
クラシック音楽が好きな人でも、リムスキー=コルサコフという名前を聞いて真っ先に頭に浮かぶのは『シェヘラザード』の作曲者という事でしょう。
彼の本職が軍人であった事やロシア5人組のひとりである事などまで知っている方は、相当のクラシック音楽通の方といえます。
『シェヘラザード』は千夜一夜物語をテーマに作られた音楽です。オーケストレーションの上手さは素晴らしい物があります。軍人だったリムスキー=コルサコフがどうして作曲家になったのかなど彼の生涯を纏めてみました。
リムスキー=コルサコフの生い立ち
まず、彼の青年期までの生い立ちをみていきましょう。恵まれた家庭に育ち、作曲家ではなく軍人となります。
幼少期
ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ(Nikolai Andreyevich Rimsky-Korsakov)は1844年3月18日、旧ロシア帝国のノヴゴロド近隣のティフヴィンという町で生まれました。
軍人貴族の官吏の家系で、幼少期から比較的裕福な生活をしていたと考えられています。
幼い頃から音楽の才能を示しましたが、その頃は特別音楽だけに傾倒することはなく、1856年(12歳)には兄や叔父に倣って海軍兵学校に入りました。
青年期
1859年(15歳)からピアノを習い、作曲も始めます。といっても海軍兵学校を辞めたわけではなく、休日や自由時間に行いました。
1861年(17歳)に作曲家バラキレフと出会い、作曲に打ち込むようになっていきます。バラキレフはリムスキー=コルサコフが航海演習のない時に作曲の指導をしました。
リムスキー=コルサコフはバラキレフの作曲指導を通して他のロシア五人組のメンバーとも知り合ったのです。
ロシア5人組とは
- バラキレフを中心として、反アカデミズム、反西欧、反伝統を掲げ、学校教育によらないロシア独自の新しい音楽を作ろうとしたグループの事。
ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、アレクサンドル・ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフの5人。
18歳から3年間長期航海演習に出かけた後、『交響曲第1番』を完成します。バラキレフが主催していたコンサートで発表し、作曲家としての道が開けました。
リムスキー=コルサコフは海軍に属したまま作曲を続けていきますが、27歳の時、サンクト・ペテルブルク音楽院の教授に抜擢されます。
この話は本人も驚きだった事でしょう。交響曲は作曲しましたが、音楽についてはバラキレフの個人指導があったのみでした。


リムスキー=コルサコフ音楽教師時代
リムスキー=コルサコフは海軍に在籍したまま、サンクト・ペテルブルク音楽院の教授に任命されます。音楽家としては誇れる事ですが、そのため作曲の時間を取るのが難しくなりました。
サンクト・ペテルブルク音楽院教授
1871年(27歳)、サンクトペテルブルク音楽院から作曲と管弦楽法の教授に任命されました。それまでは作曲はバラキレフに教わったものの、ほとんど独学で5人組とのグループ学習のみでした。
彼は音楽院教授の最初の数年間は、和声法や対位法について徹底的に集中して勉強しました。生徒に教えるために自分も努力を惜しまなかったのです。この事がその後の作曲家としての糧になったのでした。
1872年(28歳)にはナジェージダ・プルゴリトと結婚しました。彼女はピアニストで、作曲もできるほどの音楽的才能のある人物だったようです。
海軍軍楽隊指揮者就任
1873年(29歳)、軍籍を抜いて海軍軍楽隊指揮者に就任します。これはサンクト・ペテルブルク音楽院教授を続けながらの仕事で1884年まで続きます。
この事により、ますます作曲に当てる時間が取れなくなり、作曲家としては40歳までは不遇の時代となりました。
一方でこの時期には各地をめぐり、ロシアの民謡を集め、1877年に『100のロシア民謡集』を発表しています。
さらに、1881年にムソルグスキーが、1887年にボロディンが亡くなると、リムスキー=コルサコフはグラズノフらと協力して、彼らの遺作を補筆していきました。これは賛否両論があり、今の時代でも問題とされています。
彼らにしてみれば、良かれと思い未完の作品に手を加えたのでしょうが、亡くなったとはいえ、作曲家の作品に無断で手を加える事はあってはならない事です。


リムスキー=コルサコフ作曲家復帰
海軍軍楽隊指揮者を止めてからのリムスキー=コルサコフは今まで忙しさに紛れて出来なかった作曲に没頭します。勿論、音楽院の教授職にも力を尽くしました。
名作誕生
1884年(40歳)海軍軍楽隊指揮者を辞任してからは、今までたまり続けていた彼の創作意欲が高まり、作曲に没頭しました。
1887年(43歳)には『スペイン奇想曲』、翌年の1888年にはオリエンタルな雰囲気と色彩感にあふれる交響組曲『シェヘラザード』を完成させます。
また、芸術に理解があった旧ロシア帝国の豪商ミトロファン・ベリャーエフとの出会いによって、経済的な支援を受けられるようになり、多くの曲が国内外に発表されていきました。
オペラ作曲者に変身
彼は『シェへラザード』作曲後、オペラと歌曲集しか作らなくなりました。1888年から1889年にかけて、サンクトペテルブルクで初めて上演されたワーグナー『ニーベルングの指環』に感化されたためです。
かなりの数のオペラを作曲していますが、現在まで上演されている作品は全くありません。歌曲も集中して作曲され、数十曲作曲されましたが、これらも今では忘れ去られた作品です。
リムスキー=コルサコフ晩年
ヨーロッパでの社会の変化は旧ロシア帝国にも及んで来ました。リムスキー=コルサコフもその波に呑まれ、苦い経験をする結果となります。
社会情勢の変化
リムスキー=コルサコフは貴族の出身でしたが、旧ロシア帝国の近代化の立ち遅れに批判的でした。また、学生の革命運動にも共感していたのです。
ロシア革命(1905~1917)の最中、血の日曜日事件(1905年1月22日)に際して音楽院の学生と学校当局の間に対立が起こり、リムスキー=コルサコフは学生たちを支持し、学校当局を非難する公開状を発表したため教授を解任されました。
他の教授も相次いで辞職騒ぎが起き、リムスキー=コルサコフの弟子グラズノフが院長になります。教授会が音学院を管轄するようになり、音学院は再開されました。結果的にリムスキー=コルサコフは復職します。
しかし、彼と政府当局との軋轢はなおも続き、遺作となるオペラ『金鶏』(1906-07年作曲)は反体制的で、反帝政の内容であるという理由で、作曲者死後の翌年まで初演がされませんでした。
リムスキー=コルサコフの最期
リムスキー=コルサコフは狭心症を患っていました。1908年にリューベンスクという町で亡くなります。64年の生涯でした。
64歳という年齢は鬼籍に入るにはまだ早い年齢です。しかし、海軍の軍人から音楽院の教授になり、作曲家としても知られるようになったのですから、幸せな人生だったといえるでしょう。


まとめ
海軍出身の方が、作曲家になった人物って他にいるかどうか分かりません。ですが、ここまでの大家になった方は彼が始めてでしょう。彼の管弦楽の素晴らしさは『シェへラザード』を聴く事によって分かって貰えると思います。
これだけ長い間、音楽院の教授をやっていたのは教え方が優秀だったためとに違いありません。素晴らしい後継者達を生みだしました。
リムスキー=コルサコフは『シェヘラザード』しかヒットしませんでしたが、その1曲で我々は満足です。