マーラー

マーラーは大好きな作曲家です。生まれて初めて『交響曲第1番』を聴いた時の感動は忘れられません。こんなに感動させてくれる曲があったんだと感激しました。マーラーに夢中になったのはそれからです。学生時代はベートーヴェンよりもマーラーを聴く方が多かったかもしれません。

日本中にマーラーブームが広がり始めた頃かと思います。1970年代から80年代にかけて、どのオーケストラもマーラーのコンサートが多く演奏されていました。今ではマーラーのコンサートは客を呼べる人気作曲家として定番になっています。

マーラーの本職は指揮者でした。それも大変優秀な一流の指揮者で、とても多忙な日々を過ごしていたのです。ですから作曲はシーズンオフや休日を利用して行っていました。マーラーの生涯を指揮者と作曲家の二つの面から見ていきたいと思います。

マーラーは指揮者としての評価が高かったのですね。
現在のウィーン国立歌劇場の音楽監督まで上り詰めたんだよ。

幼少期から青年期

1860年7月7日、オーストリア帝国ボヘミアでユダヤ人の両親の間に第2子として生まれました。夫妻の間には14人の子供が産まれていますが、半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡しています。第一子(長男)も早世したことから、マーラーは長男として育てられました。

4歳からアコーディオンやピアノに親しみます。父は自分の仕事を継ぐことを息子にも期待もしましたが、マーラーの音楽的才能をいち早く悟り、良い音楽教育を受けられるように援助を惜しみませんでした。

1869年から1875年までイーグラウのギムナジウムで学び、1870年10月13日、わずか10歳の時、イーグラウ市での最初のピアノ独奏会を行ったといいます。

1875年ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学しました。ピアノ、和声楽、作曲法を学んでいます。

1876年にピアノ演奏解釈賞、1877年に作曲賞を受けました。1877年ブルックナー『交響曲第3番』第2稿版の初演演奏会でブルックナーと出会い、さらにウィーン大学においてブルックナーの講義を聴講します。

この時から2人の間に深い交流が始まりました。マーラーがまだ17歳の時です。天才振りを如何なく発揮し始めたと言う事でしょうか。1878年ウィーン学友協会音楽院の作曲賞を受け、同年卒業しました。

マーラーは幼少時から才能に恵まれていたのですね。家族の援助もあり、名門の音楽院に入学しました。
まさに天才の王道を歩んできた人物だったのだね。マーラーは最初指揮者として活躍するのだよ。

指揮者としてのマーラー

マーラーの本業は指揮者でした。指揮者として最初は仕事がなくて苦労したようですが、その後才能が認められ、各地のオーケストラの音楽監督など歴任しました。

指揮者としての出発

マーラーは後にこう語っています。「正直言って私は指揮法を正式に学んだことがない。と言うより、当時の音楽院に指揮科がなかったから学びようがなかった。」

1883年9月23歳の時、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となります。1884年、ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望しましたが受け入れられませんでした。

しかしその年の6月、音楽祭でベートーヴェンの『第9交響曲』とフェリックス・メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮して、指揮者として成功を果たします。

1885年、プラハのドイツ劇場の楽長に就任。1886年8月、ライプツィヒ歌劇場で楽長となります。ようやくここから以降は貧困とは無縁となりました。

指揮者として成功

1888年10月、ハンガリー、ブダペスト王立歌劇場と10年契約をし、芸術監督となります。1889年1月、ワーグナーの『ラインの黄金』と『ワルキューレ』の完全上演の初演を果たし、高い評価を得ました。しかし、この歌劇場は2年で辞任します。

1891年4月から1897年まで、ドイツ、ハンブルク市立歌劇場の主席指揮者となります。R.シュトラウス、ビューローなどとも親しく交友を結びました。1892年ロンドンで客演し、当地では最初のワーグナー『ニーベルングの指輪』全幕上演を成功裏に終わらせます。

仕事のために改宗

1897年37歳の春、ユダヤ教からローマ・カトリックに改宗します。ウィーン宮廷歌劇場の仕事のためでした。

家族の驚き様は半端ではありませんでした。我々日本人には良く理解できませんが、ユダヤ教徒がカトリックに改宗する事は、正に清水の舞台から飛び降りるような物です。仕事のためとはいえ、マーラーは随分悩んだと想像できます。

名実とも世界一の指揮者へ

1897年5月、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一指揮者(音楽監督)に任命されました。10月に終身の総監督(当時は芸術監督という名称)となります。1898年ウィーン・フィルハーモニーの指揮者にも就任。

名実ともマーラーは世界一の指揮者に就任した訳です。歌劇場の音楽監督(つまりウィーン・フィルの指揮者)はヨーロッパの頂点ですからマーラーは指揮者としてトップに昇り詰めた訳です。

凋落も早かった!

