サン=サーンスという作曲家はフランスでは確固たる地位を占める作曲家です。今でこそ大家として認められていますが、彼の生存中はなかなか聴衆には受け入れて貰えませんでした。

彼は多作家で広いジャンルの作品を数多く残している他、オルガニストやピアニスト、批評家としても活躍し、文学を始め哲学や天文学などの才能もある博識家で、教養人でもあったのです。

しかし、幼少から神童と称えられたサン=サーンスはモーツァルトのようにはなれませんでした。どうしてかも含めて、サン=サーンスの生涯を纏めてみたいと思います。

サン=サーンスは神童として育ちました。幼い頃から音楽的才能に恵まれていたのです。
確かにその通りなのだが、子供時代に神童と祭り上げられた結果、大成しなかった作曲家でもあるのだ。

サン=サーンス生い立ち

サン=サーンスは幼少期から神童と呼ばれるほどの音楽的才能の持ち主でした。環境にも恵まれ、音楽家になるべくしてなった人物です。

サン=サーンス幼少期

シャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns)は1835年10月9日、フランスのパリで生まれました。

父は内務省の官僚でしたがサン=サーンスの生後わずか3ヶ月で死去します。また、サン=サーンスは結核のため2年間の療養生活を送った後、母方の家庭で育てられる事となりました。

3歳の頃からピアノを習い、10歳にしてピアニストとしてデビューします。演目はベートーヴェンとモーツァルトを演奏したようですが、当時としては珍しく、全て暗譜で演奏したそうです。

かなり早熟な子供でした。この事は彼のキャリアにすれば素晴らしい事なのですが、人格形成の過程ではとても大きなマイナスになったのです。

自分は普通の人とは違っているという思いが大人になってからも続き、トラブルの原因になったりもしています。

要は天狗になってしまっていたのです。常に人を下に見るような言動が彼の日常になってしまうのでした。

パリ音楽院時代

13歳になる頃にはパリ音楽院に進学します。あのパリ音楽院に13歳での入学ですから、どれほどの才能の持ち主だったかが分ります。音楽院ではオルガン、作曲法、管弦楽法などを学びました。

16歳にして交響曲を書き上げ、オルガニストとしてはパリでもトップクラスの実力者と呼ばれるようになります。

サン=サーンス音楽家としての出発

パリ音楽院を卒業したサン=サーンスはマドレーヌ教会のオルガニストを約20年間勤めながら、多岐にわたるジャンルの作曲に果敢に挑戦し、数々の名作を残します。また、フォーレらと共に国民音楽協会を設立し、フランス音楽の振興に努めました。

オルガニストとしての船出

音楽院を出たサン=サーンスは、1853年(18歳)、パリのサン・メリ教会のオルガニストに就任しました。彼の音楽人生はオルガニストとして始まったのです。

この後、1857年(22歳)にはパリのマドレーヌ寺院のオルガニストに就任し、サン=サーンスはこの職を1877年まで20年に渡って務めあげる事になります。

リストは教会で彼の演奏を聴き、その見事さに世界一偉大なオルガニストと賞賛しています。

教会に勤めたサン=サーンスでしたが、彼は敬虔なキリスト教徒ではなく、あくまでも仕事の一環としてオルガニストになったといわれています。オルガンを弾くだけではなく、宗教音楽の作曲も彼の仕事でした。

音楽教師を兼務

1861年から1865年にかけて、サン=サーンスはパリのエコール・ニデルメイエールで教職に就くことになります。

生徒の中には、ガブリエル・フォーレやアンドレ・メサジェ、ウジェーヌ・ジグーの姿もありました。特にフォーレとは親しくなり、生涯に渡り、交友関係を持つようになります。

この頃のサン=サーンスはオペラに関心があり、特にワーグナーに夢中になっていました。しかし、普仏戦争を境に反ワーグナーとなります。

国民音楽協会を設立

1870年(35歳)に普仏戦争が始まります。フランスはプロイセンに敗れ、国内は混乱しました。この敗戦で反独ナショナリズムは高まり、サン=サーンスもその中のひとりとなります。

このため、ワーグナーに心酔していた彼は反ワーグナーの立場をとるようになりました。

1871年(36歳)、サン=サーンスはフランク、フォーレ、マスネ、ラロらとともに国民音楽協会を設立し、フランス人音楽家の作曲・演奏活動を振興しました。

サン=サーンスの結婚

1875年(40歳)、サン=サーンスは当時19歳だったマリ=ロール・トリュフォと結婚します。しかし、2人の子が相次いで亡くなるなど、幸せなものとはなりませんでした。

