ベルリン・フィルが創立100周年を迎える年、カラヤンとベルリン・フィルの間で一人の女性クラリネット奏者の入団を巡ってトラブルが発生しました。このトラブルはその後誰も考えもしなかった展開を見せるようになっていきます。
この一連の騒動を『ザビーネ・マイヤー事件』と呼びます。カラヤンはあくまで彼女しか考えられないと譲らず、ベルリン・フィル側は彼女の入団は認められないと断固反対しました。
カラヤンとベルリン・フィルが争った『ザビーネ・マイヤー事件』についてできるだけ簡潔に説明していきたいと思います。
ザビーネ・マイヤー事件とは
出典 : https://acronymofficial.com
1981年から1982年にかけて、カラヤンとベルリン・フィルの間で女性のクラリネット奏者ザビーネ・マイヤーを入団させるか否かを巡って起きた事件です。
この事によりカラヤンとベルリン・フィルの間には大きな溝が生まれ、両者の和解が成立したのは1984年になります。しかし、これで済んだわけではなかったのです。
経過
1981年1月に、ベルリン・フィルは主席クラリネット奏者の席が空席になったため、クラリネットのオーディションを開きました。
ここでザビーネ・マイヤーの演奏を聴いたカラヤンは「彼女以外にいない」と彼女の入団を強引に進めようとしましたが、これにベルリン・フィル側が難色を示したのです。
それでも何とかザビーネ・マイヤーは、仮採用ではなく、楽員代行のような形で一先ずベルリン・フィルに在籍します。
翌年の1982年11月にザビーネ・マイヤーを仮採用するか否かの楽員投票がなされ、ここでベルリン・フィル側は「彼女の音はベルリン・フィルには合わない」との理由で仮採用を認めない決定を下しました。
この決定にカラヤンは大反発します。そして、今後ベルリン・フィルとは契約上の最低限のコンサートしか行わず、その他の活動を一切中止するとの旨を宣言しました。
両者は一歩も譲らず、ついには政治問題にまで発展してしまいます。この状況に当事者のザビーネ・マイヤーはいたたまれず、自分から身を引く形を取りました。
それでも、両者の間の溝は埋まる事がなく、和解が成立したのはそれから2年後の1984年となったのです。
しかし、その後も両者の間にはしこりが残り、カラヤンはベルリン・フィルの終身監督を辞任するところまで行き着いてしまいました。
ベルリン・フィルの採用ルール
- 1:パートで仮採用試験
- 2:合格した者は仮入団
- 3:仮入団後1年間の試用期間
- 4:試用期間後オーケストラ全員での投票
- 5:投票結果で採用か不採用かの判定
(注)試用期間は現在では2年間となっています。しかし、これは原則であり、全く問題なしならば期間が短くなりますし、駄目と判断されれば直ぐに首になります。
指揮者として既にその確固たる地位を獲得していたカラヤンは、この手順を踏まずにザビーネ・マイヤーを強引に入団させようとしました。
それまでもカラヤンがこの人物と指名すれば採用ルールはあってもオーケストラ側はそれに従っていたのです。
カラヤンからすれば芸術監督の自分が決めた事をオーケストラ側が否決するとは思ってもいなかったのでしょう。
ベルリン・フィル側は楽団員の採用の権限はあくまでもオーケストラ側にある事を主張しました。
初めてベルリン・フィルがカラヤンへの反旗を翻した訳です。
事件の背景にあるもの
ベルリン・フィル側に「もうカラヤンの意のままにはならない」という意識が生まれた事が大きく関係していると思います。
裏を返せば、帝王カラヤンの権威・権力が弱まった事を物語るものです。カラヤンとベルリン・フィルの力関係が大きく変化するきっかけを作った事件でした。
時代は指揮者の独裁的支配から民主的な方向へと変化している事にカラヤンは気付くのが遅れたのではないでしょうか。
ベルリン・フィルとの絶縁宣言後にカラヤンがウィーン・フィルに擦り寄った事もベルリン・フィル側の怒りを増幅させた要因になっています。
当時、首席奏者だったカール・ライスターの意向も大きかったとも言われていますが、その辺の詳しい事はなかなか表には出てきません。
もう一点、ザビーネ・マイヤーが女性だった事も大事な要素です。もし、男性奏者だったらここまでこじれなかった可能性が高いと思います。
ベルリン・フィルは女性を入団させたくなかったというのが根底にはあったのかもしれません。しかし、この事件を契機にベルリン・フィルも女性を受け入れるオーケストラに変化していきます。
ザビーネ・マイヤー事件以降
ベルリン・フィルに入団できなかった彼女はその後ソリストになりました。実力はもちろんですが、この事件によって名前が売れたこともあり、事件後は世界の主要なオーケストラからたくさん招かれ、現在も大活躍しています。
『ザビーネ・マイヤー事件』の翌年には、彼女の兄と夫の三人で「トリオ・ディ・クラローネ」を結成し、モーツァルトから現代曲まで幅広く演奏会をこなしています。録音活動にも力を入れていて、著名な指揮者と組んで協奏曲やクラリネットのソロの曲に精力的に取り組んでいます。
この事件の翌年にはベルリン・フィルが第一ヴァイオリンに、女性であるマデレーヌ・カルッツォを正式に団員として迎え入れるニュースも飛び込んできました。三者の人生を間違いなく狂わせた『ザビーネ・マイヤー事件』どうにか穏便に済ませる事は叶わなかったのでしょうか。
まとめ
伝統的で美しく、様々な才能ある音楽家によって紡がれてきたクラシック音楽界の歴史。しかしこのような事件も実はちょこちょこ起こっているのですね。芸術家同士がぶつかってしまうと本当に収集がつかなくなるんだなという事がよく分かります。
帝王カラヤンは既にこの世を去ってしまいました。死ぬまでベルリン・フィルとの確執がなくなる事はなく、カラヤンファンであり、ベルリン・フィルを世界一のオーケストラと考える私には、この事件が起きてしまった事が非常に残念でなりません。