作曲家プロコフィエフの生涯【あえて社会主義国家に戻った波乱の人生】

プロコフィエフという作曲家でまず頭に浮かぶ楽曲はなんですか。バレエ音楽の『ロメオとジュリエット』が1番有名でしょうか。『ピーターと狼』というものもあります。小学校の音楽の時間に聞かされた人も多いのではないでしょうか。

プロコフィエフというと余り馴染みの無い作曲家と思いがちですが、『ロメオとジュリエット』の音楽は様々な会社のコマーシャルにも使われていて結構身近な存在です。『ピーターと狼』も数多く使われています。

しかし、幼少時から天才と謳われたプロコフィエフの生涯については知っている人は少数派でしょう。祖国が社会主義国に生まれ変わり、亡命時代があったり、体制側からの批判に耐えたりしていたプロコフィエフの生涯を纏めてみました。

プロコフィエフの代表作は『ロメオとジュリエット』でしょうか。
プロコフィエフは交響曲作曲家でもあるのだ。『古典交響曲』もなかなかの名曲だな。

プロコフィエフの生い立ち

プロコフィエフは幼少時代からその天才ぶりを発揮していました。母はその才能を伸ばそうと積極的に様々な協力をしています。

プロコフィエフ幼少期

セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(ラテン語Sergei Sergeevich Prokofiev)は1891年4月23日、現在のロシア、ウクライナ、ドネツィク州(当時はロシア帝国領)ソンツォフカに生まれました。

父は農業技術者、母は音楽の教育を受けた人物でした。プロコフィエフ家には、最初に2人の娘が生まれましたが、2人とも幼くして世を去り、3番目の子供がプロコフィエフだったのです。

4歳になって母からピアノを習い始めます。すると音楽の才能がすぐに開花し、作曲をするまでになりました。最初の作曲は5歳に行われ、『インドのギャロップ』という作品で、母が譜面化したといわれています。この作品は今でも楽譜が残されているそうです。

1900年(9歳)の時、父母と一緒に訪れたモスクワでオペラやバレエを観賞(グノー歌劇『ファウスト』、ボロディン歌劇『イーゴリ公』、チャイコフスキーバレエ『眠りの森の美女』)し、より音楽に没頭していきます。

そして、この年、最初のオペラ『巨人』を作曲しました。僅か9歳の事です。作曲法の勉強を本格的に始めたのは1902年(11歳)からであり、この『巨人』は全くの独学によるものでした。

1903年(12歳)、本格的なオペラ『ペスト流行期の酒宴』を作曲します。このように幼い頃から音楽の才能は素晴らしい物があったようです。

音楽院入学

1904年(13歳)、サンクトペルブルク音楽院に入学します。13歳での入学は当時話題になりました。プロコフィエフはこの音楽院で23歳までを過ごすようになります。

この間に作曲科、ピアノ科、指揮科、オルガン科で学ぶ事になります。プロコフィエフは音楽院では教師との関係はあまり良くなく、教師からの評価もそうは高くはありませんでした。

才能のある青年にありがちな態度で講師たちと接していたためといわれています。郷に入っては郷に従えという事のできない人だったようです。

そんなプロコフィエフ青年でしたが、1909年(18歳)には、記念すべき作品番号1番の『ピアノ・ソナタ第1番』を作曲します。

1912年(21歳)、『ピアノ協奏曲第1番』を作曲、自身のピアノ独奏で初演されました。

1913年(22歳)、『ピアノ協奏曲第2番』が完成(ロシア革命時に紛失、1923年改作)。この作品の初演も、自身がピアノを演奏しました。賛否両論を巻き起こした騒動が起きたともいわれます。

1913年に初めての外国旅行しています。パリとロンドンを訪れ、ロンドンでは初めてロシア・バレエ団を主宰するディアギレフにも会っていました。

プロコフィエフは幼少期からその音楽的才能を発揮していました。
それゆえ少し天狗になっているようなところもあったようだ。音楽院時代は教師たちに対して反抗的な面もあったのだ。

