展覧会の絵【ラヴェルの魔術によって蘇った名曲を紹介】

『展覧会の絵』は人気の高い名曲です。ほとんどの方がオーケストラの演奏で聴かれたかと思いますが、この楽曲は元々ピアノ組曲でした。ムソルグスキーが友人だった画家の遺作展を見た印象を作曲したものです。

しかし、ムソルグスキーの生前にはその存在すら知られていない作品でした。作曲家のリムスキー=コルサコフが遺品を整理している時に偶然発見されたものです。

ラヴェルがオーケストラ用に編曲したところ、一躍評判となり、埋もれていた名曲が世の中に知られるようになったのです。天才ラヴェルの魔術師のようなオーケストレーションが名曲を蘇らせたのでした。

『展覧会の絵』が元々ピアノ曲だったとは知りませんでした。私はオーケストラでしか聴いたことがありません。
そうなんだ。ラヴェルの編曲で華々しさが増したためにこの曲は日の目を見るようになったのだよ。

ムソルグスキー概略

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)は1839年03月21日にロシアのプスコフで生まれました。

地主階級の家系に生まれた事から暮らしは豊かだったようです。6歳から母の手ほどきでピアノを習い始めました。武官になるために10歳でサンクトペテルブルクの学校に入学し、13歳で士官候補生になります。

武官として配属されたのちに、同じ部隊の軍医であった作曲家のボロディンと出会い、音楽に目覚めます。

彼は独学で音楽を習い、ボロディン、キュイ、バラキレフ、コルサコフと共に、国民楽派の「ロシア5人組」といわれるまでに成長しました。

軍人を辞めた後は公務員となりますが、作曲は並行して行っていました。音楽の道に専念しようと思いますが、それもままならず公務員として働きながら作曲していたのです。

しかし、酒に溺れた彼はアルコール中毒者となり、42歳という短い生涯を終えました。才能は認められていた作曲家でしたので早すぎる死は残念です。

『展覧会の絵』作曲の動機

『展覧会の絵』は「ヴィクトル・ハルトマンの思い出に」という副題があります。ハルトマンという友人の画家に捧げた作品でした。

ハルトマンは39歳の若さで亡くなり、ムソルグスキーがその遺作展を見に行った時に感じたインスピレーションを基に作曲されました。

1874年に僅か3週間という短時間で作曲されています。ムソルグスキー35歳の時です。

作曲の筆が遅い彼にとっては異常に早く書き上げました。友人への深い愛情と早すぎた死を嘆き、追悼の意味もあり作曲の筆が進んだのでしょう。

『展覧会の絵』の構成

10枚の絵を、1つずつ鑑賞していくというストーリーの元に作られています。プロムナードは絵の鑑賞者(すなわちムソルグスキー)の歩いている様子を表します。

絵画NO.
曲名(絵画名)
第1プロムナード
1
小人
第2プロムナード
2
古城
第3プロムナード
3
テュイルリーの庭(遊びの後の子供たちの口げんか)
4
ビドロ(牛車)
第4プロムナード
5
卵の殻をつけた雛の踊り
6
サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ
第5プロムナード
7
リモージュの市場
8
カタコンベ(ローマ時代の墓)
死せる言葉による死者への呼びかけ(プロムナードの変奏)
9
鶏の足の上に建つ小屋(バーバ・ヤガー)
10
キエフの大門

※後述するラヴェル編曲版には第5プロムナードはありません。ラヴェル自身が省略しました。

『展覧会の絵』作品解説

プロムナードと10曲について簡単に解説していきます。対応する10枚の絵は全てがこれだと特定されたわけではありません。おそらくこの絵画だろうという推定のものが多くあります。

プロムナード

プロムナードは全部で5ヶ所あります。それに加え「死せる言葉による死者への呼びかけ」もプロムナードの変奏です。

全てが同じかというと少しずつ曲想の違いがあります。次の絵画を案内しているかのようです。

1.小人

地底を守る「こびと」の土の妖精を描いた作品から作曲しました。曲がった脚で少々不恰好な妖精です。ロシアではごく普通の子供のおもちゃらしいです。これは原画が残っています。

