スメタナといえば誰もが思い浮かべる楽曲は『わが祖国』です。その中の『モルダウ』は特に知られた音楽になっています。オペラの『売られた花嫁』もそこそこ知られているでしょうか。クラシックの歴史でいえばロマン派の国民学派の作曲家です。
スメタナで知っている事といえばおそらくここまでの方が多いと思います。名前は知っているけど、それ以上は…という方が多い作曲家かと思います。
スメタナが世に知られるには長い期間が必要でした。また、晩年は耳が聞こえなくなりますが、『わが祖国』を作曲します。スメタナの薄幸の生涯について纏めてみました。
スメタナ幼少期
スメタナの生まれは今のチェコです。チェコは昔から社会情勢に翻弄された大変な国でした。彼の幼少時代を見ていきましょう。
スメタナ誕生
ベドルジハ・スメタナ(チェコ語: Bedřich Smetana)、ドイツ語名フリードリヒ・スメタナ(Friedrich Smetana)は、1824年3月2日、ボヘミア北部、リトミシュルで誕生します。当時はオーストリア帝国(ハプスブルク君主国)領でした。
父はビール醸造業者で、母は父の3番目の妻でした。スメタナは、この母の3番目の子供で長男として生まれたのです。
父には、前の2人の妻との間に8人の娘がおり、スメタナの母との間にも10人以上の子供をもうけました。幼くして亡くなった子らもいましたが、大家族の中でスメタナは育ったわけです。
この地域はオーストリア帝国領だったためドイツ語が公用語でした。日常生活においてはドイツ語を使用していたため、子供たちはチェコ語を知らずに育つことになります。
音楽的才能の片鱗
スメタナ一家はとても社交的な家族だったらしく、父も自らヴァイオリンを弾き、娘達もそれに合わせて歌を歌うという事もあって、近所の友人を集めて楽しく過ごしていました。
スメタナもそんな音楽好きな一家に生まれた影響を受け、幼少の頃から父にヴァイオリンを教わり、4歳になる頃には父親と同じくらいに弾けるようになります。
ピアノも、少し教わっただけで後は自分で弾きこなすようになったそうです。6歳になると、街の演奏会で見事なピアノ演奏を行い聴衆を驚かせるほどでした。
その後もヴァイオリンを学びながら、作曲もするまでになっていきます。音楽的才能は生まれつき備わっていたのでした。
ギムナジウムに進学
父の仕事の関係で何度か転居を繰り返します。スメタナも幾度か転校を余儀なくされました。1835年、最後に落ち着いた先には近くに学校がなく、家から50キロほど離れたイフラヴァの学校に入ります。
しかし、この学校になじめず、翌年カトリック修道会へ転校しています。初めてのひとり暮らしでのホームシックなどによるものでした。
スメタナは、1839年、15歳になると大都会プラハのギムナジウム(大学進学を目指すための学校)に入学し、勉強をする事になります。
しかし、若いスメタナは田舎者ゆえのいじめに合い、学校には全く通わなくなり、音楽の勉強に没頭するのでした。この頃プラハにはピアニストのリストが訪れており、スメタナもこの演奏を聴いて感銘を受けたようです。
スメタナが音楽家を志した大きな要因は、リストの演奏を聴いた事によるものでした。「音楽はモーツァルト、テクニックはリストのようになる」と日記に書いています。
1840年に父が息子のもとを訪れると、息子は勉強をするどころか音楽三昧の生活をしており、すぐに田舎に連れ戻されます。その後、従兄弟の家に預けられそこから転入した学校へ通い、優秀な成績で卒業しました。
スメタナ青年期
スメタナは音楽に対する熱意をどうしても諦めきれず、1843年(19歳)10月にプラハへ旅立ちます。しかし、父はかなり反対していたため、息子に仕送りはしなかったようです。
そのため、プラハに当てもなく出てきたスメタナは当初、相当苦労して生活をしていました。
プラハで音楽活動をしている作曲家プロシクと知り合い、弟子入りする事になります。そして、伯爵の子供達の家庭教師として住み込みで面倒を見てもらう事になりました。
やっとの思いでプラハで音楽活動に専念する事になったスメタナは、舞踏会でピアノ演奏をするアルバイトをする事がありました。