ロシア革命勃発

1917年(26歳)、ロシアが革命の嵐に包まれる中、プロコフィエフは祖国を離れる事を考え始めます。そしてアメリカへ亡命し一時期西側諸国で活動を続けました。

アメリカへ亡命

1918年(27歳)『古典交響曲』の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意します。仲間からは止めるように説得されましたが、彼の亡命の意志は固かったのでした。

プロコフィエフは日本経由で8月にサンフランシスコに上陸し、9月にはニューヨークへ到着しました。日本には3ヶ月ほど滞在し、東京、横浜、大阪、京都などを巡ったようです。

アメリカでの生活

プロコフィエフはアメリカだけで生活していたのではなく、ピアニストとして欧米各地を演奏旅行し、生計を立てていました。

演奏旅行の合間にも作曲の手を休める事は無く、オペラ『3つのオレンジへの恋』(1919年)、『ピアノ協奏曲第3番』(1921年)、ピアノ曲『年老いた祖母の物語全4曲』(1918年)を作曲しています。

ピアノ曲『4つの小品』(1918年)、弦楽四重奏とクラリネットとピアノのための『ヘブライの主題による序曲』(1919年)などもこの頃の作品です。

パリへ移住

1923年(32歳)にパリへ移り、『ピアノ・ソナタ第5番』(1923年、1953年第2版)、『交響曲第2番』(1925年)、オペラ『焔の天使』(1927年)、バレエ『鋼鉄の歩み』(1925年)、バレエ『ポリステーヌの岸辺で』(1930年)。

『交響曲第3番』(1928年)、『交響曲第4番』(1930年、第2版を1947年)、『ピアノ協奏曲第4番(左手のための)』(1931年)、『ピアノ協奏曲第5番』(1932年)をなどを作曲します。

プロコフィエフの作品は、欧米にいながらロシアに題材を求めているのが興味ある点です。外国にあって母国をより強く意識し、自己のアイデンティティーを確認したのでしょうか。

事実、1928年~31年の4年間は創作意欲の強いプロコフィエフでしたが、旧作の改編作業が増加しています。

決意して亡命しましたが、ニューヨークやパリでの生活は幸せではなかったようです。
西側社会でプロコフィエフは好評を持って受け入れて貰えなかったのだ。だから、幸せになれなかったのだよ。

プロコフィエフ祖国に帰国

亡命生活をしていたプロコフィエフでしたが、西側での生活より望郷の気持ちが勝ったのかは分かりませんが、社会主義体制の旧ソ連に戻ります。

帰国の理由

欧米での人気が出なかったのが最も大きい理由かと思います。当時は既に革命前に出国していたロシアの作曲家(例えばストラヴィンスキー)たちが、確固たる地位を築いていて、彼の入り込む余地がなかったのでした。

ロシア帝国からソ連となった5ヶ年計画の成功と、何よりもプロコフィエフが欧米では見い出し得なかった、史上初の社会主義国家で起こっている様々な現象を見て心打たれたといわれています。

彼には、社会主義国家の将来が明るいものと映ったのでしょう。この事も帰国の大きな要因のひとつといえます。

ついに1932年(41歳)、ソ連共産党の一党独裁によるソビエト社会主義共和国連邦に帰国します。当時の最高指導者は、ヨシフ・スターリンでした。

帰国後のプロコフィエフ

帰国後、プロコフィエフの創作熱は非常なまでに高まりました。共産党一党独裁のソビエト社会主義に上手く適応できたのです。

1935年、『ヴァイオリン協奏曲第2番』を作曲しました。ロシア民族的な旋律を使ったり、彼の得意とする抒情的な面も出したりと、音楽的には保守化したともいえます。

そして、彼の代表作である、バレエ『ロメオとジュリエット』(1936年)を作曲します。この作品は、世界に認められる普遍的な傑作となりました。

『ロメオとジュリエット』は、ロシア・バレエに革命を起こし、現在でも世界中のバレエ団で上演されており、バレエ界に大きな貢献をした作品となっています。

創作した作品群

特筆すべき作品としては、歌曲『6つの歌』(1935年)。ピアノ曲『子供の音楽(全12曲)』(1935年)、『ピーターと狼』(1936年)。

『ヴァイオリン・ソナタ』(1946年)、『アレクサンドル・ネフスキー』(1938年)、これをスターリン誕生60周年に献げたカンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』(1938~39年編作)として再構築しました。

