
サイトウ・キネン・オーケストラは日本が世界に誇るオーケストラです。2008年『グラモフォン』誌による”The world’s greatest orchestras”で日本から唯一選出され、19位となるなど評価も高いものがあります。
サイトウ・キネン・オーケストラが産声を上げたのは1984年でした。齋藤秀雄没後10周年を記念して、小澤征爾らが世界に散らばっている彼の弟子たちに声をかけ、メモリアルコンサートを開催したのがきっかけでした。
年1度だけの七夕オーケストラは今でも変わりませんが、長野県松本市を本拠地として夏の音楽祭を開催するように発展しています。サイトウ・キネン・オーケストラの誕生から、今後の行方までこのオーケストラについて纏めてみます。


サイトウ・キネン・オーケストラの歴史
サイトウ・キネン・オーケストラは齋藤秀雄の門下生の師への熱い思いから出来上がったオーケストラです。その誕生から世界的オーケストラになるまでの過程を見ていきます。
オーケストラの産声
サイトウ・キネン・オーケストラの誕生のきっかけは1984年まで遡ります。この年は、齋藤秀雄の没後10年目の年でした。齋藤秀雄は小澤征爾を筆頭に、日本の多くの音楽家を育てた、日本のクラシック音楽の歴史に名を刻む優秀な教育者でした。
齋藤秀雄の功績を称え、没後10年の記念に小澤征爾と秋山和慶が齋藤門下生たちに声を掛け、齋藤秀雄を偲ぶためのコンサートを企画した事から始まります。
その呼びかけに国内を始め、世界各国からソリスト、大学教授、各地のオーケストラの団員たちが集結しました。オーケストラの名称は「桐朋学園齋藤秀雄メモリアルオーケストラ」と名付けられます。これが後のサイトウ・キネン・オーケストラの母体となりました。
寄せ集めのオーケストラでしたが、音楽の根っこは同じ齋藤門下生ですので、数回の練習で信じられない位ひとつになり、聴衆を感動させる演奏となったのです。小澤征爾の指揮者としての力量も大きく寄与した事は間違いありません。
オーケストラの発展
1984年に演奏した仲間たちから1回だけで終わらせずにまたやろうという声が高まり、このオーケストラは継続していく事になります。年1回だけ集まる、いわば七夕オーケストラとして活動を開始するのです。
1987年、オーケストラの名称を「サイトウ・キネン・オーケストラ」と正式に決定し、ウィーン、ベルリン、ロンドン、パリ、フランクフルトを巡る第1回目のヨーロッパ遠征を行ない、そのアンサンブルの見事さから「奇跡のオーケストラ」と呼ばれるようになります。
「サイトウ・キネン」という名称は外国人には理解できないだろうという事で、音楽評論家の吉田秀和が名付けた「フィルハーモニック・ソロイスツ・オブ・ジャパン」をオーケストラのサブ・ネームとしてクレジットしていました。
1989年、第2回目のヨーロッパ公演。ウィーン、ベルリンなど4都市でコンサートを披露。この回から直接に齋藤秀雄から教えを受けていない桐朋学園出身の若手も参加するようになります。齋藤秀雄の孫弟子たちです。
1990年にはザルツブルク音楽祭に招待され、また、ロンドン、ベルリンなど5都市でのコンサートを行いました。
1991年もロンドン、アムステルダムなど世界4都市公演。特にニューヨークのカーネギーホール101周年目のオープニング・ガラ・コンサートでの演奏は大絶賛されました。
これらの演奏旅行により、毎年1度だけ集まる特別なオーケストラ、サイトウ・キネン・オーケストラは欧米での評価を高めていきます。オーケストラのサブ・ネームもいつの間にかいらなくなりました。
オーケストラの実力
最初から世界へ乗り出したサイトウ・キネン・オーケストラは、年に1度だけ集まり演奏する、独特の形態のオーケストラにも拘わらず、訪れた各都市で絶賛されています。
元々、世界各地から集まった腕の立つ演奏家たちですから、上手く纏まりが付けば上質の音楽になるのは当たり前です。齋藤秀雄という恩師の教えを伝えようとする熱い思いが演奏者ひとりひとりにあるために、その結束力は強まり、見事なアンサンブルとなって表れています。
指揮者、小澤征爾による緻密なリハーサルを繰り返し繰り返し行う内に、オーケストラが一体となり、輝きを増してくるのです。「奇跡のオーケストラ」と呼ばれる秘密はこの辺にあるのでしょう。
