ピアニスト リスト

リストといえばおそらく史上最高のピアニストだったと思います。現在残っている彼のピアノ作品を見てみると超絶技巧のオンパレードで非常に難しい作品ばかりです。自分の最高の技術を音符にしたのですから当然かと思います。

ピアニストとして当時のヨーロッパに名声を轟かせ、頂点を極めた人物でした。作曲を始めたのはピアノの演奏旅行生活に嫌気が差したからと言われています。

作曲家としても「交響詩」という新ジャンルを生み出したりとピアノだけの作品以外にも才能あふれる人物でした。そこがショパンと違うところです。リストの音楽人生を見ていきましょう。

リストはピアニストとしても作曲家としても成功した人なのですね。
ピアニスト、作曲家としても恵まれた才能を見せて、音楽家としては少数派の幸せな人生を送った人物だったのだよ。

リストの生い立ち

リストは幼少より音楽の才能に恵まれ、その才能を伸ばすために一家で引越ししたりと、彼のために家族も協力しました。

リスト誕生

フランツ・リスト(ドイツ語:Franz Liszt)は1811年10月22日にハンガリーのライディングという小村で誕生しました。ライディングはハンガリー領ですが、近接するオーストリアにはみ出しているような位置にあります。

父アーダムが、奉公していたエステルハージ侯の命を受け、このライディングの管理人へと職務が異動となったため、リストはこの地で生まれることとなりました。

一家はハンガリー人でしたが生まれた土地がオーストリアと隣接していたためドイツ語で生活していました。だからリストもドイツ語しか話せませんでした。

神童誕生

父アーダムは音楽家ではありませんでしたが、自らも作曲をしチェロを弾きました。そのため息子のリストも幼少の頃より音楽の手ほどきを受ける事になりました。その神童ぶりは公の場での実際の演奏活動で証明されていくのでした。

1819年リスト8歳の時に、バーデンにて初めて公衆を前にしての演奏を成功させてから、まずはエステルハージの領土周辺において徐々にリストの評判が上がっていきます。

1820年9歳の時にプレスブルクにてミヒャエル・エステルハージ伯爵を前に演奏したことが成功し、リストは奨学金を得る事になります。

その奨学金を元にリスト一家はフランツに正規の音楽教育を受けさせるためウィーンへ移住する事を決意しました。ウィーンにおいてリストはウィーン音楽院でツェルニー、サリエリから教育を受けます。

特にツェルニーに師事したことは、その後のヨーロッパ全土への進出に大きな助けとなりました。

リストは公演を行うたびにその評判を増していき、パリ、ロンドン、スイスへと父アーダムと共に演奏のために飛び回りました。すでにこの時点で天才ピアニストとしての評価が確立されつつありました。

この少年時代の演奏旅行は1827年リスト15歳の時、父アーダムの突然の病死によって終止符が打たれることとなります。

まるでモーツァルトのような成功物語ですね!
当時は録音などがないから演奏旅行で各地を回って才能を披露したのだ。本当にモーツァルトのような神童だったのだね!

史上最高のピアニスト

リストはパリを拠点に決め、音楽活動を積極的に展開していきます。パリではリストの運命を変えるパガニーニとの出会いがありました。それを契機に超絶技巧の達人を目指します。

パリでの生活

父を亡くしたリストは、自分のもとに母を呼び寄せパリに腰を据える事にしました。貴族の子弟にピアノを教える事で収入を得て生活費に当てていました。

リストはここで1度立ち止まります。失恋の悩みやこれからの事などを思案して、演奏会などを一切行なわなくなります。死亡説が流れるぐらいリストは音楽から離れてしまいます。

パガニーニの影響

1831年(19歳)にパガニーニがパリにやって来ました。パリを興奮のるつぼに陥れます。ヴァイオリンの魔人パガニーニの演奏を目の当たりにしたリストは「自分はピアノのパガニーニになるのだ」と決意し、演奏技術にさらに磨きをかけるべく猛練習を開始することになります。

目標を手に入れたリストにとってパリは芸術的刺激に溢れる都市でした。連日連夜サロンには著名な芸術家が集まり、リストも多くの友人を得ました。

ベルリオーズ、ショパンといった音楽家に加え、ユゴー、ミュッセ、サンドらの文学者達とも交遊を深め、リストの創作活動に深い影響を与えました。演奏活動もヨーロッパ主要都市を中心にその名声はとどまるところを知りませんでした。

パガニーニに接したリストはさらにピアノの腕を上げ、わずか数年で史上最高のピアニストに昇りつめました。文字通り「ピアノのパガニーニになった」わけです。

リストは今で言うとアイドル

身長が高く、端正な顔立ち、しかもピアノの名手という事で並外れた人気の音楽家でした。熱狂的な女性ファンが、演奏会で多く失神したり号泣したと言う逸話も残っているほどです。

現代で言えば、ジャニーズに所属するような人気アイドルだったのです。イケメンの音楽家はいつの時代でも女性はほおっておきません。

その人気振りから、世界で始めて「ファングッズ」「オリジナルコンサートグッズ」を売ったことでも知られています。グッズは、彼の顔が書かれたチョコレートやステッキなど、意外と実用的なものを販売していたと言うので、商売のほうでも才覚があったようです。

不倫と破局

そんな時期に、リストはパリ社交界の華々しい中心、マリー・ダグー公爵夫人と出会います。若きピアノの名手と社交界の貴婦人。2人はスイス、イタリアなどを旅行し友情と愛情を深め、そしてブランディーヌ、コジマ、ダニエルという3人の子どもを授かりました。

1839~40年(27~28歳)には祖国のハンガリーへ凱旋します。リストは祖国ハンガリーで熱狂的な歓迎を受けました。そして1845年のベートーヴェンの生誕75年の記念式典の実現に力を尽くしました。

しかし、各地への演奏旅行、そしてリストを取り巻く華やかな女性関係の噂は、マリー・ダグーとの間に軋轢を生じさせ、2人は破局を迎えてしまいます。

パガニーニの演奏を聴かなかったら今のリストはいなかったのですね!
その通り。リストは「ピアノ界のパガニーニ」になったのだよ。史上最高のピアニストはこうして生まれた!