混声合唱と管弦楽のための合唱曲『乾杯』(1939年作曲)やウクライナ労働者の闘争を描いたオペラ『セミョーン・コトコ』(1940年作曲)などが続き、愛国的な作品が作られていきました。

プロコフィエフの創作意欲は留まる事を知らないようでした。帰国後も次々と作品を生み出していったのです。

第2次世界大戦勃発

戦火を避けるためプロコフィエフは1941年8月から北カフカス、カザフスタンなどに転々と疎開していました。

そうした中でも、彼の創作意欲は高まっていきます。『ピアノ・ソナタ第7番』(1939~42年)、オペラ『戦争と平和』(1941~43年作曲、1946~52改作)を作曲します。

また、『交響曲第5番』(1944年)やバレエ『シンデレラ』(1940~44年)も戦争の間に完成させました。

プロコフィエフを代表する大作を次々に完成させた背景には、国民の間でナショナリズムが大きく高揚した事や当局が戦意高揚のために、国民への締め付けを緩和した事などが考えられます。

社会主義国家から亡命した作曲家が、後年、社会主義国家へ戻る事なんて考えられません。
社会体制云々よりも、彼は祖国への望郷の念が強かったのだと思う。社会主義国家の本当の怖さを知らなかったのだ。

プロコフィエフの晩年

祖国ソ連に戻ったプロコフィエフはやりたい事が全て順調に運び、誰もが順風満帆と思っていました。しかし、晩年に社会主義の厳しい批判にさらされます。

ジダーノフ批判

1945年1月13日(54歳)、『交響曲第5番』(1944年)の初演指揮をし、大絶賛を受けました。その1月末に階段から落ち、後頭部を打ち意識不明となります。その後3年ほど病床に付く事となりました。1946年療養のためニコリーナに移ります。

1947年(56歳)、『交響曲第6番』(1945~47年)を完成させました。

そして、1948年(57歳)、悪名高い「ジダーノフ批判」が吹き荒れます。これは、共産党中央委員会がイデオロギー闘争を強化するために学問や芸術の全分野に渡って繰り広げた一連の批判の事で、プロコフィエフも名指しで批判されました。

『交響曲第6番』を始め、彼の作品が「形式主義的」であると批判され、演奏禁止の処分にまで至ります。

プロコフィエフのソ連時代の最も微妙で苦しい時期となったのです。当局の顔色を窺いながらの創作活動を強いられました。

この時に支援の手を差し伸べたのは、チェリストのロストロポーヴィチといわれています。この時期、頻繁に彼の療養先を訪れ、精神的な支えになったようです。

病状悪化でも創作意欲旺盛

1949年(58歳)病状が悪化し、医師から1日1時間しか作曲を許されなくなります。そして、部分的な言語症まで起こし、作曲の時間は1日30分にまで減らされました。

そんな厳しい状態の中でも彼の創作意欲は衰えず、次々と新作を発表していきます。

入退院を繰り返しながらも、作曲は続けられ、1952年(61歳)には『交響曲第7番』を完成させます。その初演には彼自身も病気を押して立ち会いました。

プロコフィエフの最期

1953年(62歳)2月、作曲家同盟第6回総会で、『交響曲第7番』がソビエト交響曲の新しい達成だと認められ、「ジダーノフ批判」から名誉を回復しました。

同年3月5日、突然脳出血による呼吸困難に陥り死去します。62年の生涯は創作に明け暮れた一生でした。

まとめ

亡命からソ連に戻った作曲家を始めて知りました。プロコフィエフにとっては祖国での活動の方が上手い具合に進んだようです。批判はされましたが、また復活を果たしています。

西側社会に残っていたままでは、ここまで成功した作曲家となれなかったかもしれません。社会主義に翻弄されながらも、祖国での生活が彼にとっては幸せだったのだと思います。

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