作曲家ラヴェルの悲しすぎる生涯【天才の半生は病魔との闘い】

ラヴェルと言うとほとんどの方が『ボレロ』の作曲者と答えるでしょう。今でこそ世界的な名曲となりましたが、初演の時はボロクソに批判されました。今となってはラヴェル好きの人間がどれほど存在するか数え切れないほどです。

『展覧会の絵』の見事なオーケストレーション、2つの『ピアノ協奏曲』の素晴らしさ、『夜のガスパール』の耽美さ、どれをとってもラヴェルにしか書けないものです。

しかし、彼は成功者にしては余りにも悲しい人生を送りました。50歳以降のラヴェルは病魔に襲われ、作曲家として活動出来なくなっていきます。ラヴェルの生涯を辿ってみましょう。

ラヴェルはオーケストレーションの天才でした。
音符に色が付いているとまで賞賛されているんだ。天才的作曲家だったのだよ。

ラヴェルの生い立ち

ラヴェルの幼少期は幸せな家庭に過ごし、音楽的才能にも恵まれ、その将来を期待されて育っていきます。

ラヴェルの幼少期

ジョゼフ=モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel)は、1875年3月7日にフランス南西部、スペインにほど近いバスク地方のシブールで生まれました。

父ジョゼフはスイス出身の発明家兼実業家、一方、母マリーはバスク人でした。生まれがフランス領でしたので、通常フランス人と扱われています。家族がパリへ移住した後、弟エドゥアールが生まれます。

音楽好きの父の影響で、6歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学びます。両親はラヴェルが音楽の道へ進むことを激励し、パリ音楽院へ送り出しました。

ラヴェルのパリ音楽院時代

1889年(14歳)でパリ音楽院に進学。在籍した14年の間、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらの下で学びました。14年間というのは不思議な数字ですね。

それは卒業した後またパリ音楽院に戻ったためです。実際、フォーレに作曲を学んだのはまた戻ってきてからでした。

ラヴェルローマ大賞に挑戦

1900年(25歳)にラヴェルはローマ大賞(優勝すると留学費用と奨学金がもらえる)を目指しますが、5回挑戦して、5回とも落選してしまいます。その間に『亡き王女のためのパヴァーヌ』(1899年)や『水の戯れ』(1901年)などの名作を作曲しています。

5回目の挑戦の時は何と予選落ちでした。それはおかしいだろうと音楽家達が騒ぎ出し、「ラヴェル事件」が起こります。

ラヴェル事件

もう名作を世に送り出しているラヴェルが予選落ちするのはおかしいとフォーレをはじめ、ロマン・ロランらも抗議を表明します。パリ音楽界は混乱に陥りました。

この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、後任院長となったフォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となったのでした。

ラヴェルがローマ大賞に落選しただけで事件になってしまうほど彼の才能は評価されていたのですね。
弟子たちに賞を取らせたいと思う審査員たちの不正が明るみになったのだね。

ラヴェル絶頂期の時代

ローマ大賞は逃しましたが、彼の創作意欲は旺盛で数々の名曲を世に送り出します。この頃が彼の絶頂期だったのでしょう。

ラヴェルの傑作の数々

1905年(30歳)、作品の優先権をデュラン社と契約。『ソナチネ』、『序奏とアレグロ』、『鏡』作曲。

1907年(32歳)、ヴォーン=ウィリアムス(35歳)を教える。

1908年(33歳)、『スペイン狂詩曲』、『夜のガスパール』作曲。

1910年(35歳)、『マ・メール・ロワ』作曲。

1912年(37歳)、『ダフニスとクロエ』作曲。

1913年(38歳)、『ステファヌ・マラルメの3つの詩』作曲。

ラヴェルの運命を変えた母の死

1914年(39歳)の時に、第1次世界大戦が始まります。ラヴェルも祖国のため志願兵として出兵しました。しかしその元へ「母死す」の知らせが届けられます。ラヴェル悲劇の始まりでした。

ラヴェル軍隊に志願

ラヴェルは祖国のために志願兵となりたがっていましたが、元々身体が弱く、病気がちで体力もありませんでした。だから、最前線では戦えないという事で、採用されたのが物資輸送担当でした。

この任務は最前線に弾丸や大砲の弾を運ぶ物で、決して安全な任務ではありませんでした。当然、死とも隣り合わせの任務でした。

悲しい知らせ

兵役中の1917年(42歳)、最愛の母が世を去るという知らせを受けました。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰えます。悲しみの中『クープランの墓』を完成させます。

母の死を知ってからは3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、1920年の『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは年1曲程度と極端に落ちてしまいました。

