
ショスタコーヴィチと聞くと私は1979年のニューヨーク・フィルの来日公演を思い出します。私も東京文化会館のその場にいました。あの時のバーンスタインは凄かった!CDにもなっている『交響曲第5番』のコンサートです。
ショスタコーヴィチの『交響曲第5番』という曲がとても素晴らしい楽曲だからこそ、あの名演が生まれたわけです。
ショスタコーヴィチの人生は、ソビエト社会主義共和国連邦(以下ソ連)の誕生によって大きな影響を受けました。社会主義体制に翻弄された作曲家です。ショスタコーヴィチの生涯を見ていきたいと思います。


ショスタコーヴィチ生い立ち
ショスタコーヴィチは幼少期から音楽の才能に恵まれて育ちました。その才能を伸ばすために音楽院に通い更に才能を深めていきます。
ショスタコーヴィチ誕生・幼少期
ドミートリィ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで誕生しました。姉と妹がいて、3人はとても仲が良かったそうです。
子供の頃は、常に犬や猫を飼い、小鳥の世話をすることを日課とするぐらい大の動物好きだったようです。
父は度量衡検査院で働く技師、母は音楽院でピアノを専攻したこともありました。ピアノは8歳の誕生日の後、母から手ほどきを受けます。
これは、幼少からの若すぎるレッスンによる弊害を母ソフィアが嫌ったためと言われています。大音楽家にとってはちょっと遅めのスタートでした。
あまりにも容易に譜面を読みこなし、曲を覚えてしまうので、母はショスタコーヴィチに本格的な音楽の教育を受けさせるべく、一家で首都ペトログラードに引っ越します。
息子の才能のために引っ越しまでしたのですから、両親には余程の覚悟があったと思われます。特に母はピアニストでしたから、その凄さに天賦の才があると確信したのでしょう。
1919年(13歳)、彼は姉マリーヤとともにペトログラード音楽院に入学します。当時の音楽院の校長はグラズノーフで、彼はショスタコーヴィチの才能を高く評価していました。
グラズノーフは、1922年(15歳)に父親が急死してから貧困にあえいでいたショスタコーヴィチ一家を見かね、奨学金などの便宜を図ってくれたり、様々な援助を惜しまなかったのです。
ショスタコーヴィチ青年期
優秀な成績でピアノ科を終了した頃、彼は結核に冒され、1923年(16歳)にクリミヤで転地療養します。病が回復し、8月にペトログラードに戻ってきたショスタコーヴィチは、家計を助けるために映画館で無声映画の伴奏ピアニストなどもやっていました。
彼は作曲科の卒業作品として『交響曲第1番』を完成させます。この作品は大学院に入った1926年(19歳)春に初演されました。高い評価が与えられ、国外でも著名指揮者達によって演奏されるようになります。
1927年(21歳)、第一回ショパン・コンクールにソ連代表者としてオボーリンと共に選出され、出場を果たします。ショスタコーヴィチは名誉賞を獲得、オボーリンは第1位となりました。
この時は急性虫垂炎となり、実力が発揮できなかったとする説もありますが、実際はどうなのかは今となっては分かりません。