2.古城

この絵画はこれではないかというものはありますが特定されていません。ラヴェルはサックスを使って、哀愁を帯びた旋律にしています。

3.テュイルリーの庭(遊びの後の子供たちの口げんか)

候補として2枚の絵画が挙げられていますが、この絵画も特定されていません。テュイルリーとはパリにある公園の名前です。軽やかなリズムで演奏されます。

4.ビドロ(牛車)

この絵画も特定されていません。ポーランドの「牛にひかれた荷馬車」の音楽です。牛車の重々しいさまを表現しています。

5.卵の殻をつけた雛の踊り

この絵画は特定されています。卵の殻を付けた子供たちがバレエで踊るさまを描いている作品です。音楽も軽快で楽しさいっぱいの様子が表現されています。

6.サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ

この絵画も特定されていません。豊かなユダヤ人(ゴールデンベルク)と貧しいユダヤ人(シュムイレ)を描いた2枚の絵画と考えられています。

木管群と弦楽器群が金持ちで傲慢なゴールデンベルクを、ミュートをつけたトランペット独奏が貧しく卑屈なシュムイレを表しています。

7.リモージュの市場

この絵画も特定されていません。リモージュとはフランスの南西部にある古い都市の名です。頻繁に繰り返されるスフォルツァンドが、市場の活気さを表しています。

8.カタコンベ(ローマ時代の墓)

カタコンベとはパリにあるローマ時代の地下の墓所の事です。この原画は特定されています。短い音楽ですが、墓地の中にいる不気味な雰囲気がうまく表現されたものです。

9.鶏の足の上に建つ小屋(バーバ・ヤガー)

バーバ・ヤガーとはロシアに伝わる、森に住む妖婆で魔女のようなもの。その魔女が住んでいるのが鶏の足の上に建った小屋だそうです。

これは原画が特定されています。魔女をモチーフとした置時計の絵画です。音楽は魔女という不思議な存在を表すような荒々しいものとなっています。

10.キエフの大門

原画は特定されています。キエフの大門というからもっと立派な絵かと思うと違和感を覚えます。組曲中最も規模が大きく、音楽内容も雄大なものです。

全体的に、重厚な和音によって響きが生み出され、最後は壮大な響きをもって組曲全体を締めくくられます。

ムソルグスキーは友人の画家の遺作展から10作を選んで曲を付けたのですね。
余程のインスピレーションを得たのだろうね。この作品はわずか3週間で作り上げられたのだよ。

ラヴェルが名曲を蘇らせた

『展覧会の絵』の編曲はラヴェルが最初ではありませんでした。楽譜を発見したリムスキー=コルサコフやオーケストラ版に編曲したトゥシュマロフなどの名前が挙げられます。

『展覧会の絵』の編曲

最初はこの作品を発見したリムスキー=コルサコフによって編曲されました。これは原曲のピアノ組曲に手を加えたもので、同じくピアノ組曲として発表されたものです。

初めて、オーケストラ版として編曲したのはリムスキー=コルサコフの弟子であった指揮者ミハイル・トゥシュマロフでした。師のリムスキー=コルサコフの指揮で初演されましたが、そう評価はされなかったようです。

ラヴェルへの依頼

指揮者のクーセヴィツスキーはムソルグスキーの原曲の魅力はトゥシュマロフの編曲では上手く伝わっていないという事を感じ、ラヴェルに編曲を依頼する事を思いつきます。

1922年、クーセヴィツキーはラヴェルに編曲の依頼を正式に申し入れ、ラヴェルもこれを承諾しました。ムソルグスキーの原曲が彼の興味を引いた事と管弦楽にオーケストレーションしやすく作曲されていたからだといわれています。

その当時、出版されていた『展覧会の絵』の楽譜はリムスキー=コルサコフによって改変されているものだったので、ラヴェルは原曲の楽譜を探しました。

しかし、その楽譜は手に入らず、リムスキー=コルサコフの編曲版を使ってオーケストレーションするしかなかったのです。

ラヴェルはオリジナルの楽譜を手に入れる事はできませんでしたが、さっそくオーケストレーションの編曲に取り掛かりました。

そして名曲に生まれ変わった

ラヴェルの魔術にかかった原曲は輝きを増し、まるで別の曲のように生まれ変わりました。

原曲のピアノ組曲は友人の遺作展の印象というネガティヴな一面を持っていましたが、ラヴェルはそんな感傷を一切この曲に与えず、復活させたのです。

1922年10月19日、編曲を依頼したクーセヴィツキーの指揮で初披露されました。これが大成功を収め、『展覧会の絵』という作品が世界に知れ渡るようになります。

知られざる名曲がやっと世に出た瞬間でした。ピアノ組曲も味わい深いですが、ラヴェル編曲版のオーケストラで聴いてしまうと印象がまるで異なります。オーケストラ版はまるでラヴェルの音楽が鳴り響いているようです。