母の死から3年経とうとした1919年末にラヴェルが友人に宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られています。

『展覧会の絵』編曲

そんな失意の中、ラヴェルにとって大きな仕事の依頼が舞い込みます。これはラヴェルのオーケストレーション能力の天才性を世に知らしめる仕事となるのです。

1922年(47歳)、ラヴェルが、指揮者クーセヴィツキーの依頼でムソルグスキーのピアノ曲『展覧会の絵』を管弦楽曲へと編曲しました。

この編曲版はクーセヴィツキーの率いるオーケストラによって、同年10月19日(初演)と10月26日にパリのオペラ座で演奏され、これをきっかけに一挙にムソルグスキーの『展覧会の絵』は世界的に有名になりました。

正にオーケストレーションの魔術師といわれたラヴェルの天才的な編曲です。色彩豊かなこんなオーケストレーションは他の人には出来ないでしょう。

ラヴェル、アメリカへ演奏旅行

母の死からなかなか立ち直れないでいるラヴェルでしたが、そんな彼の元へアメリカからの仕事がオファーがありました。気分転換にもなると思った彼はこれを引き受けます。

1928年(53歳)、ラヴェルは初めてアメリカに渡り、4ヶ月に及ぶ演奏旅行を行いました。ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、ラヴェルは黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けます。

この演奏旅行の成功により、ラヴェルは世界的に有名になりました。同年、オックスフォード大学の名誉博士号を授与されます。

アメリカで絶賛されてよかったですね。アメリカに行ったかいがありました。
この輝きがラヴェルにとって最後になってしまうのだ。これ以降の彼は病魔に侵されていくのだよ。

病魔との闘い始まる

ラヴェルは病気に掛かっていました。精神的な事も相当影響していたのでしょう。今の医学だったら直せたかもしれませんが、当時の医療では病気が悪化するばかりでした。

病気による影響

アメリカからの帰国後、ラヴェルが残した楽曲は、『ボレロ』(1928年)、『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年)、『ピアノ協奏曲』(1931年)、『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(1933年)の、わずか4曲だけです。

帰国後に病状が悪化し始め、苦労して作曲した作品がこれらの4曲だけだったのです。ラヴェルにとって書きたくても書けない状態が続き、何ほど悔しい事だったでしょう。

ラヴェルの深刻な病気

ラヴェルは40代後半から不眠症を訴えていましたが、1927年頃(52歳)から軽度の記憶障害や言語症に悩まされるようになっていました。1932年(57歳)、パリでタクシーに乗っている時、交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に悪化します。

手足を上手く動かす事が出来なくなってきて、言葉もスムーズに話す事が出来なくなります。作曲自体も口述でするようになっていき、それもなかなか上手くいかないので癇癪を起す事も多くなっていきました。

ラヴェルの晩年

病気は悪化する一方で、ラヴェル自身の心も次第に閉ざされていきます。作曲家に必要な「書く」という動作自体が出来なくなったのですから、その心中や察するに余りあるものがあります。

病状の悪化

60歳を過ぎるようになると、病魔はラヴェルから様々な能力を奪っていきました。ある日友人がラヴェルのために『亡き王女のためのパヴァーヌ』をピアノで弾いて聞かせました。

「美しい曲だ。いったい誰が作曲したのだろう」と周りの人間に聞いたそうです。記憶障害もかなり進んでいたようです。こんな逸話を書かねばならないなんて、悲しい事です。

ラヴェルの最期

ラヴェルの弟エドゥアールや友人たちは様々な医者に見てもらいますが、原因は良く分からずじまいでした。脳内出血の可能性もあるとのことで、1937年12月17日に脳外科医クロヴィス・ヴァンサンの執刀のもとで手術を受けました。

手術後、ラヴェルは一時的に意識を回復しましたが、その後、昏睡状態のまま、12月28日未明に亡くなります。62歳の生涯でした。

ラヴェルの病気は深刻過ぎました。作曲家がペンを取れなくなるとは辛かったでしょうね。
最後の手術が彼の寿命を縮めたともいえそうだ。余程の状態まで追い込まれていたのだろう。

まとめ

ラヴェルの後半生は恐ろしい病魔との闘いでした。オーケストレーションの天才といわれた彼には作曲する意欲も方法もなくなっていたのです。実に悲しい事です。病気さえなかったら、もっと多くの名作が生まれていた事でしょう。

それを思うと残念で仕方がありません。音符に色が付いているのではないかと疑いたくなるような彼の名曲たちは、今後も聴き継がれていく事でしょう。

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