作曲家チャイコフスキー【大器晩成型作曲家のその生涯とは】

チャイコフスキーといえば今では大作曲家のひとりとして挙げられますが、彼が歩んだ道は平坦な道ではありませんでした。チャイコフスキーが音楽家を志したのは20歳過ぎてからの事だったのです。

3大交響曲や3大バレエ音楽など今では無くてはならない作曲家の地位にありますが、彼が音楽家となって本当に幸せだったのかどうかは誰にも分かりません。

今回はそんなチャイコフスキーの人生に焦点を当てて、彼の生い立ちから大作曲家になるまでを追っていきたいと思います。

チャイコフスキーは音楽家を志したのが遅かったのですね。
公務員として働きだしてから、音楽家への道を目指し始めたのだ。全くの基礎教育なしでここまで大成した作曲家はそういないよ。

チャイコフスキーの生い立ち

クラシック音楽家の大半は幼少期から英才教育を受けて育った人物が多くいます。しかし、チャイコフスキーは専門的な音楽教育を施されることなく育ちました。

普通の人

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky)は1840年5月7日、ロシアのウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師の次男として生まれました。

祖父は医師、特別音楽に精通した家系だったわけではありませんが、医師である祖父の努力のおかげか貴族と呼ばれる一家でした。

そのためかチャイコフスキーの家にはピアノがあり、幼少の頃から音楽的才能を発揮していたそうです。しかし、これはあくまでも趣味といったものでした。

両親には音楽の道へ進ませる意思など全くなく、1850年、10歳の時に寄宿生として法律学校へ入学する事となりました。

1854年には、コレラに罹患した母アレクサンドラが40歳の若さで亡くなり、チャイコフスキーは大きな悲しみ味わいます。まだ14歳の若者でしたから、母の急逝は相当のショックだったと想像できます。

こういったことも要因のひとつだったのでしょう。チャイコフスキーの兄弟姉妹は後年にいたるまで仲が良く、チャイコフスキーを支え続けました。

法務省に就職

1859年、19歳になる頃、法律学校を卒業し、法務省に9等文官として勤務するようになります。勤務態度はさほどの事もなかったようです。

ここまでチャイコフスキーは平凡な文官としての道を歩んでいましたが、21歳の時に一大決心をして帝室ロシア音楽協会に入学する事になります。

音楽家の道を選択

この音楽院で音楽を学んでいるうちに、本格的に音楽をやりたいと思うようになり、1963年、23歳の時に法務省を退職し本格的に音楽の世界へ進みだしました。

幼少時代の楽しかったピアノを思い出してしまったのでしょう。チャイコフスキーは自ら進んで茨の道を選択したのです。

しかし、今まで専門的な音楽教育を受けていなかったチャイコフスキーが、いきなり音楽院の門を叩き作曲の道を目指すとは誰もが考えていなかった事でしょう。

それにもう23歳です。幼少期神童と謳われたなら別ですが、趣味としてピアノをかじっただけの彼がどうしてそこに飛び込めたのでしょうか。余程の決心があったと想像できます。

音楽家の道へ進もうと良く決心しましたね。
心の中には自分のやりたい事に進みたいとの欲求があったのだろうね。いきなり音楽院に入れたのだから才能はあったのだね。

音楽家としての活躍

音楽院を卒業したチャイコフスキーは音楽の先生になります。そして先生をしながら作曲に没頭していくのです。

音楽院の講師

帝室ロシア音楽協会を卒業した彼は、1866年1月にモスクワへ転居し、帝室ロシア音楽協会モスクワ支部で教師として働くことになります。

その後、モスクワ音楽院が創設されると、彼はそこに理論講師として招かれます。モスクワ音楽院には12年間勤めました。

モスクワ音楽院時代の出来事

モスクワ音楽院での12年間、若手の指導を行う一方作曲家としても活動し、様々な音楽を作曲しています。

1866年(26歳)、交響曲第1番『冬の日の幻想』作曲。また、初のオペラである『地方長官』を完成させました。

1875年(35歳)には、名曲『ピアノ協奏曲第1番』を作曲。ハンス・フォン・ビューローによる初演は大成功を収めました。

1876年、富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メックから資金援助を申し出られます。この夫人との関係は複雑で、生涯1度も出会う事はありませんでした。

しかし、14年もの間、チャイコフスキーへの資金援助があり、2人の間には頻繁に手紙のやり取りがあっただけです。なぜそうしたのか今もって分かっていません。

1876年に完成した『交響曲第4番』は彼女に献呈されています。

1877年(37歳)には結婚に失敗、彼は自殺を図るほどでした。この年、バレエ『白鳥の湖』、オペラ『エフゲニー・オネーギン』が完成しています。

何れも名曲ですが、こんなタイミングで作曲されたとは思ってもいませんでした。『白鳥の湖』の終末は悲しいものですが、自身の精神状態も影響したのかもしれません。

最悪の結婚

チャイコフスキーの中での唯一の汚点、それは結婚でした。上記でも触れましたが、この結婚がチャイコフスキーの心を如何にズタズタにしたか、察するに余りある事です。

1877年(37歳)、チャイコフスキーはアントニーナ・ミリューコヴァという20歳の女性と結婚しました。彼女は異常に積極的で、精神的にも問題がある人物だった事が2人に破綻への道を歩ませます。

