メンデルスゾーンといえば、『結婚行進曲』が最も有名です。結婚式に参加した事がある方は、聴かれていると思います。でも、『結婚行進曲』だけの作曲ではありません。
メンデルスゾーンはその短い人生の中で先を急ぐように様々な後世に残る仕事を成しえました。多作家でしたから、残された曲も多くあります。
幼い頃から何不自由なく過ごしてきたメンデルゾーンの生涯を纏めてみました。凝縮された人生で、この人がいたからこそ復活した作曲家も少なくありません。
メンデルスゾーンの幼少期
メンデルスゾーンは富豪の家に生まれ、何不自由なく生活をしていました。しかし、ユダヤ系ということで普通の学校にも通う事が出来ませんでした。
天才の誕生
ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy、略してフェリックス・メンデルスゾーン)は1809年2月3日、ドイツのハンブルクで生まれました。
父は銀行家であり、メンデルスゾーンは2番目の子供でした。所謂お金持ちの家に生まれた「純粋培養のお坊ちゃま」です。クラシック音楽家としては間違いなく最高のお金持ちでしょう。
メンデルスゾーンがまだ幼い頃に両親の仕事の都合からベルリンに移住します。この移住をきっかけに両親は4人の子供に知的教育及び高度な音楽教育を施します。
この時、まだユダヤ教徒だったメンデルゾーン家は(改宗したのは1816年)、差別から公立の学校へ通う事ができなかったのです。しかし、この事が彼にとっては良い結果を生み出します。
教育熱心だった父は、超一流の家庭教師を招いて、4人の子供たちに1日びっしりと組まれた様々な勉学をさせました。
ドイツ語にドイツ文学、ラテン語にギリシャ語、フランス語に英語、算数と数学、図画、舞踏、体操、水泳、乗馬、そして人間形成のためと考えられていた音楽も含まれていました。
幼少時から音楽の才能を発揮
メンデルスゾーン家では毎日のように私的サロンが開かれ、招かれる客も著名な芸術家たちが多く、メンデルゾーンは彼らと接し、感性を豊かにしていきました。
6歳からピアノを始めたメンデルスゾーンはめきめきと腕を上げていきます。姉のファニーも音楽的才能が豊かな人物でした。彼女は後に女性初の作曲家、ピアニストとなります。
その後、メンデルスゾーンと姉ファニーは作曲法を学びます。やがて2人は伝統的なドイツ作曲家として歩み始めていくのでした。何といっても当時の有名な指導者の下で教わっているのですから、才能のある2人にとっては当然の事だったのです。
姉ファニーもメンデルスゾーンと同様に才能を持ち、生涯に渡り、弟メンデルスゾーンの事を支えていく存在になります。
神童誕生
メンデルスゾーンは9歳にして初めて人前で演奏し、12歳頃からは作曲も始めていました。モーツァルト以来の神童ともいわれるようになります。
1821年、12歳の時には文豪ゲーテに会う機会があり、その後生涯に渡る親交が始まるのでした。ゲーテはメンデルゾーンを可愛がったそうです。
16歳の時には彼の代表曲である『弦楽八重奏曲』やシェイクスピアの『真夏の夜の夢』を元にして作曲した『序曲』を作り上げ、大きな名声を得ます。
メンデルスゾーンエピソードその1
- 13歳の頃からは、両親が日曜コンサートを企画し、自宅で開催しはじめました。内容はコンサートや演劇や朗読会などが行われ、毎回、各界の有名人たち(作家のハイネ、ヴァイオリンのパガニーニ、ダーヴィッド、哲学のヘーゲルなど)が招待され、大変贅沢なサロンとなりました。流石お金持ち!!
