
ワーグナーという作曲家は意外と身近な作曲家の1人です。結婚式で演奏される彼の『結婚行進曲』は世界中で毎日演奏されている事でしょう。
そのほかでも映画の名シーンには欠かせない作曲家の1人です。昔の映画ですが『地獄の黙示録』での『ワルキューレの騎行』は戦闘の雰囲気を盛り上げるとても印象的なシーンでした。
また、ワーグナーは自分のための音楽祭、「バイロイト音楽祭」を始めた作曲家としても有名です。今ではこの音楽祭に招待される事が音楽家のキャリアアップになるほどの音楽祭になりました。今回はそんなワーグナーに焦点を当てて、彼の生涯を振り返って見ようと思います。


ワーグナー幼少期
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)は1813年5月22日、ザクセン王国ライプツィヒにて生まれました。
父カールは警察で書記を務めていましたが、ワーグナーの生後まもなく亡くなり、母ヨハンナは父カールと親交があった俳優ルートヴィヒ・ガイヤーと再婚しました。
ワーグナー家は音楽好きとして知られる一家であり、一家と親交のあった作曲家ウェーバーなどから強い影響を受けました。
1821年(8歳)、継父も亡くなります。1822年(9歳)、十字教会付属学校に編入学しました。1825年(12歳)、ようやくピアノの稽古を始めましたが、基礎技術のための練習を嫌うような子供だったようです。
15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志します。最初はベートーヴェンの交響曲をピアノに編曲して出版社に持ち込んだりしましたが、まだまだ音楽の実力が足りず断られていた事もありました。
18歳でライプツィヒ大学に入ったものの、うまく行かず中退。その後は聖トーマス教会の指導者であったテオドール・ヴァインリヒから作曲の手ほどきを受けながら実力を磨いていきます。
ワーグナー青年期
1832年(19歳)には最初の歌劇『婚礼』を作曲。その才能の片鱗を見せ、若干20歳にしてドイツ、ヴュルツブルクにて市立歌劇場の合唱指揮者に就任します。しかし、ワーグナーは飽きやすいうえに性格にも難があったため、この仕事は長続きせず、すぐに職を辞してしまいました。
ヴュルツブルクで仕事を辞めた後は劇場指揮者としてマクデブルク、ドレスデン、ラトビア、パリといった都市を転々とし、指揮活動を行いながらオペラ曲を作るという日々を送ります。
ただ、この時期のワーグナーはなかなか日の目を浴びることなく、結果的に大きな名声を得ることなく20代を終える事となりました。
またワーグナーは浪費癖がひどく、作曲家として成功を収めるどころか借金によって常に貧困に喘いでいたという記録が残っています。私生活の荒廃が彼の成功を妨げていた事は間違いないでしょう。
1834年(21歳)には女優のミンナ・プラーナーと恋に落ち、1836年(23歳)に結婚します。その後、債務で首が回らなくなり、1839年(26歳)に夜逃げ同然でパリへ移りました。
歌劇『リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を作曲しましたが、パリでは認められず貧しいままでした。
ワーグナーは常軌を逸する浪費家で、若い頃から贅沢を楽しみながら支援者から多額の借金をしては踏み倒したりしていました。また、自らの専用列車を仕立てたり、当時の高所得者の年収5年分に当たる額を1ヶ月で使い果たしたこともありました。大作曲家と言っても、人格的には?の人物でした。
充実した30代
1843年(30歳)、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の指揮者に就任。1843年『さまよえるオランダ人』、1845年(32歳)『タンホイザー』、1848年(35歳)『ローエングリン』といった作品の公演を行い、成功を収めました。
また、1846年(33歳)にはベートーヴェン『交響曲第9番』の復刻公演にも成功。過去の遺産を次の時代に紡ぎました。ベートーヴェンの『第9』はそれまで忘れ去られていたのです。
ワーグナーの30代は不遇な20代とは打って変わって華やかな時代となり、見事に今までの不遇を一挙に解消した時代でした。


