リストの『愛の夢』第3番はとても切ない作品です。夢に終わった愛を描いた作品なのでしょうか。何処かほろ苦い感じもする名曲です。大人にしか分からない愛の形を表現しているようです。
この作品は最初、1845年、歌曲として書かれました。ドイツの詩人の詩に感銘を受けて、歌曲として発表したのです。これをリストは1850年にピアノに編曲しています。
『愛の夢』第3番にはプレイボーイのリストらしく、2人の女性が関わっています。リストが本当に愛した女性は僅かでしたが、この2人の女性を思いながら書いた作品ではないのかと想像されます。2人の女性とこの作品との関係について纏めてみました。
歌曲『おお、愛しうる限り愛せ』
1835年(24歳)、リストはマリー・ダグー伯爵夫人とサロンで知り合い、すぐに恋に落ちてしまいました。2人は、今でいうところの「不倫関係」になってしまいますが、関係者の知るところとなり、止むを得ず、スイスへの逃避行をする事になりました。
2人は、約10年に渡る同棲生活を送り、その間に3人の子供を作っています。しかし、1844年(33歳)に2人は分かれてしまうのです。別れた後、1845年に作曲したのが、歌曲『おお、愛しうる限り愛せ』でした。この作品こそ、後に『愛の夢』第3番に編曲されるのです。
この作品は、ドイツの詩人フェルディナント・フライリヒラートの詩集から取った歌詞に曲を付けています。歌詞の一部を引用すると以下のようなものです。
その時は来る その時は来るのだ
汝が墓の前で嘆き悲しむその時が
心を尽くすのだ 汝の心が燃え上がり
愛を育み 愛を携えるように
愛によってもう一つの心が
温かい鼓動を続ける限り
リストはこの時、マリーの事を思いながらこの作品を作曲したのではないでしょうか。
『愛の夢』第3番誕生
1847年(36歳)、マリー・ダグーと別れてから3年後、演奏旅行の途中で、リストはカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲する事となります。これも、また、不倫関係です。ただ、今までと違うところは、リストが本気で結婚を願ったのです。
ただ、カロリーネは敬虔なクリスチャンで離婚はタブーでした。それでも、もう一息で結婚というところまで進みましたが、相続問題等様々な問題が絡み、結局は2人は別れる事になります。こちらも約10年の同棲生活でした。
2人が同棲中の、1850年(39歳)に、歌曲『おお、愛しうる限り愛せ』をピアノ編曲したものが、『愛の夢』第3番になるのです。他の2曲も合わせて『愛の夢』は3曲のノクターンとして出版されました。
リストは何を思って『愛の夢』とタイトルをつけたのでしょうか。今後のカロリーネとの将来を思いながら、このタイトルにしたのではないかと思うのです。
『愛の夢』について
1848年(37歳)、リストはヴァイマルから宮廷楽長として招かれます。カロリーネの助言もあって、リストはこれを受け入れ、自身の演奏活動を終わりにし、作曲活動に専念する事になるのです。同棲を始めて、1年後の事になります。
1850年(39歳)、リストは歌曲として作った3曲をピアノ独奏版に編曲します。リストはこれに『愛の夢』と名付け、「3つのノクターン」との副題を付けて出版しました。
第1番(『高貴な愛』S.307、ルートヴィヒ・ウーラント詞、1849年作曲)
殉教者としての神への「愛」を題材にしています。
第2番(『私は死んだ』S.308、ルートヴィヒ・ウーラント詞、1849年作曲)
恋人、または想いを寄せる人への「愛」を題材にしています。
第3番(『おお、愛しうる限り愛せ』S.298、フェルディナント・フライリヒラート詞、1845年作曲)
家族や友など身近な人に対する「愛」を題材にしています。
愛の形態は様々です。わざわざ、これら3曲を纏めて編曲し、『愛の夢』というタイトルにした事も、その時のリストの心情を伝えるものではないでしょうか。
まとめ
リストの『愛の夢』、特にその第3番を中心にして纏めてみました。この作品には2人の女性が大きく関わっています。2人とも10年に渡る同棲生活を送り、リストの創作活動に大きく影響を及ぼしました。
この2人がいなかったら、『愛の夢』は生まれなかったのかもしれません。リストは2人目のカロリーヌと別れた後、僧籍に入ります。結婚まで考えた唯一の女性でしたから、自分は生涯独身で過ごすと決めたのかもしれません。
作曲家の名曲の裏には、多くの場合、女性の存在があります。この作品もそうでした。こうした事を知ると、聴き方が今までと変わるのかもしれませんね。