1901年(41歳)4月、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いを悪くし、ウィーン・フィル指揮者を辞任します(宮廷歌劇場の職務は継続)。

1907年(47歳)にはウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を、ウィーン皇帝勅令により解雇されてしまいます。その理由は明かにはされていませんが、楽団員との確執によって追い込まれたと考えられています。

アメリカでの再出発

1907年12月、メトロポリタン・オペラから招かれ渡米しました。また当地のフィルハーモニー協会の指揮者として何度か渡米しています。モーツァルト、ヴァーグナー、スメタナらのオペラ、またブルックナーの交響曲連続演奏が、この地でのマーラーの偉業となりました。

1908年(48歳)、ニューヨークのメトロポリタン・オペラの指揮者に就任。翌年はニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団の指揮者となります。これが彼の最後のシーズンとなりました。

マーラーがオーケストラを渡り歩いた理由

ここまで記述してきたように、彼は幾つものオーケストラを渡り歩いてきました。それには彼らしい理由があるのです。彼は音楽のためにオーケストラに様々な要求をしました。

その指示の仕方が問題だったのです。奏者を馬鹿にしたり、皮肉を込めた言い方をしたりと、オーケストラを散々罵倒するような問題発言ばかりだったのでした。

いくら腕のいい指揮者だったとしても、これではオーケストラが付いてくるはずはありません。オーケストラ側からの反発が強く、どのオーケストラも長続きしなかったのです。

マーラーからすればプロのオーケストラである以上、ある水準を維持しておくことは当然の事で、それが出来ないと容赦ない攻撃をしたのでした。要は彼の人間性が招いた事態であり、神経質なマーラーにとって我慢など出来なかったのです。

指揮者として大成しましたが、オーケストラからは随分と嫌われていました。
罵声を浴びせる指揮者だったようだから、オーケストラからは嫌われていた指揮者だったようだ。でも、演奏については高く評価されている。
マーラーこぼれ話その1

当時の歌劇場では観客に「サクラ」を雇い、やらせの拍手や声掛け(ブラボー)は当然の事として受け入れられていましたが、マーラーはそれを全て廃止しました。そんなものを必要とせずとも良い音楽を聴かせる自信があったのでしょう。

作曲家としてのマーラー

マーラーは指揮が本業であったため、作曲はシーズンオフにしていました。文字通りの季節作曲家です。作曲する分野も交響曲と歌曲のみと限定的な作曲家でした。

シーズンオフの作曲家

指揮者としてデビューし、有名指揮者であったため、シーズン中(10月から翌年の6月)は忙しくて、作曲に専念する時間は取れませんでした。

マーラーはやむを得ずシーズンオフに作曲するしかなかったのです。作曲に専念していたらもっと多くの名作を残す事ができたことでしょう。そんな事情もあった事から交響曲と歌曲に専念したのかもしれません。

しかし、指揮をするということは作曲家のスコアを研究する事になるので、その点では参考になることが多くあったのだろうと推測できます。だからこそこれだけ素晴らしい名作を作れたのだという事もできますね。

作曲小屋

1893年にシュタインバッハ・アッター湖畔に作曲小屋を建て、1896年まで作曲小屋に使用します。ここでは『交響曲第2番』『第3番』を作曲。

1899年39歳の時に、南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニックに作曲のための山荘(別荘)を建てます。夏はそこに避暑も兼ねて家族で過ごし、作曲にも専念する形となります。ここでは『交響曲第4番』から『第8番』までを作曲。

作曲は主にシーズンオフにしていました。作曲小屋を建て、夏の間はそこで作曲していました。
マーラーは季節作曲家だったのだね。オーケストラの仕事でシーズン中は多忙だったから、そうするしかなかったのだね。
マーラーこぼれ話その2

