フィンランドの英雄作曲家シベリウス【『フィンランディア』を作曲した人物の生涯】

作曲家シベリウスといえば『フィンランディア』が有名です。フィンランドの第2の国家とも言われるほどの人気を誇っています。

シベリウスは交響曲から協奏曲、室内楽曲まで多くの名作を作曲しました。作曲した作品数は数多くあり、人気のある作曲家のひとりです。この作曲家の楽曲は毎日必ずどこかで演奏されている事でしょう。

しかし、生い立ちやどうして作曲家になったのかまで知っている方はごく少数と思われます。フィンランドが生んだ英雄シベリウスについて纏めてみました。

フィンランドの人たちにとって、『フィンランディア』は無くてはならない楽曲です。
シベリウスは今でもフィンランド人の英雄であり続けているのだ。

シベリウスの略歴

父を早くに亡くし、苦労したシベリウス一家でしたが、シベリウスは幼い時から音楽の才能を発揮して成長して行きます。

シベリウス誕生

ジャン・シベリウス(Jean Sibelius)は1865年12月8日、ヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれました。父クリスチャンは医師でしたが、シベリウス2歳の時に他界します。

父が残した借金で家族は苦労しましたが、シベリウスが10歳の頃、叔父からヴァイオリンを与えられます。この叔父はシベリウスの良き理解者で、後年、作曲家になるための支援をしてくれた人物でした。

シベリウスはこの叔父を父親のように思い育っていきます。シベリウスが作曲家となったのは、この叔父の影響によるところが大きかったのです。

シベリウスの青年期

1885年(20歳)、高校を卒業したシベリウスはヘルシンキ大学のへ進学し、法学を学びますが、音楽への道を捨てきれず、ヘルシンキ音楽院に転入し、ヴァイオリンと作曲を学びます。

ヴァイオリニストになる夢を持ち、それに向けて研鑽の日々を過ごしました。1889年(24歳)、同学院を卒業後は政府の奨学金を得てベルリン及びウィーンに留学しています。

ベルリンではベルリン・フィルの演奏を聴いたり、オペラにも触れました。ウィーンでも本場の音楽に触れる毎日だったようです。

留学までしてヴァイオリンに打ち込んだシベリウスでしたが、ウィーン・フィルのオーディションも落ち、かといってソリストとしての腕もなく、自身の限界を覚え、その夢を諦めるのでした。

そこで、シベリウスは作曲家としての道を志します。ベルリンやウィーンでの音楽の本場での経験は彼にとって、とても有意義でした。この経験を活かし、母国フィンランドで作曲家として活躍する夢を持って、帰国します。

帰国後はヘルシンキ音楽院で教鞭をとり、1892年には『クレルヴォ交響曲』を、翌年には交響詩『エン・サガ』を自ら指揮して初演し、ヘルシンキの芸術家グループの中心的な存在となりました。

この年、彼はアイノ・ヤルネフェルトと結婚し、家庭を持ちます。2人の間には6人もの女の子が出来ました。残念なのはその中のひとりは早くに亡くなっています。

ここでヴァイオリンに固執しなかった事がシベリウスの成功に繋がります。
すぐに作曲家として頭角を現してくるのだから、才能があったのだろうな。

国民的作曲家へ

ヘルシンキ音楽院で教鞭をとっていたシベリウスに嬉しい知らせが届きます。政府から年次助成金が受けられるとの知らせでした。作曲に専念したシベリウスは次々と新曲を作曲し、その名声を高めていきます。

作曲に専念

1897年(32歳)よりフィンランド政府の年次助成金が受けられるようになり、シベリウスは作曲に専念できるようになりました。彼はイギリスやドイツで自作を指揮し、アメリカでもその作品が演奏されるようになるなど、国際的な名声が高まっていきます。

