作曲家レスピーギの生涯【色彩豊かな管弦楽の達人の人生】

レスピーギの名を知っている人は少数派かと思います。音楽的には「ローマ3部作」、『リュートのための古風な舞曲とアリア』が有名ですが、実際に聴かれた方は意外に少ないのではないでしょうか。

『リュートのための古風な舞曲とアリア』の中の1曲『シチリアーナ』はCMなどでも使われていますので、聴けばわかって貰えると思います。

やはり知名度は低く、オーケストラのコンサートで演奏される曲も限られています。そんなレスピーギをもっと知って貰いたいため、彼の生涯について纏めてみました。

レスピーギはイタリアの作曲家です。でも、ちょっとマイナーな作曲家ですね。
学校の音楽室に飾ってある作曲家の肖像画にはなかった気がするな。

レスピーギの生い立ち

レスピーギがいつの時代の人で、どういう幼少期を送ってきたかなど知らない方が多いと思います。まずはそこから話を進めましょう。

レスピーギの幼少期

オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi)は1879年7月9日にイタリアのボローニャに生まれました。

音楽教師の父から8歳で初めてのピアノとヴァイオリンの音楽教育を受けます。彼の幼少期は他の作曲家達とは違って、これといって目立つ人物ではなかったようです。

音楽教師だった父の手前、音楽の道に進むしかなかったといってもよいでしょう。才能がそこそこだったという事もあったのだと思います。

レスピーギの青年期

1891年(13歳)から1899年(20歳)までボローニャ高等音楽学校においてヴァイオリンとヴィオラを学びました。また、作曲、音楽史、古楽なども学んだようです。

1900年(21歳)から1901年までと、1902年(23歳)から1903年までの2シーズンにわたってロシア帝国劇場管弦楽団の首席ヴィオラ奏者としてペテルブルクに赴任し、イタリア・オペラの上演に携わりました。

食べていくために、わざわざロシアまで出稼ぎに行ったというのが、正解のようです。しかし、首席を務めていたのですから、ヴィオラの腕前は確かだったのでしょう。

ペテルブルクではニコライ・リムスキー=コルサコフと出逢って5ヶ月に及ぶ指導を受け、その精緻な管弦楽法に強い影響を受けました。

この事は、彼が作曲家になった時に、より色彩的なオーケストレーションを生みだす原点となったのです。

1903年(24歳)から1908年(29歳)まではムジェリーニ五重奏団の一員として活動するなど、演奏家として有名になりました。

レスピーギ教育界に転進

1913年(34歳)にローマへ移住し、同年1月からローマの聖チェチーリア音楽院作曲法科教授に就任します。以後最晩年までローマで暮らしました。

1923年(44歳)には院長も務め、ピゼッティやペトラッシらを育成するなど、教育者として活躍します。その傍ら、作曲家としての活動も行うようになりました。

作曲家レスピーギ

音楽院で教鞭を取りながら、作曲業にも手を出し始めます。ここでリムスキー=コルサコフに師事した事が実を結ぶのでした。

ローマ3部作の作曲

作曲は細々と続けていたレスピーギでしたが、音楽院教授になった後、多忙ながらも本格的に取り組み始めます。

彼の代表作ローマ3部作。1916年(37歳)に『ローマの噴水』、1924年(45歳)に『ローマの松』、1928年(49歳)に『ローマの祭り』が作曲されます。鮮やかで色彩的なオーケストレーションは、リムスキー=コルサコフに学んだ賜物でしょう。

1917年(38歳)に交響詩『ローマの噴水』をローマで初演しますが、これははっきりいって失敗でした。しかし、1918年(39歳)、トスカニーニによるミラノでの再演が大成功をおさめ、作曲家としてようやく認められるようになります。これは、トスカニーニの才能のよるものでしょうか。

1919年(40歳)に、自分の作曲の弟子で声楽家でもあったエルザ・オリヴィエリ=サンジャコモと結婚します。レスピーギは彼女のためにいくつかの歌曲を作曲して献呈しています。

『ローマの松』の初演は1924年(45歳)ローマで行われ、『ローマの祭り』の初演は1929年(50歳)にトスカニーニの指揮するニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって行われました。

別の顔を持つレスピーギ

オーケストレーションに加えて、もうひとつ作曲家レスピーギを特徴づけているのは、古楽への情熱です。

主にバロック期までの古いイタリア音楽を研究し、その成果を存分に自作に反映させています。この分野の代表作は『リュートのための古いアリアと舞曲』です。

16~17世紀のさまざまな作曲家によるリュート曲を選んで、20世紀のオーケストラのために編曲しました。3つの組曲が書かれていますが、もっとも広く知られるのは第3組曲の『シチリアーナ』です。

リュートとは、マンドリンのような形をした昔の楽器です。
現在では、忘れられた楽器になってしまった。作曲家が興味を無くした事が原因なんだろう。

レスピーギの晩年

晩年は国内外で自作の上演のため何度も演奏旅行に出ており、指揮者を務めたり、ピアニストとして声楽家であるエルザ夫人の伴奏を務めたりなどしました。

演奏旅行

1935年(55歳)、ようやくレスピーギは音楽院の院長を辞め、作曲家として自由な時間が取れるようになりました。

何の制約も受ける事が亡くなった彼は、国内外で演奏会を行なっています。作曲家としての名声が高まった事もあり、自作を指揮しての演奏旅行でした。時には、夫人が歌曲を歌い、その時にはピアノ伴奏を務めています。

レスピーギはなぜか祖国イタリアより、アメリカで人気を集めました。ボストン交響楽団は創立50周年記念のため、彼に作曲を委嘱しています。彼はそのために大規模な変奏曲『メタモルフォーゼ』を作曲しました。

音楽院の院長という要職を離れ、自由の身になったレスピーギにとって、この時期が最も幸福を味わうことができた時期だったのではないでしょうか。

レスピーギの最期

1936年1月(56歳)までは作曲を続けていたレスピーギでしたが、次第に病に蝕まれ、作曲どころではなくなります。同年4月18日に心臓病で亡くなります。56歳の生涯でした。

一旦はローマに埋葬されましたが、翌1937年に郷里のボローニャに移葬されました。彼は今でも生まれ故郷であるボローニャで永い眠りについています。

まとめ

レスピーギは作曲家というよりも、音楽学者のような人だったのでは?と思っています。教鞭を取りながら、古典音楽史の研究をして、作曲もする、そういったイメージがあります。

若い頃はヴィオラ奏者でロシアまで行って就職しました。結果的にその時にリムスキー=コルサコフに出合って作曲法を教わった事が、レスピーギの1番の宝物になったわけです。人生って何があるか分かりません。

レスピーギはオーケストラのコンサートで取り上げて貰う機会が少ないですが、ローマ三部作は音がコンサート会場全体に響いて物凄いですから、ぜひともライヴで聴いて欲しい作曲家です。

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