『交響曲第8番』は「千人の交響曲」と呼ばれていますが、初演時に客集めのための㏚で付けられた宣伝文句で、実際に千人で演奏するわけではありません。4管編制のフルオーケストラに、ソリスト、混成合唱、児童合唱なども含め約4百人ほどで演奏されます。実際に聴くとその迫力に圧倒されます。

『第9』との葛藤

ベートーヴェン以降、『交響曲第9番』を作曲した作曲家はそれ以後の交響曲を作れずに亡くなってしまう。このジンクスに恐れていた作曲家は多くいました。マーラーもその1人でした。

「死」への恐怖

心臓疾患のあったマーラーは、『交響曲第8番』を作曲した後、ウィーン宮廷歌劇場も首になり、また、愛する娘を亡くします。そんな折、友人から受け取った、ベートゲがドイツ語に意訳した漢詩集「中国の笛」を読んだ彼はその厭世的な内容に烈しく共感し感動しました。

「死」を意識していた彼は、この詩から6つを取り出し、交響曲を完成させました。「第9のジンクス」が頭から離れる事が無かったようです。

彼は、自分はドイツ交響曲の正統後継者であることを強く自認していた事もあり、9番目の交響曲に『第9』と名づける事を極度に恐れ、9番目の交響曲にはあえて番号をつけませんでした。交響曲『大地の歌』として世に出す道を選んだのです。

『交響曲第9番』の誕生

しかし、ついにマーラは『第9』を1910年に完成させますが、この交響曲は第1楽章から「死」を意識した内容でした。『大地の歌』の最後の歌詞は「Ewig、ewig」(永遠に永遠に・・・)となっていますが、第1楽章はそのメロディそっくりに始まるのです。

このマーラーの『第9』は全体に「死」を連想させるフレーズが連続しています。きっと彼には最後の交響曲になるのかもしれないとの予感があったとしか考えられないほどです。この曲は静かに静かに終わります。いつ聴いても感動で涙が出てくる音楽です。

『第9』を作曲してしまったマーラーは結局、『交響曲第10番』を完成させる事は出来ませんでした。全曲のスケッチは出来上がっていて、第1楽章だけは完成しましたが、そこまでで終わってしまいます。「第9のジンクス」には勝てなかったのです。

ベートーヴェンの『第9』ジンクスに随分怯えていたようです。
しかし、結局彼も『第9』ジンクスを乗り越える事は出来なかった。実に不思議な事だね。

精神疾患

マーラーは大変神経質な人物でした。日本人で言えば「夏目漱石」のような人物と言えば良く分かって貰えるでしょうか。

神経質

「夏目漱石」を引き合いに出しましたが、彼もすぐに神経が滅入るような神経質タイプでした。ですから、オーケストラの練習中も、皮肉を言ったり怒鳴ったりと、オーケストラの人達からは嫌われていました。

強迫観念

晩年になると様々な不幸を経験し、神経症がより酷くなります。不倫の噂から一晩中妻の行動から注意を離せなくなる強迫観念などに悩まされるようになりました。

そのために、かの有名な精神科医フロイトの診断を受けます。この時は治療が上手く行き、劇的な改善をみました。

精神科医に掛かるのがもう少し早かったら、マーラーの人生は変わっていたのかもしれません。

晩年

晩年の彼は、不幸続きでした。指揮者の頂点から転げ落ちて、全ての運も落ちてしまったようです。多少、前の章と重なる点は出てきますが、1902年(41歳)から晩年として、見ていきます。

結婚

晩年の章で「結婚」から入るのはどうかと思いましたが、死の9年前という事から、ここから晩年を見ていきましょう。

1902年3月、当時22歳のアルマと結婚。マーラー41歳の時で、18歳の年齢差があり、2人とも初婚でした。翌年10月、長女マリア・アンナが誕生します。1903年には、次女アンナ・ユスティーネも生まれました。

この年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与されました。

悲劇の連続

1907年7月12日、長女マリア・アンナがジフテリアで死亡します。4歳と9ヶ月でした。しかも、マーラー自身は心臓疾患と診断されます。

ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を、ウィーン皇帝勅令により解雇されてしまいます。

そこでマーラーはアメリカ、ニューヨークへ仕事を求めて渡ります。仕事は上手く行きますが、心臓疾患の彼にはこれまで以上に肉体的に負担のかかる生活だったようです。

妻アルマの不倫問題も浮上して、精神疾患が悪化し、精神科医フロイトの元を訪れた事は先に記述した通りです。

巨匠の死

1911年2月、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病気をおしてウィーンに戻ります。しかし、5月18日、51歳の誕生日の目前に敗血症で死去しました。彼の最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)」でした。外は暴風雨の夜だったそうです。