その事から自らもダンスが好きになったようです。スメタナのダンスのパートナーはカテルジナという女性でした。
1847年(23歳)、スメタナは一大決心をしてピアニストとしての演奏旅行へ出かけます。家庭教師の職は親しくなったカテルジナに譲りました。
この頃のスメタナは、カテルジナともかなり親密な関係になっていたと思われますから、結婚の意志を固めていたものと思われます。
ところが、特に有名な訳では無かったスメタナの演奏に耳を傾ける人は少なく、演奏旅行は失敗し、やむなくプラハへと戻って来るのでした。
国情不安
当時のプラハはヨーロッパの他の国で起きていた民主化運動の流れが押し寄せていました。政治的に不安定な社会となる中、市民の蜂起が起きます。
スメタナも革命軍に参加しましたが、蜂起は失敗に終わり、政情不安は更に強まっていくのでした。この政情不安は後のスメタナにも影響を及ぼします。
音楽学校創立
スメタナは、考えた挙句に学校を作ろうと思い立ちます。しかし、資金も何も無かったスメタナは、かつてプラハでその名演を聴いた有名なピアニストのリストに資金援助を依頼する手紙を送りました。1848年の事です。
当時は無名だったスメタナにもかかわらず、リストは丁寧な返事をくれ、スメタナの才能を認め、作品の出版に協力してくれる事になりますが、音楽学校の資金援助は受けられませんでした。
資金援助は受けられませんでしたが、スメタナはリストに認められた事に励まされます。何とか資金を集め、最初は12人の生徒で音楽学校を始めたのでした。
スメタナの思いが天に通じたのか、音楽学校は上手く軌道に乗ります。思いの他生徒が集まり、ようやく生活が出来るまでになりました。
生活が安定して落ち着いてきたので、1849年の夏、25歳のスメタナは22歳のカテルジナと結婚します。こうして苦労の末、仕事と妻を手に入れたのでした。
突如訪れた不幸
1851年(27歳)スメタナは子宝にも恵まれ、家族で幸せな生活を送っていましたが、不幸は急に訪れるのでした。
1854年(30歳)、2歳の次女が結核で亡くなります。そして翌年には4歳になったばかりの長女までが急逝してしまいます。
また、長女の死から少しして、四女が生まれたものの、この子も亡くなってしまうのです。子供に先立たれる親の心中や察するに余りあります。
悲しみに暮れていたそんな中スウェーデンのヨーテボリにあるオーケストラから指揮者をして欲しいとの誘いがありました。
依然として情勢の安定しないプラハ、そして娘たちの悲しい思い出が残るプラハ、心機一転の思いもあったのかもしれません。1856年(32歳)秋、スメタナはこの誘いを受けて、プラハの街を後にするのでした。
スメタナは北欧の国スウェーデンで指揮者の仕事を始める事になりましたが、思いの他充実したものとなり、ピアノ演奏家としても好評を受け、弟子もたくさん出来ました。
再び訪れた不幸
スウェーデンで仕事を始めたスメタナでしたが、ここでまた彼に不幸が訪れます。
妻のカテルジナには北欧の国スウェーデンの過酷な自然環境は耐えられませんでした。体調を崩してしまい肺病を患ってしまいます。
1857年(33歳)、カテルジナの病気は悪化の一途をたどり、カテルジナは故郷のドレスデンへ帰りたいとスメタナに訴えます。
スメタナは妻の言うとおり北欧の地ヨーテボリの街を後にします。しかし、ドレスデンへ着くと間もなく、カテルジナはここで息を引き取ってしまいました。
妻までも失ってしまったスメタナは、残された娘をカテルジナの母に預けて、ピアニストとして演奏旅行へ旅立ちます。悲し過ぎて働いていないとどうにかなってしまいそうだったのでしょう。
スメタナは傷心の演奏旅行から帰り、そして再び北欧の街ヨーテボリに戻り、指揮者生活に専念するのでした。
プラハでの活躍
スメタナは娘らに続き、最愛の妻までも亡くしてしまいます。不幸だった彼は突然ある女性と再婚します。そして、音楽家としての絶頂期を迎えるのでした。
突然の再婚
