シェーンベルクという作曲者はクラシック音楽に興味がある人以外は名前さえ知らない人物でしょう。無調音楽を極めて、12音技法を始めた最初の人なのです。
12音技法を使った現代音楽はどういった理論なのかを良く分からずに聴いてきましたが、この作曲家が天才的だった事は認めなければならないでしょう。
19世紀と20世紀をまたいで、調性のある音楽から更に一歩進んで、20世紀音楽の先駆けとなった12音技法の音楽を生み出しました。12音技法の創始者のシェーンベルクの生涯を紹介します。
シェーンベルクの生い立ち
シェーンベルクの幼少期から作曲家となるまでの生活を見ていきたいと思います。父を早くに亡くし、生計を立てるために働きながら、音楽の勉強をしました。
シェーンベルクの少年期
アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg)は1874年9月13日にウィーンで誕生しました。両親は靴屋を営むユダヤ人でシェーンベルクは3人兄弟の長男として過ごします。
一家はユダヤ人でしたが、生きるためにカトリック教徒として生活していました。シェーンベルクは後に、ナチスの台頭に反発し、ユダヤ教に改宗しています。
両親には音楽の素養はありませんでしたが、シェーンベルクは8歳でヴァイオリンを学び始めるとほぼ同時に作曲も始めました。
しかし、一家は貧しく、16歳で父を亡くすと長男の彼は家族のために学校を中退して働き始めます。5年間、彼はウィーンの個人銀行に勤め、夜は学校に通い音楽の勉強をしていました。
音楽家としての出発
1895年(21歳)に銀行を辞めたのち、シェーンベルクは合唱指揮者として音楽家の道を歩み始めます。この道で何とか生活費を稼ぎ、作曲にも打ち込みます。
1899年(25歳)に作曲された、リヒャルト・デーメルの同名の詩を用いた弦楽六重奏曲『浄夜』は、シェーンベルクの重要な初期作品のひとつに数えられています。この作曲家の才能が伝わってくる名曲です。
1901年(27歳)には管弦楽伴奏付き歌曲『グレの歌』の作曲が開始されます。この楽曲はカンタータ、オペラなどが融合したような大作となり、オーケストレーションが完成したのは1911年の事でした。
音楽家としてキャリアアップ
1901年末にベルリンに引っ越したシェーンベルクは、リヒャルト・シュトラウスと親しくなります。R・シュトラウスが彼の交響詩『ペレアスとメリザンド』を評価したことがきっかけとなり、シェーンベルクは大学での音楽講師の職や、助成金を得ました。
この事により、彼は生活が安定し、充実した作曲活動が出来るようになります。まさに天の恵みのようでした。
無調音楽の時代
これまでのシェーンベルクは音楽史で言えば後期ロマン派的な音楽を書いて来ましたが、彼の頭に中には今までとは違うもの、新たな音楽が芽生え始めていました。
無調音楽の始まり
1908年(34歳)頃の作品から、シェーンベルクの作品は調性がない、つまり無調音楽に辿り着いたといわれています。
無調音楽の実験的作品を数曲発表したのち、歌曲集『月に憑かれたピエロ』が生まれました。
無調音楽の傑作誕生
『月に憑かれたピエロ』は無調音楽の傑作といわれています。ラヴェルやストラヴィンスキーにも影響を与え、2人は無調の音楽を作曲するのです。
しかし、まだ時代はそれを受け入れる環境ではありませんでした。無調の音楽を受け入れたのはほんの一握りの人たちにすぎません。時代の先を走り過ぎていたのです。
12音技法の始まり
無調音楽まで辿り着いたシェーンベルクは更に発展させ、12音技法という手法が到達点となります。無調音楽でも理解できない我々素人にとっては、ますます訳の分からない世界に踏み込んでいくのです。
12音技法についてはここでは説明を省きます。シェーンベルクの考えた方法はとても厳密なものになっており、言葉では言い表せないからです。興味がある方はご自身でお調べください。
この手法でシェーンベルクが最初に書いたのが、『ピアノ組曲』(1921年~1923年)の「プレリュード」(1921年7月完成)です。
シェーンベルク亡命と晩年
戦争の足音が近づいてきた1933年にシェーンベルクはナチスから逃れるようにアメリカへと亡命します。
ファシズムの足音
1925年(51歳)、ブゾーニの後継者としてベルリン、プロイセン芸術アカデミー作曲科マイスタークラス教授になります。第1次大戦後ウィーンに戻っていた彼は1926年からベルリンに移住しました。
ドイツにおけるファシズムの勢いは急激に盛り上がり、1933年(59歳)にヒトラーが政権を手に入れます。ユダヤ系であるシェーンベルクは、当然の事ながら教授職を剥奪されました。
アメリカ亡命へ
1933年アメリカへ亡命、それはボストンにあるモールキン音楽学校に招かれたためでした。この直前にキリスト教徒からユダヤ教に改宗します。
1935年(61歳)に南カルフォルニア大学、1936年以降カリフォルニア大学ロサンジェルス校教授となり、作曲を続けることになります。1941年(66歳)にはアメリカの市民権を得て、落ち着いた生活が始まりました。
アメリカでの生活
創作活動も大きな実りを見せていきます。この時期での作品は、12音技法を中心にした作品と調性的作品も両方あります。
『ヴァイオリン協奏曲』(1934-36年)、『弦楽四重奏曲第4番』(1936年)、『ピアノ協奏曲』(1942年)、『弦楽3重奏曲』(1946年)などの他にも語り手、男声合唱と管弦楽のための『ワルシャワの生き残り』(1947年)は12音技法に属する作品です。
その他に彼の教育活動の功績は、ジョン・ケージ、ルー・ハリソンなどのアメリカ現代音楽を代表する作曲家となった弟子を育てたことです。
そして教育活動の成果としての著作も多く、『和声の構造的機能』(1954年)は、亡命前に書いた『和声学』(1911年)と共に代表的な彼の音楽理論書です。
シェーンベルクの最期
1946年(71歳)8月には心臓発作を起こしましたが、この時にはどうにか一命を取り留めました。1948年(73歳)には一時健康を回復しサンタバーバラで授業を行うほどになります。
しかし、1951年7月13日、76歳のシェーンベルクは喘息発作のために、ロサンゼルスにて死去しました。彼は故郷ウィーン中央墓地で永遠の眠りについています。
シェーンベルク エピソード
- 彼は13という数字を病的に嫌っていました。それは自分が13日生まれで、不幸の星の元に生まれたと信じてしまったからです。そして、自分は76歳で死ぬとも信じていました。7と6を足すと13になるからです。実際、彼が亡くなったのは76歳で、しかも7月13日でした。
まとめ
12音技法を用いた『ヴァイオリン協奏曲』『ワルシャワの生き残り』を聴きながらこの記事を書きましたが、前衛的作曲家と違って、これはついていけないという曲ではありません。
むしろ『ヴァイオリン協奏曲』についてはなんで今までこんな素敵な曲を聴かないで来たのだろうと後悔しているぐらいです。
12音技法という言葉に騙されずにもっと聴いて欲しい作曲家です。今まで聴いてこなかった方もこの機会にぜひ聴いてみましょう。音楽の面白さがわかって奥行きが深くなっていきますよ。