桐朋学園は齋藤秀雄の功績により「弦の桐朋」と言われる音楽大学です。その桐朋学園出身の一流どころの弦楽器奏者が集まっているのですから、弦楽器はこのオーケストラ独特の「唸り」を持っています。
ある金管楽器奏者は、弦楽器の響きによりホールの床が振動するほど凄いものがあると、驚きを隠せない様子で語っていました。
2008年『グラモフォン』誌による”The world’s greatest orchestras”で19位に選出されたのも、当然の事だと思います。


「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」開始
欧米での演奏旅行を毎回成功させていたメンバーたちは、世界を巡るだけではなく、日本を本拠地として世界へ音楽を発信していく道を考え始めます。それは、齋藤秀雄の夢であった、日本人による世界最高の音楽を作り上げたいという気持ちと重なっていました。
齋藤秀雄の生誕90年の1992年に、サイトウ・キネン・オーケストラの本拠地を長野県松本市と定め、毎年夏の終わりに音楽祭を開催する事となります。その名称は「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」とし、毎年オペラを1曲上演する事も注目を集めました。
常設オーケストラではない以上、毎年時期を決めて音楽祭を開催するようになるのは当然の帰結だったのでしょう。旅回りのオーケストラから、拠点を持つオーケストラに生まれ変わったのです。
「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」の第1回目はソプラノのジェシー・ノーマンを迎え、ストラヴィンスキー『エディプス王』を上演しました。以来、現在まで毎年オペラ公演は続けられています。
毎年のように、世界的な音楽家も来日し、オペラの他、オーケストラ・コンサート、音楽塾などが開かれる、多彩な音楽祭となりました。松本市民以外にも日本各地、海外からの聴衆も多く、活気のある音楽祭として人気があります。
松本を本拠地としてからも、頻度は減りましたが、海外遠征は続けており、ヨーロッパの聴衆にサイトウ・キネン・オーケストラの素晴らしさを披露する事を忘れてはいません。
齋藤秀雄が目指した、日本人による最高の西洋音楽を演奏するという夢を、サイトウ・キネン・オーケストラは現実のものとしているのです。


「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に名称変更
2015年から「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」として新たに生まれ変わり、次のステップへ進みました。
音楽祭の名称の問題は2011年から様々な意見が出されていたのです。「サイトウ・キネン」という名称は日本人には理解できるが、外国人にはなかなか理解してもらえないという声が多くあり、そのための意見公募も行われました。
小澤征爾自身も、「サイトウ・キネン」より分かり易い、齋藤秀雄をもっと理解してもらえるような名称に変更したいと考えていたようです。
1度は名称変更はしない事で決着しましたが、芸術祭の運営委員会は2015年から名称変更する方針に転換、現在に至ります。
その間の過程に何があったのかは知る術がありません。小澤の名を冠した方が集客力が見込めるなど、音楽とは全く別の所で決定されたのではないかと推測するのはうがった見方でしょうか。
ともあれ、音楽祭の名称は「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」、オーケストラ名は「サイトウ・キネン・オーケストラ」のままという決着となりました。
音楽祭の名称が変わっても、音楽を追求していくという本質に変化はありません。音楽祭は規模も大きくなり、現在まで多くの人々に音楽の楽しみを伝えています。
サイトウ・キネン・オーケストラの将来への不安点
今まで最高のパフォーマンスを披露してきたサイトウ・キネン・オーケストラでしたが、このオーケストラの将来を考えると、様々な問題点があります。その問題点を考えてみましょう。
指揮者の危機