アントニーナ・ミリューコヴァに半ば強制的に入籍されたといった方が正しいのでしょう。彼はすぐに離婚の申し出をしますが、彼女はなかなか応じません。

その結果として、自殺未遂という最悪の結果をもたらします。そして、精神病院へ入院するまでになってしまいました。

しかし、そんな事態になったにもかかわらず、彼女は一向に離婚に応じてくれませんでした。そのため、彼は彼女から逃避する事を決心し、実行に移します。

不遇の10年間

1878年(38歳)、チャイコフスキーは教師の職を辞職し、ヨーロッパの主要都市を転々と渡りあるく引っ越し魔となり、旅人のような生活を約10年も続けます。 

その理由は結婚相手のアントニーナから逃げるためでした。フィレンツェやパリ、ナポリやカーメンカなどヨーロッパ周辺を転々としています。

その間にも作曲は続けられていて、1880年には『弦楽セレナード』大序曲『1812年』が書かれました。

最終的には1881年にようやく離婚することができ、やっと彼の心の平安が訪れたのでした。追いかけてくる嫁から逃げる生活は彼をどれだけ苦しめたか分かりません。

1885(44歳)年2月、モスクワ郊外のマイダノヴォ村に家を借り、旅暮らしに終止符を打ちました。以後死までの間、フロロフスコエやクリンといった近郊の街へと転居を繰り返したものの、この一帯に住み続けました。

1886年、忘れかけていた元妻からの手紙を読み、彼はまた闇の中に追い込まれます。復縁の申し込みでした。彼女は私生児を3人産み、彼女自身も精神病院に入院していたのです。

チャイコフスキーはこの問題を知人を通じてお金で解決しました。ここにようやく約10年に渡る彼女とのトラブルは解決し、不遇の10年にピリオドを打てたのでした。

これは酷い事になってしまいました。約10年間無駄にしたのです。
自身が同性愛者と打ち明けていたのに、どうして結婚したのだろう。働き盛りの10年間を無駄にしたのは大きい。

チャイコフスキーの晩年

いろいろな事がありましたが、また大作に挑み始めます。アメリカへ行ったりと創作意欲は旺盛でした。

次々と傑作の誕生

1888年(48歳)には『交響曲第5番』や、バレエ音楽『眠れる森の美女』、1891年にはバレエ音楽『くるみ割り人形』を完成させました。

精神的にも安定し、大作も作れるようになったのです。そして最後の傑作『交響曲第6番』を1893年(53歳)に完成させました。

離婚問題に決着をつけ、旅暮らしを終えた後は、まるで遅れを取り戻そうとするかのように、次々と傑作を作曲しています。音楽家にとって精神的安定が何ほど大事かを物語っているようです。

これらの大作を作曲中にも、ヨーロッパやアメリカに演奏旅行に出かけており、各地で絶賛されました。作曲家チャイコフスキーの名声が轟いたのは50歳位という遅咲きのものだったのです

その間、悲しい出来事もありました。1890年(50歳)、フォン・メック夫人から突然、財政援助を打ち切られたのです。その理由は現在でもよく分かっていません。

経済的基盤を失ったのですから自分で稼がないといけないという気持ちが芽生え、大作の作曲や演奏旅行として表れたのかもしれません。

巨匠のあっけない最期

1892年4月、52歳の誕生日前、クリンへと転居します。チャイコフスキー最後の引っ越しとなりました。

フォン・メリック夫人からの援助を打ち切られた事はチャイコフスキーにとっては、大きな負担となり、体力的にもみるみる衰え始めます。

1893年10月28日、『交響曲第6番』が作曲者自身による指揮で初演したわずか9日後の11月6日に急死します。53歳というまだまだこれからという年齢でした。死因はコレラとされていますが、諸説あってはっきりとはしていません。

チャイコフスキーエピソード

チャイコフスキーは指揮をする事が大変苦手でした。オーケストラを前にすると体がすくんでしまい、がたがた震え、そのために頭がもげてしまうのではないかという妄想に駆られ、左手を顎に当ててもげないように支える動作を繰り返したといわれています。

まとめ

チャイコフスキーは自身でも言っているとおり同性愛嗜好者でした。だから結婚などせずに自分の道を邁進していれば、もっと多くの作品を残す事ができたでしょう。

53歳の死はまだ若すぎました。しかし、音楽家としてのスタートは遅い物でしたが、最後は大作曲家になっています。正に大器晩成型の作曲家だったのです。

彼が残してくれた数々の傑作はこれからもずっと聴かれて行く事でしょう。チャイコフスキーファンは世界中に存在しています。

関連記事