シューマン悲劇の生涯【精神障害に苦しんだ後半生】

シューマンという名を聞いてその顔まで思い出す事が出来る人は、クラシック音楽に造詣の深い方です。モーツァルトやベートーヴェンと違って余り華がない作曲家とも言えます。

『トロイメライ』の作曲者といえば多くの方は分かってくれるでしょうか。シューマン自身、交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノ曲、歌曲などの多くの作品を残しています。名曲と呼ばれるものも少なくありません。

しかし、シューマンが今ひとつメジャーに成りきれないのは、交響曲の評価によるものが大きいと思います。彼の響きは華やかさに欠け、くすんだイメージがあるのです。彼は、後半生、精神障害に苦しめられました。シューマンの生涯を紹介していきます。

シューマンの生い立ち

シューマン家はとても裕福で何一つ不自由なく健やかに育ちます。ピアノを習い、音楽会で音楽を聴き、次第に音楽への興味を示すようになっていきました。

シューマンの幼少期

ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann)は1810年6月8日、ドイツのツヴィッカウという街で出版業を営む父と外科医の娘である母の間に生まれます。5人兄弟の末っ子で、兄3人、姉1人がいました。

父と訪れたドレスデンでウェーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聴き、作曲家という職業に興味を抱きます。シューマン7歳の時でした。

この経験以来、シューマンはピアノのリサイタルやオペラなどの音楽を聴く機会を多く持ち、音楽への興味はますます高まっていくのでした。

1820年、シューマンはギムナジウム(中高一貫校)に入学します。この頃は先生に付いて、ピアノの演奏や作曲について学んでいました。ピアノは相当の腕前になっていたようです。

シューマン家の悲劇

ところが1826年(16歳)、2つの悲劇が一辺に押し寄せます。姉のエミリーが心の病で自殺をしてしまい、父もその年の内に亡くなります。シューマンは鬱状態に陥ってしまいました。

何不自由なく暮らしていた「お坊ちゃま」でしたから、そういった時に冷静な対応が出来なかったのも無理はありません。特に姉の自殺は生涯の心の傷になったようでした。

シューマン少年にとってこの二つの出来事は、将来にわたる深いダメージを心に与えたのです。
姉の自殺は、多感な年頃のシューマンにとって、深く胸に刻まれた事だろう。

シューマンの青年期

父や姉の死によって精神的に追い詰められたシューマンでしたが、母の願いもあり一時は音楽の道を諦め、大学では法律を学びます。しかし、音楽への情熱は強く、母を説得して音楽家への道を歩み始めるのです。

法律大学への進学

父亡き後、安定した生活を願う母の希望で法学を選択し、1828年(18歳)、ライプツィヒ大学法学科へ進学します。

しかし、どうしても音楽の道に進みたかったシューマンは、法律への興味を持つ事はできず、大学の講義など受けず、作曲をする日々を送っていました。

結局は音楽の道へ

1830年(20歳)、音楽家への憧れを捨て切れなかったシューマンは、ライプツィヒの有名なピアノ教師フリードリヒ・ヴィークに弟子入りしてしまいます。結局は先生のヴィークも一役買って、母親を説得し、音楽の道に進む事が許されたのでした。

ピアノの師ヴィークとは翌年に指導方法で揉め、両者は喧嘩別れとなり、シューマンは別の先生に付いてピアノを勉強するようになります。ヴィークについて2年目の事でした。

1831年(21歳)、正式に作曲をハインリッヒ・ドルンのもとで学び始めました。過度なピアノ練習のため彼は手を痛め、ピアニストとして生きる道をあきらめ、音楽評論家、作曲家として生きる決意をします。

シューマンエピソードその1

  • シューマンの指の怪我は練習のしすぎ、もしくは薬指の訓練をするために中指と薬指を縛って固定させて練習した結果といわれて来ましたが、実は梅毒の治療のため水銀を使い、その中毒のため指が動かなくなったという説が有力です。

音楽評論家シューマン

ピアニストを諦めたシューマンは音楽評論の道へ進みます。音楽的才能のあった彼は、評論家としての素養にも恵まれ、また、文才にも恵まれて、音楽評論家としてドイツ国内に名を馳せるようになっていくのでした。

シューマンの評論家としての名を上げた記事として有名なものは、1832年に「一般音楽新聞」でショパンの論評を発表した事です。「諸君、脱帽したまえ、天才だ」と彼を絶賛したのでした。

音楽批評の低水準を嘆いていたシューマンは、1834年(24歳)からは自分で「新音楽時報」を設立。音楽評論によって、安定的な収入を得るようになりました。

特に1844年までの精力的な批評活動は、ロマン派音楽の啓蒙に大きな役割を果たしました。

指が駄目になっても、流石は天才!音楽を正しく聴く良い耳を持っていたということです。耳が肥えていなければ音楽評論は成り立ちません。

この当時のシューマンは、音楽評論の仕事が生活を支える大きな柱となり、その間に作曲も試みていたといった具合でした。

シューマンの立ち上げた「新音楽時報」はドイツ一の音楽新聞に発展します。音楽評論家シューマンの名はドイツ中に知れ渡りました。
シューマンの名はまず音楽評論家として広がったのだ。作曲家としてはピアノ作品しか書いていない時期だったからね。