最後は、結局離婚に至っています。わずか5年間の結婚生活でした。子供の死だけではなく彼の性格による要因も大きかったようです。

サン=サーンス作曲業に専念

マドレーヌ教会のオルガニストを辞めたサン=サーンスは、何の制約もなくなり、思う存分作曲に専念するようになります。

オペラに注力

1877年(42歳)、20年間務めたマドレーヌ教会のオルガニストを辞めました。同年、以前作曲していたオペラ『サムソンとデリラ』が上演され、好評を得ます。

これに気を良くしたサン=サーンスはオペラ作曲に力を入れるのでした。『エティエンヌ・マルセル』『ヘンリー8世』『プロセルピーヌ』など次々と発表していきます。

なかでも『ヘンリー8世』は大成功し、それまで人気のない作曲家だった彼にようやく日が当たるようになりました。

各地への演奏旅行

サン=サーンスは南欧や北欧、さらには南米、東アジア、ロシア、オーストラリアなど数多くの演奏旅行を行ないました。

特にイギリスには、1871年を皮切りに何度も演奏旅行に出かけています。1886年(51歳)、ロンドン・フィルハーモニック協会の依頼で作曲した『交響曲第3番』は作曲者自身の指揮によりロンドンで初演されました。

サン=サーンスの晩年

サン=サーンスは20世紀に入ってからも、演奏旅行を続けていました。エジプトやアルジェリアがお気に入りだったようです。

勲章受勲

1913年(78歳)、サン=サーンスはフランスの最高勲章であるレジオン・ドヌールの最高位である「グラン・クロワ」を受勲します。この知らせも旅先で受けたのでした。

祖国フランスでは今ひとつ人気がなかった作曲家でしたが、ここでようやく認められたのです。しかし、反サン=サーンス派が減ったわけではありませんでした。

サン=サーンスの最期

1916年(81歳)、南米における4ヶ月の滞在中、サン=サーンスは左手に違和感を感じるようになり、これを機に音楽界を引退します。

1921年12月16日、サン=サーンスは旅先のアルジェで孤独な死を迎えました。86歳の生涯に幕を閉じたのです。

サン=サーンス エピソード

  • その博識ゆえの嫌味な性格は人々の良く知るところで、アルフレッド・コルトーに向かって「へぇ、君程度でピアニストになれるの」といった話は有名です。しばしば辛辣な言葉を浴びせたり、空気を読まない行動を繰り返していたようです。人間的には問題の多い人でした。

サン=サーンスがフランスで人気がなかったわけ

一言でいえばサン=サーンスの音楽は「古臭かった」からです。20世紀を迎えようとしている時代に「古典派」の音楽を作曲していたのですから、無理もありません。

同じフランスの作曲家にはドビュッシーやラヴェルなどがいますが、彼らの音楽は常に新しい自分らしい音楽を求め続けました。ですから、時代にマッチした印象派というジャンルを確立できたのです。

しかし、サン=サーンスは「古典派」の殻から抜け出せませんでした。当時の聴衆からすれば、何を今更、モーツァルトやベートーヴェンと同じ音楽を作曲しているのかという疑問が拭えなかったのです。

サン=サーンスを聴くのだったら、ベートーヴェンを聴いた方がより感動が得られると多くの聴衆は感じていました。サン=サーンスにはその事が理解できなかったのかもしれません。

天才の自分の音楽がなぜ人気がないのかなど考えもしなかったのです。世間の評価は天才的オルガニストだけれども、作曲家としては2流だと思われていました。

サン=サーンスは「出来ない人間の気持ちが分からない」性格的には難のある人物でした。
自分は人とは違うという意識が強かったのだね。その結果、神童の神通力もなくなってしまった事に気が付かない人だった。

まとめ

サン=サーンスは神童でしたが、成長してからはモーツァルトのようにはなれませんでした。単に早熟だっただけです。しかし、『動物の謝肉祭』は子供から大人まで楽しめる音楽になりました。

『交響曲第3番』「オルガンつき」も名作です。パイプオルガンだけになった瞬間の感動はライヴで聴くと鳥肌が立ちます。皆さんもぜひコンサートホールでお聴きになることをお勧めします。

関連記事