社会主義体制との共存
当時のソ連はスターリンが政権を握り、独裁政治を始めた時代でした。ショスタコーヴィチもスターリンには逆らえず、体制に「批判」を強要されます。
社会主義体制の台頭
『交響曲第1番』の後、ショスタコーヴィチは演劇や映画の伴奏音楽を作曲していましたが、時代の影響もあり、より前衛的な作風に変わっていきます。1928年(22歳)に作曲された歌劇『鼻』は、その代表的ものです。
当時はスターリンの独裁体制が始まり、社会主義体制の確立に向けて激動の時期でした。音楽界もその方針に従わざるを得ない状況になります。「社会主義リアリズム」の名の元に統制を受けるようになっていくのです。
1932年(26歳)、歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が作曲されたのは、そのような時期にあたります。
作品は同年結婚した妻ニーナ・ヴァルザルに献呈されました。この曲は、1934年(28歳)の初演後、国内外で数多く演奏され成功を収めます。
共産党からの批判
しかし、この作品は、1936年1月28日(29歳)にソ連共産党から批判されます。バレエ音楽『明るい小川』に対しても批判がなされました。
この事から、ショスタコーヴィチは、新作、『交響曲第4番』初演を取りやめ、劇音楽や映画音楽で当座を凌ぎます。
そして、彼を含めた多くのソ連の作曲家は、当局の気に入るような曲を作らされるようになっていきました。この惨状から逃れるべく、ラフマニノフのように革命から間もなく亡命する人も出てきます。反抗すれば粛清される時代だったのです。
名誉回復
共産党の顔色を窺いながら作曲された『交響曲第5番』は1937年(31歳)11月22日に初演され、圧倒的な成功を収めました。
指揮は、新人ムラヴィンスキーに任されました。後に大指揮者になるあのムラヴィンスキーです!
こうして名誉を回復したショスタコーヴィチは、1937年春から務めていたレニングラード音楽院での教育活動にも力を注ぎ、ようやく穏やかで充実した時期を過ごす事ができるようになります。
ショスタコーヴィチは教育活動や平和活動にも、積極的に携わりました。フットボールの審判員の資格を持っていた事、大戦中はレニングラード包囲戦のさなか「消防分隊」として勤務した事など、意外に知られていない一面も多くあります。
第2次世界大戦勃発
戦争の影響は勿論音楽界へも伸びて来ました。音楽家は体制翼賛的な音楽を求められ、ほとんどの音楽家がそれに従います。
1941年6月22日(34歳)、ドイツ軍がソ連に侵攻してきました。このような時期に国威発揚のため、ショスタコーヴィチは『交響曲第7番』を作曲します。当局の求めていたような内容であったため、初演は好評を得ます。
ドイツの降伏により戦争が終結した1945年(38歳)、ショスタコーヴィチは『交響曲第9番』を作曲します。
人々は戦争に勝利した事もあり、ベートーヴェンの『第9』のような壮大な交響曲を期待しました。しかし、彼は人を食ったような軽妙な楽曲を作曲したのです。当然の事、彼は批判にさらされました。
第2次世界大戦後のソ連の音楽界
戦後も社会主義体制の中での音楽活動は厳しい統制に晒されます。この強化はスターリンが亡くなるまで終わりませんでした。
ジダーノフ批判
1948年(42歳)、悪名高きジダーノフ批判が発表されます。これは戦後の冷戦構造の中で、共産党中央委員会が学問や芸術の全分野に渡って繰り広げた一連の批判です。
音楽に関しては、プロコフィエフなど国際的にも著名な作曲家全てが名指しで批判されました。ショスタコーヴィチもその影響を受け、音楽院の教授職を免職されています。
この窮状を凌ぐため、ショスタコーヴィチは体制翼賛的な映画の音楽などで生計を維持する状況に追い込まれています。
こうした事情から、スターリンを賞賛する内容のオラトリオ『森の歌』を発表し、彼はようやく名誉を回復しました。当時の社会情勢では当局の喜びそうな作品を作曲する以外に生きる道はなかったのです。
スターリン後の音楽界
スターリンが死去した1953年(47歳)、ショスタコーヴィチは『交響曲第10番』を作曲します。暗く悲しい作品は賛否両論を巻き起こします。
これには、例の「第9問題」もあって、「第9」を超えたのだから、もっと大交響曲にすべきだったなどの、音楽とは全く関係ない批判もされたのです。
この頃、妻と母を相次いで亡くす悲劇にも見舞われていますが、彼の創作意欲に衰えは見られませんでした。
ジダーノフ批判後発表を差し控えていた『ヴァイオリン協奏曲第1番』、『弦楽四重奏曲第4番』、『ユダヤの民族詩より』などを発表します。
かつて批判の対象になった『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を一部改訂した歌劇『カテリーナ・イズマーイロヴァ』や、『交響曲第4番』なども日の目をみました。
ユダヤ人虐殺に関するテーマを扱った『交響曲第13番』を発表しますが、フルシチョフの時代においても問題とされ歌詞の一部書き換えを余儀なくされます。
社会主義体制の下では、スターリン亡き後も、国家を批判するような内容の楽曲を作る事はタブー視されていたのです。
彼は、1954年に妻が死去後、1956年に再婚しましたが、すぐに離婚します。そして、1962年に最後の結婚をしています。


ショスタコーヴィチの晩年
世界的に名だたる作曲家になったショスタコーヴィチでしたが、晩年には病魔に冒され右手の自由が利かなくなってしまいます。
右手の異常
フルシチョフ後のソ連はブレジネフ時代を迎えて、社会はまた自由な雰囲気を失います。しかし、すでに国際的に大作曲家としての評価を受けていたショスタコーヴィチは、もはや公的な批判にさらされる事はなくなっていました。
社会的事件の風刺など、危ない題材も扱っています。共産党からは当然いい顔をされませんでしたが、既にスターリンがいないので命の危険にまではなりませんでした。
ショスタコーヴィチの最期
1958年(52歳)にはかつて患った脊椎性小児麻痺の後遺症により、右手の自由がきかなくなり、ピアノ演奏はおろか作曲のペンを握るのにも不自由しましたが、作曲意欲は最後まで衰えませんでした。
1966年(60歳)心筋梗塞の発作を起こし、入院します。1971年(65歳)2度目の発作がありますが、またもち直し、作曲を続けました。最後の作品は『ヴィオラ・ソナタ』でした。
1975年8月9日(68歳)に肺がんで死去するまでの間、休むことなく創作活動を続けた偉大なる人でした。
まとめ
ソ連という社会主義国家にとても影響された作曲家でした。作曲したいと思った事も作曲できず、苦労した事でしょう。生き抜くためには従わざるを得なかったのです。
これだけ才能があった作曲家ですから、自由主義社会であったならばどんな作品を残してくれたか興味が湧くところです。
しかし、これだけ統制が厳しい社会であったからこそ生み出された音楽性も否定できません。我々は、単純に、現在に残された彼の作品を味わう事にしましょう。