晩年は娘を亡くすなど、不幸が続いたようですね。
50年の人生の中で、彼は常に暗い影とともに生きてきたような気がするね。精神疾患がそうさせたのかもしれない。

後世の音楽家への影響

マーラーは作曲家としてもそうでしたが、指揮者として優れた人でしたので、指揮者への影響はより大きい物がありました。

やがて私の時代が来る

しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月の妻アルマ宛書簡で、リヒャルト・シュトラウスの事に触れた際に登場しています。以下がその一文です。作曲家としての自負心が感じられます。

「彼の時代は終わり、私の時代が来るのです。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!」

彼の言葉通り、現代はマーラーの交響曲をプログラムに入れると、オーケストラの集客数が上がるほどの人気を得ています。予言通り彼の時代が花開いているのです。

指揮者たちへの影響

マーラーは優秀な指揮者でしたので、指揮法についての様々な意見を発表しています。そのどれもが指揮者にとって有益な事であり、その後の指揮者たちへの参考になっています。

マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらにも大きな影響を与えています。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐しました。

クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき、その事について後年までマーラーに感謝していました。

そのほか、ウィレム・メンゲルベルクやオスカー・フリートといった当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けています。なかでもメンゲルベルクはマーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほど高く評価されていました。

メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏しました。

マーラーこぼれ話その3

マーラーの『交響曲第5番』のアダージェットが映画『ベニスに死す』で使われた事はご存じの方も多いと思いますが、マーラーはアニメでも活躍しています。『銀河英雄伝説』といアニメのオープニングを飾るのは『交響曲第3番』の冒頭のファンファーレです。マーラーの音楽も様々な所で使われています。

第8章:主な作品

交響曲と声楽曲のみを紹介しておきます。この2つはとても密接な関連性があるからです。彼はこれら以外を作曲していますが、何れも未完に終わったり、見るべき物は余りありません。

交響曲

曲 名
作曲年
その他
交響曲第1番 1884-88 副題『巨人』
交響曲第2番 1888-94 副題『復活』。ソプラノ、アルトと合唱
交響曲第3番 1893-96 コントラルト、合唱と少年合唱
交響曲第4番 1899-1900 ソプラノ
交響曲第5番 1901-02
交響曲第6番 1903-04 副題『悲劇的』
交響曲第7番 1904-05 副題『夜の歌』
交響曲第8番 1906 副題『千人の交響曲』
交響曲『大地の歌』 1908 テノール、コントラルト又はバリトン
交響曲第9番 1909
交響曲第10番 1910 未完(第1楽章のみ完成)

声楽曲

曲 名
作曲年
その他
カンタータ『嘆きの歌』 1878-80
歌曲集『若き日の歌』 1880-91 全3集14曲
歌曲集『さすらう若者の歌』 1883-85 全4曲
歌曲集『少年の魔法の角笛』 1892-98 全12曲
リュッケルトの詩による5つの歌 1901-03 全5曲
歌曲集『亡き子をしのぶ歌』 1901-04 全5曲
マーラーこぼれ話その4

マーラーの交響曲は長大な事で知られています。一番短い『交響曲第4番』でも約55分。一番長い『交響曲第3番』は何と約100分もの大曲です。マーラーの交響曲は演奏する方も大変ですが、聴く方にも努力を強いる音楽になっています。

まとめ

天才だった彼は指揮者に転進し、作曲家業は音楽のシーズンオフにしていました。家族達を養うために仕方がなかったとはいえ、彼がベートーヴェンのように作曲に専念できていれば、音楽史も書き換えられたかもしれません。

たらればを語りだすとキリがないのは分かっていますが、マーラーは果たして幸せだったのかどうか。気になるところです。

マーラーが弟子のワルターを作曲小屋に招待した時、絶景に見とれていたワルターに「君は驚くことない。全て私の音楽の中に書いてあるじゃないか」と言ったと言われていますが、本当なら、マーラーの自信の表れとも取れる言葉ですね。

「いつか私の時代が来る」・・・予言通り現在のコンサートにマーラーのプログラムが無い日はありません。1マーラーファンとして、喝采を送って締めたいと思います。

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