スメタナはヨーテボリに戻っても仕事が手につきません。妻までも失った悲しみのせいではなく、演奏旅行の途中で会ったベッティナという女性が忘れられなくなっていたのです。全く男って言う生き物は…。
スメタナは、1860年プラハへ戻りベッティナと結婚します。スメタナは36歳になっていましたが、ベッティナはまだ20歳でした。よっぽど家庭が欲しかったのですね。
スメタナは再びヨーテボリへ戻りますが、ベッティナも北欧の生活には慣れず、前妻のこともあり、ヨーテボリを離れる事を決意します。
また、この頃ヨーロッパ全域で革命運動が続きオーストリアのボヘミア(チェコ)へ対する支配が薄れていた事も、スメタナがプラハに戻るきっかけのひとつでした。
チェコに戻ってみると、ずいぶんその様子が変わっていました。制限されていたチェコ語が使われるようになっており、ナショナリズムを追求する動きが、更に大きくなっていたのです。
その影響は音楽にも及び、国民の間にはチェコ語のオペラを求める声が大きくなっていました。
チェコ語オペラの大成功
スメタナが育った頃はチェコ語は禁止されていたため、スメタナは幼い頃からドイツ語しか話す事ができませんでした。そこで、国民の期待に応えるためスメタナはチェコ語を学び始めます。
そして1862年(38歳)、遂にチェコ語によるオペラ『ボヘミアにおけるブランデンブルクの人々』を作曲しました。
反対運動もありましたが、1866年(42歳)に行われたオペラコンクールでこの作品が見事優勝し、上演も繰り返し行われる大ヒットとなったのです。
同年完成した『売られた花嫁』も上演されましたが、プロイセン=オーストリア戦争が起こり、プラハにも戦火が及ぶ状況だった為、一時中断されます。
しかし、戦火が治まり、オーストリア皇帝を迎えて再演されると、大成功を収め、チェコ国民の支持を大きく集めたのでした。
音楽家としての絶頂期
国民的な人気を集めるようになったスメタナはプラハの国民劇場の指揮者として迎えられます。スメタナ42歳の秋でした。
こうして、プラハで指揮者としての地位も確立させ充実した日々を送ります。また、次々にオペラを発表し見事に成功を収めていくのです。
スメタナの晩年
国民的音楽家になったスメタナでしたが、病魔が襲い始めます。本当に神は不公平でこうして幸せになったスメタナにまたしても大きな試練を課すのでした。
耳の異変
幸せな生活は長くは続きませんでした。1874年頃(50歳)、以前から具合が悪かった耳に異変が起きます。
どこからとも無く幻聴が聞こえるようになってきたのです。作曲家にとっては致命的な耳の病に侵されます。やがて幻聴は悪化し、同年の10月には完全に聴覚を失ってしまうのでした。
聴力を無くした事で、職も失い、妻との関係も悪化していきます。
盛んな創作活動
スメタナは聴力を失いましたが、そんな事には負けませんでした。作曲活動を続けたのです。
保守派の攻撃に合い、生活苦にあえぎながらも1874~79年にかけて彼の代表的な名作である交響詩『我が祖国』を完成させます。
第1曲『高き城』の楽譜の終わりに「耳の病気を患いながら」、また第2曲『モルダウ』の楽譜の終りに「全く聴こえなくなって」と、悲痛な告白を書き付けています。
その後も聞こえない耳を抱えながら、1876年(52歳)に『弦楽四重奏曲第1番』「わが生涯」を作曲しました。その後もオペラを4曲、作曲しています。
こうした旺盛な作曲生活を続けていきますが、60歳を迎える1884年には、記憶喪失にも悩まされる事になっていくのでした。
スメタナの最期
やがて精神錯乱状態になってしまったスメタナは入院を余儀なくされます。しかし、精神状態が戻る事のないまま、1884年5月12日、永遠の眠りにつきました。60年の生涯を終えたのです。
葬儀が行われた夜に、プラハの国民劇場ではスメタナへの追悼として『売られた花嫁』が上演されました。
まとめ
名曲『我が祖国』は聴力が無くなってから作曲した作品だったのです。ベートーヴェンと同じように、聴力を失っても見事な名曲を残しました。
スメタナの人生は長続きしない幸せの連続だったような気がします。今後も『我が祖国』を大事に聴いて行きたいものです。