シューマンの恋愛事情

シューマンは初恋は破れますが、クララという娘と恋仲となり、結婚までしてしまいます。そこまで辿り着く事がなかなか大変でした。

最初の恋

1834年(24歳)にエルネスティーネ・フォン・フリッケンという貴族の娘がヴィーク家に習いに来たところ彼女に一目惚れしてしまいます。

彼はさっそく『謝肉祭』やら『交響的練習曲』などのピアノを彼女のために作曲。恋が彼の創作意欲のモチベーションに繋がっている事が窺えます。

婚約にまで漕ぎ着けて幸せに浸っていましたが、彼女の親が2人の恋路を遮断して娘を連れ去ってしまいました。

クララとの大恋愛

エルネスティーネとは上手く行かなかったシューマンでしたが、今度は師の娘クララと恋仲になります。ただし、クララとの恋には大きな障害がありました。それはクララの父であり、以前に揉めてしまった師ヴィークの存在です。

ヴィークはクララとシューマンが交際していることを知ると大激怒。これが長きに渡る抗争の始まりとなってしまいます。

当たり前ですが、ヴィークがシューマンに持つ感情は良いものではありません。当然ヴィークは2人の恋愛を妨害し、クララをシューマンから遠ざけます。

しかし、クララとシューマンの恋愛はヴィークが思っていた以上のもので、もう2人を止める事はできなかったのです。ここから泥沼の恋愛抗争が始まりました。

この抗争は非常に長期に渡り、最終的に法廷抗争にまで発展しながらも1840年(30歳)にクララとの結婚を果たします。多くの人を巻き込んだ争いは約5年も繰り広げられましたが、遂に2人は結婚する事に成功したのでした。

こんな中でも傑作を作曲

この時期にシューマンが作曲した曲はクララのために書かれた曲であり、『幻想小曲集』『ピアノソナタ第3番』『子供の情景』『クライスレリアーナ』『幻想曲』といったものが挙げられます。

クララと出会わなければ、シューマンがこれほどまでの大作曲家になることはなかったと思います。彼の運命を大きく変え、良くも悪くも多大な影響を与えた人物がクララなのです。

クララはピアニストとしても、とても才能ある人物でした。そしてシューマンの良き理解者でした。
クララを思って作る作品は、どれもが名作ばかりだ。余程の愛情が込められているのだろう。

シューマンエピソードその2

  • シューマンとクララは結婚してからも喧嘩もよくしましたが、8人の子供に恵まれています。仲がよくなくてはこうはならないですよね。クララも名ピアニストでしたから自身のコンサートの時は子供の世話が大変だったようです。

ピアノ曲作曲者返上

クララと満足する結婚生活をしていたシューマンでしたが、ピアノ曲の作曲から歌曲や交響曲への道に転進します。どのような考えがあったのかは良く分かっていません。

歌曲の年

1840年(30歳)、結婚した年は「シューマン歌の年」と呼ばれるものでした。『ミルテの花』『リーダークライス』『女の愛と生涯』『詩人の恋』など傑作リートを作曲しています。

この年だけで120曲以上にも及ぶ歌曲を作曲し、それまでのピアノ曲中心の作曲家というイメージを払拭します。

交響曲の年

翌年、さらにシューマンはクララとバッハやベートーヴェンの楽曲の研究にも乗り出し、対位法や管弦楽に対するアプローチの引き出しをどんどん増やしていきます。

その結果、1841年(41歳)には自身初となる『交響曲第1番』を作曲。同年には更に別の交響曲(作品番号が付けられていない)もスケッチを残して、作曲家としての評価を着々と上げていきました。

室内楽の年

さらに1842年(42歳)は室内楽の年です。またまたクララにそそのかされて、懸命に古典派の弦楽四重奏などを学習しながら、『3つの弦楽4重奏曲』『ピアノ5重奏』『ピアノ4重奏』、さらに3つのピアノ三重奏曲など沢山の室内楽曲を完成させました。

シューマンの性格

シューマンは前述のように、交響曲と歌曲を同時に作曲する事ができなかった作曲家のようで、目標を決めたら、そのひとつのジャンルだけに集中して作品を作る作曲家だったようです。

ですから、「歌曲の年」、「交響曲の年」、「室内楽の年」と、はっきりと分類できる作曲家でした。これは性格の表れといえるようです。後に精神病を患う要因もこういった性格によるものなのかもしれません。

精神病の始まり

シューマンはメンデルスゾーンが創立した音楽院に講師として招かれます。そこで、シューマンも喜んでその仕事を引き受けたのです。ですが、その頃から様々な変調が現れ始めます。

ライプチヒ時代

シューマンはメンデルスゾーンが資財を投じて設立したライプチヒ音楽院でピアノとスコア・リーディングの教授に迎え入れられました。

作曲家としては、3年間に大量の作品を書いたシューマンも、残念ながら心の病気が思わしくなく、ここから先は、作品の数はずっと少なくなってしまうのでした。

1844年(34歳)、クララの演奏旅行に付き合ってロシアを巡りました。クララは各地で絶賛され、名声を高めています。クララはテクニックも音楽性にも優れていて、当時のピアニストの先頭を走るような存在でした。