亡命生活
しかし、1849年、36歳のとき、ドイツ3月革命に参加したため指名手配を受け、スイスのチューリヒで亡命生活を送ります。
ここでは『ニーベルングの指環』を書きはじめ、論文執筆や朗読会の開催、またショーペンハウアーなどの著作に親しむなど、新しい世界を切り拓いていきました。そして彼独自の、音楽と劇との融合を図る「楽劇」という理論を創りあげたのです。
1860年(47歳)にはザクセン以外のドイツ連邦への入国、1862年(49歳)にはザクセンへも入国が許可され、ようやく亡命生活は終わりを告げました。この時、妻と最後の再会をしています。
この亡命期間中にも彼は作曲していました。意外にも彼の代表作の多くがこの時期に作曲されています。
1857年『ヴェーゼンドンクの5つの歌曲』、1859年楽劇『トリスタンとイゾルデ』、1862年楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』などです。
亡命中の出来事
また、彼はこの間にユダヤ人を否定する論文を書いたり、人妻と不倫するなど倫理的に問われるような事をしていました。人格的には最低の人物だったようです。
芸術家には常識はずれの言動をする人が多いですが、ワーグナーの場合は、突飛というより単に我が強い感じの行動が目立ちすぎます。


ワーグナー晩年
様々な難を何とかクリアしながら世渡りしてきたワーグナーでしたが、最後に大きな仕事をして亡くなります。
ルートヴィヒ2世との出会い
バイエルンの青年王ルートヴィヒ2世はワーグナーに心酔していて、1864年(51歳)、宮廷へ招待しました。ルートヴィヒは、金銭面や芸術活動の援助をおこない、借金に苦しんでいたワーグナーにとってはまさに救いの手でした。
しかし、彼は政治に口出しすることで、政界に敵を作ってしまいます。外部の圧力に負けたルートヴィヒは、バイエルンを離れるよう彼に要求したのです。わずか1年半の生活でした。
彼はその後各地を転々とし、スイスのトリープシェンに腰を落ち着けます。ここで、リストの娘で指揮者ビューローの妻だったコジマを伴侶として迎え、およそ7年にわたり創作三昧の歳月を送りました。
バイロイト祝祭劇場の建設
1872年(59歳)バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、長年の夢だった彼自身の作品のための劇場、バイロイト祝祭劇場の建築を始めました。1876年(63歳)に完成した劇場で、『ニーベルングの指環』の全曲公演が行なわれます。
現在でもこの地ではバイロイト音楽祭が毎年行なわれ、ワーグナーの作品が上演されています。ワーグナーの夢が毎年実現されている訳です。
ワーグナーの最期
1882年にはワーグナー最後の作品となった作品『パルジファル』を完成させます。
1883年2月13日、ワーグナーは旅行中に心臓発作を起こし、ヴェネツィアで亡くなりました。69歳。愛を求め、放浪し、最後まで自分を貫いた生涯でした。
ドイツ・ナチスとの関係
ワーグナーを語る上でどうしても避けられない問題がナチスに利用されたことです。ヒトラー率いるナチスは国威発揚の意味もありワーグナーの音楽を上手く扱いました。
ワーグナーとヒトラー
ワーグナーが作り上げた新たなオペラはドイツ国内に留まらずヨーロッパ中に影響を及ぼし、次第にワーグナーの音楽に陶酔する人々「ワグネリアン」が増えていきます。
「ワグネリアン」はワーグナーの熱狂的ファンという位置づけですが、その傾倒ぶりは「信仰」に近いものがありました。
ノイシュヴァンシュタイン城を建設したルートヴィヒ2世やドイツを代表する哲学者であったフリードリヒ・ニーチェも「ワグネリアン」であったことは有名ですが、最も世の中に影響を与えてしまった「ワグネリアン」として知られるのはアドルフ・ヒトラーです。
ヒトラーはワーグナーが反ユダヤ主義を掲げていたことを理由に、ナチスの政治思想にワーグナーの音楽を利用します。本人自体もワーグナーの熱烈なファンであった事は確かですが、ナチスの党大会において毎回ワーグナーの音楽を使うなど、上手く政治に取り入れました。
結果的にワーグナーの音楽=ナチス/ヒトラーのイメージが強くなり、後の世でネガティブなイメージを受けてしまいます。
現在でもユダヤ民族ではタブー
ユダヤ民族の国イスラエルではワーグナーはその反ユダヤ主義的言質やナチス・ドイツの文化的象徴ゆえに、現在でも演奏は事実上タブー視されています。
日本においてもワーグナーのイメージはあまりよくなく、彼の音楽はどうしても好きになれないという方も多いようです。おそらくナチスのイメージや彼自身の人格からその感情が湧いてくるのでしょう。
今まで2回だけイスラエルでワーグナーの音楽が演奏された事があります。1度目は1981年に指揮者メータがイスラエル・フィル演奏会のアンコールで取り上げましたが、一部の団員は演奏を拒否し、観客の間に殴り合いが発生する事態となりました。2度目は2001年に指揮者バレンボイムがベルリン国立歌劇場管弦楽団と演奏した際も、抗議して会場を出て行く聴衆が見受けられました。