作曲家リスト誕生

ピアニストとしてヨーロッパを席巻したリストは、ある女性の助言から作曲家への道を歩むようになっていきます。本当にモテる人って女性から寄ってくるのですね。

ピアニストとしての絶頂期

1840年代(20代後半から30歳前半)のリストは超絶技巧派ピアニストとしての絶頂期を迎えます。ヨーロッパ全土を演奏旅行し、熱狂を巻き起こしました。

しかし、リストは演奏旅行を中心とした生活に対して次第に疲れを生じさせてきました。コンサートで受ける熱狂に対しても、空虚感しか得られなくなってきます。

創作の面では、オーケストレーションが次第にこなれてきて、以前より幅広いジャンルの創造に対し意欲がでてきました。

作曲家への決意

またしても彼に影響を与える女性が現れます。それがカロリーネ・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人でした。このとき公爵夫人は夫と別居中でした。

知的で芸術に理解のある侯爵夫人とリストは意気投合し、2人は侯爵夫人の領地であるヴォロニンツェでしばらく過ごします。

緩やかで落着いた生活の中で、侯爵夫人はリストに、作曲活動に力を入れるよう助言をします。こうしてリストは演奏旅行中心の生活から抜け出すことを決意します。

1847年(35歳)9月にエリザベートグラードで演奏会を行い、ピアノの巨匠としての演奏家時代に終止符を打ちました。

1848年(36歳)、リストはかつてより交流があったワイマールの宮廷楽団の常任楽長に就任し、ワイマールに定住することを決意します。こうして、この地に腰を据える覚悟をしたリストは忙しい演奏旅行を止めて、作曲に力を注ごうと決意するのでした。

この時代のリストはとにかく充実していました。溢きあがる創造の意欲とインスピレーションは、リストの代表作となる傑作群を産み出します。それらは新ドイツ楽派の先鋭作品として、リスト自身の手で演奏されていきました。

結婚の決意をするが

リストとヴィトゲンシュタイン侯爵夫人は結婚することを望みました。しかし侯爵夫人とヴィトゲンシュタイン侯との離婚手続きが思うように運ばなかった事、また2人がカトリックであったことなどが影響し、その希望の実現は先送りとなりました。

しかし、全ての問題が解決されて、いざ結婚式となってからまた問題が発生し、結局2人は結婚できずじまいでした。

傑作を創作

リストは「交響詩」という分野を開拓し、傑作を生み出します。交響詩は標題音楽の1つで「詩や絵画・風景や感情を音楽として描写し、聴き手がそれをイメージできるような作品」の事です。

1854年(52歳)、『ファウスト交響曲』を完成します。この頃がリストの創作活動の絶頂期でした。この年までに『ピアノ協奏曲第1~3番』、交響詩『レ・プレリュード』等の名作を作曲しています。

ピアニストを辞めて作曲に専念したのですね!
リストは作曲家としても才能があった。だから「交響詩」というジャンルも生みだしたのだよ!

リストの晩年

何を考えたかは良く分かりませんが、リストは突然聖職者になってしまいます。作曲自体は続けていきますが、今までのような楽曲は作曲しなくなります。

聖職者に転進

1859年(57歳)にヴァイマルの宮廷楽長を辞任します。1861年(59歳)にはローマに移住し、1865年(63歳)に僧籍に入ります。それ以降『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えていきます。

さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年(67歳)の『エステ荘の噴水』は20世紀の印象主義音楽に影響を与えました。

リストの最期

リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられました。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在しています。

1886年(74歳)、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬されました。

リストはなぜ聖職者になったのでしょうか?
その理由は誰にも分らない。永遠の謎なのだよ。

リストの主な作品

管弦楽では「交響詩」を完成させましたし、ピアノの分野では『ピアノ協奏曲第1番』など数多くの名曲を生み出しました。

良く知られている名曲

・ピアノ協奏曲第1番
・交響詩「レ・プレリュード」
・ハンガリー狂詩曲第2番
・ピアノ・ソナタロ短調
・ラ・カンパネラ
・愛の夢第3番
・メフィスト・ワルツ第1番
・「巡礼の年」
・「超絶技巧練習曲」

リストは数々の名曲を作曲しています。特にピアノ曲は素晴らしいけれども難しいものばかりです!
リスト自身のピアノテクニックが凄かったからね。最高の技巧を凝らすような楽曲ばかりだよ!

まとめ

ピアニストでは当時世界でナンバー1を競うほどの腕前でした。その上イケメンで大モテ。羨ましい生涯でした。しかも、作曲家でも名曲を残し、悔いはない人生だったと思います。

結婚問題以外は正に順風満帆な生涯を送った音楽家でした。クラシック音楽史上大変稀な人物でした。今後もリストの残してくれた名曲達を楽しんで聴くようにしましょう。

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