メンデルスゾーンの青年期
メンデルスゾーンは父のあとを継がずに音楽家になることを決意し、そして数々の業績を上げるのでした。
既に大音楽家
作曲家として既に多くの作品を生み出していたメンデルゾーンは、音楽史に名を残す大仕事をやり遂げます。
忘れ去られていたバッハの『マタイ受難曲』を、自らの指揮により復刻公演したのです。これによってメンデルスゾーンの名声は一気に高まりました。彼がまだ20歳の事です。
14歳の誕生日に祖母から贈られたバッハの『マタイ受難曲』の写譜から、彼はバッハに興味を抱くようになりました。そして、いつか演奏しようと考えていたわけです。演奏に際しては、大胆なカットなど、自身楽譜にも手を入れています。
この演奏会は大成功で、それまで忘れられていたバッハの再評価が始まるのでした。20歳でこんな大変な事を成し遂げたのですから、天才モーツァルトと比較されるのも当たり前の事です。
各地への旅行
当時のヨーロッパは、裕福な家庭の子供は思春期の頃になると「教養旅行」に出されるのが一般的でした。ですからメンデルスゾーンはこの年から、23歳まで「教養旅行」に出かけました。
この旅行の最中にメンデルスゾーンはゲーテの元に立ち寄り、ゲーテから『ファウスト』を贈られ、後に『最初のヴァルプルギスの夜』を作曲します。パリに立ち寄った際は、ショパンやリスト、作家のハイネなどと親交を深めました。
イギリスでの活躍
1829年(20歳)、メンデルスゾーンは初のイギリス訪問を果たします。かつて彼を指導したモシェレスは既にロンドンに居を構えており、やってきた弟子を影響力のある音楽家のサークルに紹介しました。
その後の訪問ではヴィクトリア女王に謁見する機会を得ており、女王は音楽に通じていた夫のアルバート公と共に彼の音楽を称賛しています。
生涯に計10回のイギリス旅行を行ったメンデルスゾーンのイギリスでの滞在期間は約20ヶ月にのぼり、その地で熱烈な支持者を獲得しました。これは彼にとってイギリスでの音楽生活への深い印象を刻むものでした。
彼がスコットランドで得た思いは、彼の作品の中でも特に有名な2つの曲として実を結びます。序曲『フィンガルの洞窟』と『交響曲第3番』「スコットランド」です。
メンデルスゾーンの晩年
晩年と言ってもまだまだ若いメンデルスゾーンでしたが、彼の元には悪魔が近づいていました。今まで成功の連続だった彼の身に突然悪魔が襲い掛かります。
ライプチヒでの活躍
1835年(26歳)、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任しました。メンデルスゾーンはライプツィヒへ移住します。
ここでのエピソードとして有名なのは、シューマンが発見したシューベルトの『交響曲第8番』を初演した事です。この成功によりシューベルトの作品の再評価が始まっていきます。
メンデルスゾーンはこのような過去の作曲家の復刻や、有望な若手作曲家の作品を積極的に取り上げました。この事は指揮者としても有能だった事を意味します。
また自作曲においてはオラトリオ『聖パウロ』や劇付随音楽『真夏の夜の夢』(有名な『結婚行進曲』はこの中の1曲)を演奏し、好評を得ました。
メンデルゾーンエピソードその2
- メンデルスゾーンは指揮者の原型を作ったといわれています。誰の作品であろうが専用の指揮者によって演奏されるようになりました。その魁がメンデルスゾーンというわけです。またこの頃から指揮棒を使って指揮をするようになりました。この指揮棒もメンデルスゾーンの時代から使われるようになりました。
音楽院開設
1843年(34歳)、メンデルスゾーンは重要な音楽学校「ライプツィヒ音楽院」を設立します。現在の「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ」の前身です。
彼はモシェレスとシューマンに対し、講師として加わるように説得を行っています。他の名高い音楽家たち、ヴァイオリニストのフェルディナンド・ダヴィッドやヨーゼフ・ヨアヒム、音楽理論家のモーリッツ・ハウプトマンらも教員として参加しました。
メンデルスゾーンの最期
最後の訪英となった1847年(38歳)には、フィルハーモニック管弦楽団の演奏でベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第4番』のソリストを務め、また自作の『交響曲第3番』「スコットランド」の指揮をヴィクトリア女王とアルバート公の御前で披露しています。
メンデルスゾーンは晩年、神経症の悪化と過労に悩まされました。また、この年の5月に、姉のファニーが亡くなった事も彼の精神に大きなダメージを与えたのです。
姉の死から半年も経たない11月4日、メンデルスゾーン自身もライプツィヒで亡くなってしまいます。38歳でした。死因はクモ膜下出血といわれています。
最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた。」でした。モーツァルトのように神童といわれた彼は、モーツァルトのように夭折してしまったのです。
まとめ
メンデルスゾーンは恵まれた作曲家でした。才能もあり、絵画や他の芸術にも理解がありました。そんな彼が何で38歳という若さで亡くならないといけないのでしょうか。神を恨みます。彼はこれからも活躍すべき人物でした。
クラシック界随一の大富豪であった彼は金銭的な面で悩んだ事はないでしょう。多くの作曲家達は貧困に苦しみました。しかし、彼はそれらの作曲家達に引けを取らない位の名曲を残しています。才能が有った証拠です。
メンデルスゾーンは好みの分かれる作曲家です。けれども、これからも彼の作品は多くの人達に幸福を与え続けるでしょう。