えています。
ジョン・ケージ エピソード
変人ともされる彼にはさまざまなエピソードがありますので、いくつか書いておきます。笑っていいのかどうか、本人はいつも真剣なのです…。
京都賞受賞に際して
「絶対に正装はしない!シャツとジーンズで出る」と言い張り、関係者との間でトラブルになりました。この時、「日本の伝統衣装、たとえば羽織袴なら」というスタッフのアドヴァイスに好意を抱き、羽織袴着用での受賞となったのでした。
演奏時間は脅威の639年
『Organ2/ASLSP』は639年かけて演奏する曲。楽譜に書いてある数字は「2004年7月5日になったらこの音を演奏」といった指示。なんと今も実際に演奏されてるらしいです。
幼稚園児の送迎
生活は貧しく、師のシェーンベルクが50歳過ぎでもアメリカで奨学金を追い求めて苦労したように、幼稚園児の送り迎えのアルバイトをしていたと言われています。
全てが自由
どこへ行くにもボロボロの普段着で出かけ、電話帳にも実名を載せたために普通のファンの電話もマネージャーを介さず全て自分で取ったといわれています。
まとめ
ジョン・ケージは私にとっては理解できない作曲家の1人です。あえてこの記事を書きましたが、読者にどう伝わるか図りかねます。
一部の人たちにとっては、素晴らしい作曲者に映っているのかもしれませんね。しかし、私にとってはどう判断していいか分らない作曲家です。