クラシック音楽・オーケストラの総合情報サイト

小澤征爾とN響

半世紀以上も昔、日本のクラシック音楽界に激震が走りました。当時から類まれな才能で頭角を表していた小澤征爾と、日本クラシック界トップクラスのNHK交響楽団との間に大きなトラブルが発生しました。天才指揮者と一流オーケストラの間で起こったこの事件は話題になりました。

現在では「N響事件」として日本のクラシックの歴史にその名を残しています。若き日の小澤征爾とN響の間で起こった大事件、そして30年以上も埋まらなかった溝について紹介していこうと思います。それは小澤征爾を支えた仲間たちとの物語でもありました。

N響事件とは

N響事件出典 : https://news.yahoo.co.jp

NHK交響楽団は1964年に小澤征爾と「客演指揮者」との契約を交わします。新たなる日本のクラシック界を作り上げようとこの若き指揮者を迎え入れ、最初はメシアンの「トゥーランガリア交響曲」の日本初演をするなど順調な船出となりました。

しかしNHK交響楽団の東南アジア演奏旅行中、両者の間に修復不可能な軋轢が生まれました。そしてこの演奏旅行から帰国後、NHK交響楽団の演奏委員会側から今後小澤征爾とは二度と演奏、録音はしないとの発表がなされたのです。この騒動を称して『N響事件』と呼んでいます。

才能溢れる指揮者小澤征爾を擁護する人たちが間に人が入りNHK側と交渉を何度も行いましたが、結局小澤征爾はNHK交響楽団と今後一切仕事をしないという最悪の結末に終わりました。カラヤンとベルリン・フィルのように、完全に対立してしまう形になってしまったのです。

N響事件が起こった理由

N響事件出典 : https://www.wbur.org

当時27歳と若かった小澤征爾はやはり周囲への配慮が足りず、様々な反感を買っていたのは事実だったようです。若き天才指揮者は音楽や指揮の技術ではない、人間関係を築く技術をまだ持つ事ができていなかったと言わざるを得ない状況を自らの手で作り出していたのです。

N響事件【原因その1】

当時の小澤征爾はとにかく遅刻魔で、練習によく遅刻していました。いくら才能溢れる若き天才指揮者であったとしても、当然それを快く思わないオーケストラのメンバーたちは怒り心頭!密に関係性を築き上げていかなければならないはずの団員との信頼関係はガタガタでした。

N響事件【原因その2】

練習中に間違った演奏をした演奏家に、小澤征爾は言葉を選ばず注意をしていました。先輩ばかりのN響の中で、この小澤征爾の態度は許容できるものではなく、年配の楽団員からは「この若造が何をぬかしやがる」と非常に怒りを買っていました。

N響事件【原因その3】

信頼関係は既にガタガタ、ひとつのオーケストラと呼ぶにはあまりに歪な関係になっていました。そして東南アジア演奏旅行中の演奏で若き小澤征爾は大きな指揮の振り間違いをしてしまいます。この3つ目の原因が溜まりに溜まっていたN響の怒りを爆発させるに足る決定打となりました。

若き小澤征爾の行動や言動に苛立ちながらも、必死に我慢していた楽団員たちは【原因その3】によって恥をかかされた格好となり、ついに堪忍袋の緒が切れてしまいます。“この若造の下では演奏はできない!”と小澤征爾にN響は絶縁状を突きつける形となりました。

N響事件のその後

N響事件出典 : https://www.digitalconcerthall.com

小澤征爾とNHK交響楽団の確執は容易には収束せず、演奏会自体をNHK交響楽団がボイコットする事態となります。誰もいないホールで途方にくれている小澤征爾の新聞写真を見ましたが、その写真は事態の重大さをようやく理解した小澤の不安さが滲み出ていました。

小澤を救った仲間たち

演出家の浅利慶太、作家の三島由紀夫らが事態を収拾させようとNHK側と話し合いましたが結局上手くはいきませんでした。事態が収拾しないまま時間だけが過ぎ、小澤征爾という才能は日本のクラシック音楽界から消えてしまうかに見えました。

しかし、その後浅利慶太、三島由紀夫、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎らが中心となり「小澤征爾の音楽を聴く会」が日本フィルの演奏の元行われました。この演奏会が大反響を呼び、やはり小澤征爾の才能は素晴らしいとの認識を皆が共有する事になります。

この演奏会が良いきっかけとなり音楽評論家の吉田秀和らの仲介の元、N響との間でとりあえずの和解が成立しました。

旅立ち、そして本当の和解

americanairline
とりあえずの決着がついたN響事件でしたが、やはりその爪痕を拭う事は中々できず、もう日本では指揮をしないつもりでアメリカに渡る事になります。そして様々な苦難を乗り越え、我々が知るような世界に誇るに日本人指揮者『小澤征爾』となったのです。

アメリカで成功を収めた彼は後にこう語っています。「“出る杭は打たれる”まだまだ若かった27歳当時の自分がどういう態度を取ったらいいかも分からず、全ての面でNHK交響楽団に対する配慮が足りていなかった」と自ら非を認める発言もしていました。

小澤征爾が再びNHK交響楽団を指揮するまでにはN響事件が起きてから実に32年という歳月が経過してからでした。芸術家という個性は本当に頑固なんだと改めて感じます。そして小澤を支えた仲間たちがいなければ世界のOZAWAを日本で見る事はなかったかもしれません。

まとめ

日本では知らぬ者がいない偉大な指揮者としてその名を轟かす事になった小澤征爾にも、若かりし頃にはこんな苦い経験を積んでいたのです。それと同時に、N響事件という経験があったからこそ、小澤征爾はその才能を開花させる事ができたのかもしれません。

関連記事