ラヴェルによって『展覧会の絵』は世に出るような作品になりました。
ラヴェルの天才的なオーケストレーションによってメジャーになったのだ。

ラヴェル概略

ジョゼフ・モーリス・ラヴェル(Joseph Maurice Ravel)は1875年3月にフランス南西部、バスク地方のシブール生まれ。生まれた年に一家はパリへ移住します。

父は発明家兼実業家で、恵まれた家庭に育ちました。父は音楽好きでその事が彼の人生に大きな影響を与えます。パリ音楽院に入学し、14年間学びました。

1901年、『水の戯れ』で一躍世に認められてからは、『亡き王女のためのパヴァーヌ』、『マ・メール・ロワ』、『夜のガスパール』などの名作を次々と発表。フランス楽壇にラヴェルの名が轟きました。

第1次大戦を経て、アメリカへの演奏旅行を行い大成功します。帰国後は『ボレロ』や『ピアノ協奏曲』を作曲し、順風満帆な作曲家人生を歩んでいました。

しかし、その頃から記憶障害や言語症に悩まされ、失語症にまで発展し、1937年12月17日の62歳で亡くなりました。

音の魔術師ラヴェル

ラヴェルの編曲によって『展覧会の絵』は生まれ変わりました。ここからは、彼の編曲の素晴らしさを見ていきます。

ラヴェルの凄さ

原曲の『展覧会の絵』をこれまでに豪華絢爛な世界に導いたラヴェルの才能に敬意を表したいです。トランペット・ソロから始まるなんて、ラヴェル以外考えつかないでしょう。

この原曲を編曲したのはラヴェル以降にも10人を超えています。ラヴェルの編曲により、この作品が有名になったからです。

しかし、いまだに『展覧会の絵』のオーケストラ演奏はラヴェル編曲が使われているという事は、まぎれもなくこの編曲が最高のものだという事を意味しています。

原曲はロシア人の作品ですが、ラヴェルの手にかかると、フランスのエスプリ満載の管弦楽のようです。原曲を超えた世界観が広がってきます。ラヴェルは魔術師のようにこの原曲に魔法をかけたのでした。

オーケストレーションの天才

ラヴェルの異名「オーケストラの魔術師」の期待にたがわず、華麗で色彩的なものになっています。原曲のロシア的な要素よりもオーケストラ作品としての華やかな色彩を与える事を第1に考えて編曲しています。

ラヴェルの編曲は原曲の素朴さの残る『展覧会の絵』に新たな息吹を吹き込んだのです。そして、それがラヴェルの意図したように成功しています。

ラヴェルはサックス、イングリッシュホルン、シロフォン、グロッケンシュピール、チューブラベルなどの楽器を上手くはめこみ、独特の音色を使ったオーケストレーションを行いました。色彩的と言われるのもこのためです。

ムソルグスキーの『展覧会の絵』という無名のピアノ曲が、ラヴェルのオーケストレーションで世界に知られるようになりました。
ラヴェルの編曲は色彩感覚が素晴らしかったので、埋もれていた名曲が蘇ったのだ。ムソルグスキーも天国で喜んでいるだろう。

まとめ

ムソルグスキーの『展覧会の絵』が世に知られるようになるまでを書いてきました。ラヴェルという天才に編曲されたおかげでこの作品は有名になったのです。

原曲のピアノ組曲版も素朴で素敵な作品ですから、一度聴いてみてほしいと思います。そうすればラヴェルの編曲の見事さもわかるはずです。

ラヴェルによって名が知られるようになったムソルグスキーに、この編曲を事をどう思うか聞いてみたいと思うのは私だけでしょうか。

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