音楽界への影響
ロマン派音楽を終焉に導いたのはワーグナーです。彼の作品はこれまでの常識を打ち破る画期的な技法を多岐に渡って取り入れ、ヨーロッパ中の作曲家に新たなる方向性を示しました。
オペラの技法
最もワーグナーの影響を受けたのはオペラ界です。彼が現れるまでのオペラはヴェルディ、ロッシーニらが築きあげた「イタリアオペラ」こそが至高だと思われてきました。
しかし、その価値観をワーグナーは華麗に変えてしまったのです。
「楽劇」の完成
ワーグナーはとくに中期以降の作品において、「ライトモティーフ」と呼ばれる機能的メロディの手法や無限旋律と呼ばれる構成上の手法を巧みに使用し始めます。
それまでの序曲、アリア、重唱、合唱、間奏曲がそれぞれ断片として演奏されていた歌劇の様式を、途切れのない一つの音楽作品へ発展させました。
ワーグナーは作曲だけでなく、劇作・歌詞・大道具・歌劇場建築といった全てのセクションに携わりました。それまでのオペラは主に分業制が採用されていましたが、ワーグナーはそれを見直し、全てを一つの総合芸術に仕上げました。
これにより歌劇は「楽劇」へと進化を果たすことになり、その後のオペラに多大なる影響を与えました。ワーグナーは大悪人で「たち」の悪い人間でしたが、音楽的にはこれらの功績は素晴らしい物と称賛すべきでしょう。


ワーグナーは13という数字に拘った人でした。1813年に生まれ、バイロイト祝祭劇場の開場は8月13日、バイロイトで最後の日を過ごしたのは9月13日、『タンホイザー』完成が4月13日、パリでの『タンホイザー』打ち切りが3月13日、さらにRichard Wagnerという名前のアルファベットは13文字、1813という生年を一桁ずつ足したら13、亡命生活は13年間です。彼が亡くなったのも2月13日でした。
まとめ
ワーグナーはあっちこっちと放浪の旅人でした。借金を作っては逃げ出し、果ては亡命生活まで送っています。こんな状況下でも不思議と動じることなく、名曲を残して来ました。
最後にはバイエルン国王までも動かして自分の作品専用の歌劇場まで作らせてしまうところが並みの作曲家とは違っています。世渡りだけは物凄く長けていたようです。
ワーグナーは好き嫌いのはっきりした作曲家です。さて、あなたはどちらでしょうか?『マイスタージンガー』でも聴きながらゆっくりと考える事にしましょう。