サイトウ・キネン・オーケストラは小澤征爾という世界的な指揮者の存在があってこそ成り立っています。夏の音楽祭「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」にしても同様です。
小澤征爾が2006年頃から体調を崩し始め、2007年にはウィーン国立歌劇場音楽監督を辞任します。その後も彼には様々な困難が押し寄せ、2010年は食道がんの大手術を行いました。この時は小澤自身、死の覚悟もしたと話しています。
2010年の音楽祭はキャンセルし、指揮の代役を立てました。2011年、見事に復活を果たし、「奇蹟のニューヨーク・ライヴ」と呼ばれる演奏を残しますが、やはり体調面の不調さは小澤を苦しめます。
2012年は丸1年の指揮活動中止に追い込まれ、静養にあてました。歳を重ねるにつれ、休養、復活、キャンセルを繰り返すようになってきています。近年は体力も落ちてきて、指揮をするために腕を動かす事さえ、大変な作業となっているようです。
サイトウ・キネン・オーケストラは小澤征爾が指揮をしてこそのオーケストラなのです。名前通り、齋藤秀雄の教えを受けた者たちが、彼の願っていた、最高の西洋音楽を日本人の手で発信する、その要になっていたのが小澤征爾でした。
小澤征爾も今年(2020年現在)85歳となりました。彼が指揮出来なくなったらどうするのかを、しっかり考える時が来ているのだと思います。
演奏家の危機
小澤征爾が歳を取ったのですから、当然演奏家たちも、高齢になってきました。残念ながら、長らくコンサート・マスターを務めた、潮田益子は亡くなりましたし、齋藤秀雄に直接教えを受けた演奏家がひとりふたりと現役を引退しています。
現在のサイトウ・キネン・オーケストラのメンバーを見ていると、大分若返っている印象があります。という事は、齋藤秀雄の孫弟子や、齋藤秀雄とは直接関係がない演奏家が増えている事を意味しています。
サイトウ・キネン・オーケストラが生まれた理念をしっかりと理解している人たちによる演奏という価値観が変わりつつあるのではないかと思うのです。
音楽を追求していく姿勢は変わらないと思いますが、齋藤秀雄という極めて稀な教育者の理念がどこまで継承されていくのかは分かりません。
サイトウ・キネン・オーケストラを今後どう発展させていくのか、それとも、一旦解散して、音楽祭のための新しいオーケストラを発足させるのか、こちらも真剣に考える時期だと思います。
演奏レベルの維持
サイトウ・キネン・オーケストラは基本的に年に1度の七夕オーケストラです。毎年、集まるメンバーも変わります。練習風景の映像を見ていると、小澤征爾が実に丁寧な、細部にまで拘った指示を出しているのは、毎年一から作り上げなければならないからなのです。
上手な人たちを集めただけでは良い演奏ができるわけではなく、緻密な練習の成果として、聴衆に質の高い音楽が提供できるのです。小澤征爾のこのオーケストラに対しての指示は他のオーケストラを指揮する以上に数多いものになっています。
オーケストラの一体感が生まれなければ、オーケストラの味が出てきません。それを良く知っているから、小澤征爾は毎年、学生オーケストラを教えているように、練習を付けているのです。その結果として素晴らしいアンサンブルが生み出されます。
前置きが長くなりました。上記のふたつの問題とも繋がるものですが、小澤征爾が指揮できなくなり、齋藤秀雄に直接学んだ者がいなくなる事によって、このオーケストラの演奏レベルはどうなってしまうのか不安です。
「齋藤先生はこう教えてくれたよね、だから俺たちも同じようにやろう」といって伝わっていたものが伝わらなくなる事を意味します。このオーケストラの場合、メンバーが変わる事は他の常設オーケストラとは意味合いが異なります。


まとめ
小澤征爾の体調が心配な現在、サイトウ・キネン・オーケストラにも大きな影を落としています。小澤あってのオーケストラ、音楽祭ですから、彼が指揮できなくなった後の事を真剣に考える時期が来ています。
齋藤秀雄が目指した、日本人による高いレベルの西洋音楽の演奏は、サイトウ・キネン・オーケストラによって実現されました。
しかし、サイトウ・キネン・オーケストラの将来は明るくありません。演奏家の世代交代のためです。このオーケストラの存在意義にも係わる大問題を背負っています。
小澤征爾の体調と共に、今後のサイトウ・キネン・オーケストラの動向に注目していきたいと思います。