1899年(34歳)には『報道の記念日』という集会で『愛国記念劇』の音楽を担当。この劇の音楽を担当した事でシベリウスの名は国中に広まりました。

また、この曲の7曲目「フィンランドは目覚める」が改作されて交響詩『フィンランディア』として独立して演奏されるようになり、人気を博しました。

その当時のフィンランドは帝政ロシアの支配下にあり、国民はその圧政に苦しんでいました。『フィンランディア』はそんな時代に、人々の愛国心を大いに高めたのです。

またこの年、『交響曲第1番』を、1902年には『交響曲第2番』を自ら指揮して初演し、大成功を収めました。

田舎への引越し

1904年(39歳)、シベリウスは家族とともに、ヘルシンキから北へ40kmほどのところにあるヤールヴェンパーに建てられた、アイノラ荘に引越しました。

アイノラはアイノのいる場所という意味です。アイノは勿論、彼の妻の名前で、夫婦仲がとても良かった事が偲ばれます。

誘惑が多く慌ただしい都会の生活から、平穏な田舎暮らしへの変化は、シベリウスの作風に大きな影響を与え、その音楽はロマン主義から離れていきます。

1905年(40歳)には『ヴァイオリン協奏曲』(改訂稿)、1907年(42歳)には『交響曲第3番』を初演。1908年に喉の腫瘍の摘出手術を受けてからは、作風は更に内面的となり、1911年には『交響曲第4番』が生まれます。

英雄シベリウスの誕生

1915年12月8日のシベリウス50歳の誕生日は、国家的な祝典となりました。彼はこの日のために、死の恐怖から解放された喜びを謳い上げた祝典的な『交響曲第5番』を作曲し、自らの指揮で初演しました。

その後、1923年(58歳)には『交響曲第6番』を、1924年(59歳)には『交響曲第7番』を発表し、「ベートーヴェン以後、最大の交響曲作家」(セシル・グレイ)との評価を得ました。

『フィンランディア』だけでなく、フィンランド人は自国の作曲家シベリウスを尊敬しているのです。
国民的英雄として相応しい作品を数々残している。フィンランド人が誇りに思うのも当然だな。

シベリウスの晩年

シベリウスは長寿でしたが、何故か突然作品の発表を止めてしまいます。シベリウスの胸中に何があったのでしょうか。今もって真相は分かりません。

謎の沈黙

1925年(59歳)に交響詩『タピオラ』を発表後も、創作をやめることはありませんでした。しかし、この楽曲以後亡くなるまで作品の発表を一切止めてしまいます。この事は今でもシベリウスの謎です。

作品を全く発表しなくなった理由としては「自己批判的性向」が強くなったことが原因といわれています。

世間では、『交響曲第7番』以後、いやでも『交響曲第8番』への期待が高まりました。シベリウスの手紙に「交響曲第8番は括弧つきでの話だが何度も“完成”した。燃やしたことも1度ある」と記されています。

2011年に、『交響曲第8番』のスケッチがヘルシンキ大学図書館で発見されました。作曲を全く止めていたわけではなく、当時は何を書いても納得できなかったのでしょう。

転居の本等の意味

アイノラ荘への転居の本当の理由は、耳疾と、パリ演奏旅行の成功によって音楽以外の事で忙殺され、彼は神経を消耗し、憂鬱症に陥ったからです。

こうした心身の危機からの脱却のために、静かな田園での生活が必要だったのです。夫婦だけの落ち着いた平穏な生活を望んだのでした。

耳の疾患は音楽家にとっては最大の敵ですから、鬱になって引き込もるのも頷ける話です。シベリウスはどんな気持ちで毎日を過ごしていたのか、考えるだけで気の毒に思えてきます。

シベリウスの最期

そんな不遇の生活をしてきた晩年のシベリウスでしたが、ついに最後の日を迎えます。音楽家としては不遇の辛い晩年でした。

シベリウスは1957年、脳出血を発症し、91年の生涯を終えました。葬儀は国葬として行われ、彼は自宅の庭に葬られます。

妻アイノは彼が亡くなった後、12年間アイノア荘で過ごしました。彼女が亡くなった後は、夫の隣に葬られ、今でも2人並んで永眠しています。

32年間も作品を発表しなかった原因は何だったのでしょうね。
本人もはっきりとした理由を語っていない。シベリウス最大の謎なのだよ。

まとめ

シベリウスは偉大な作曲家でした。フィンランド人は今でも祖国の生んだ大作曲家シベリウスを誇りにしています。

『交響曲第1番』『第2番』や『ヴァイオリン協奏曲』の素晴らしさ、『フィンランディア』も忘れてはなりません。この世に名曲を数々残してくれました。

晩年の病気さえなかったら、もっと多くの作品を世に発表していたでしょう。

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