シューマンは音楽的に成功する妻への嫉妬もあり、その頃から鬱病症状がひどくなり、同年ライプツィヒを離れてドレスデンに引っ越しをします。

ドレスデン時代

ドレスデンへの移転は、シューマンの精神状態にとって良かったようで、1845年(35歳)には、『ピアノ協奏曲』を完成させます。同年ワーグナーとも知り合いました。

この年から翌年にかけて『交響曲第2番』も作曲されています。しかし、この間にまたしても精神的に不安定になり、一時作曲を中断するほどでした。

1847年(37歳)には、口を利かないほどの、引きこもり状態に陥ってしまいます。長男が5月に亡くなって、11月には友人メンデルスゾーンまで亡くなった事がきっかけだったようです。

デュッセルドルフの音楽監督に就任したヒラーの後任として、合唱団の指揮者を引き継ぎ、翌年初めには、「合唱協会」を立ち上げていますから、この頃は何とか仕事はこなしていたようです。

デュッセルドルフ時代

1850年(40歳)にヒラーが招待して、デュッセルドルフの管弦楽団および合唱団の音楽監督に就任しました。心を閉ざしていたシューマンにとって、環境の変化は良い方へ味方します。

デュッセルドルフでシューマン夫妻は歓迎を受けました。 この地でシューマンは管弦楽団と合唱団の指揮を担当し、シューマンが指揮した最初のコンサートは成功を収めました。

創作力も蘇り、『チェロ協奏曲』『交響曲第3番』「ライン」は、シューマンのデュッセルドルフ時代を代表する作品となりました。

しかし、最初のシーズンから楽団員との間で折り合いが合わないことが多くあり、また、シューマン自身も指揮を失敗する事もあったりと、問題を抱えた船出となりました。

1853年(43歳)、ついにオーケストラ側の不満は爆発し、理事会からの反対もあり、11月に辞任に追い込まれます。シューマンの不手際もありましたが、田舎の閉鎖性も原因でした。

シューマンの晩年

シューマンの心の病は酷くなり、ついに自殺という最悪の結果に至ってしまいます。幸い助かりますが、シューマンは次第に衰弱していくのです。

深刻な精神障害

デュッセルドルフでの失敗は彼を完全に追い詰めます。その結果、危うい精神はさらに危うくなり、1852年(42歳)夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害も発症してしまいます。

ますます心身ともにボロボロとなり、もうこの時点でシューマンは殆ど壊れてしまったといっても過言ではありませんでした。

ブラームスとの出会い

1853年(43歳)の事、もう既に壊れてかけていたシューマンですが、若干20歳の若き作曲家ブラームスがシューマン夫妻の家を訪れた時は人が変わったかのように元気になったといいます。

その後シューマンはブラームスの事を天才と称し、弟子に迎え可愛がりました。ブラームスもシューマンを熱く信頼し、2人の関係はシューマンが生涯を終えるまで固い絆で結ばれたのです。

また、ブラームスは気苦労の絶えないクララをサポートし、心の支えとなりました。この二人の関係は後の世で様々な憶測を生みますが、一般的には「親友関係」であったとされています。

シューマン自殺未遂

ブラームスとの出会いによって一時は回復の兆しを見せたシューマンですが、1854年(44歳)を迎えたころにはもはや精神は限界を迎えていました。

自我を保つことも危うくなったシューマンは、クララや子供たちを傷つけることを恐れ、遂にライン川に身を投げ、入水自殺を図ります。

運よく救助されたシューマンですが、そのまま精神科送りとなり、当時妊娠していたクララの負担とならないように、単身でエンデニヒという地へ向かうこととなりました。

ちなみにシューマンが自殺を図ったことはクララには知らされず、彼が死去した後に知らされたようです。

シューマンの最期

1856年(46歳)の7月27日に知らせを受けたクララは、ようやく彼を見舞うことが出来ましたが、その直後の7月29日に、シューマンは亡くなってしまいます。まだ46歳でした。

シューマンの最後の言葉は、「おまえ、・・・ぼくは知っているよ・・・」でした。何を言いたかったのでしょうか。永遠の謎です。

「おまえ、僕は知っているよ」はどう理解すればよいのでしょう。
立ち位置によっては様々な意味にとれるからね。何を言いたかったのか私も知りたいよ。

まとめ

天才シューマンは最後は精神を病み、結局は病に潰されました。もったいない事です。まともに生活できていたら、天才シューマンとして違った人生が待っていたはずです。姉の自殺など、シューマン家には遺伝的なものがあったのでしょうか。

病気さえなかったらクラシック音楽界での地位も変わっていたかもしれません。『交響曲第1番』『子供の情景』『クラスレリアーナ』『詩人の恋』と各ジャンルで素晴らしい名曲を残してきたのですから、残念でなりません。

音楽評論家としての彼の実績は見事なもので、ショパンを始め、多くの音楽家を世に紹介しました。こちらこそ天職だったのかもしれません。

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