
シューベルトといえば『アヴェ・マリア』や『魔王』など歌曲の作品が多いため「歌曲王」というイメージがありますが、『未完成』を始めとする交響曲、またピアノソナタなどにも傑作を残す作曲家です。
彼は31歳という短い生涯でしたが、その間に作曲した作品数は約1000曲に及びその内の600曲が歌曲でした。その事から「歌曲王」といわれるようになったわけです。
存命中はシューベルトという作曲家は無名でした。没後にシューマン、メンデルスゾーンによってようやく世に知られるようになります。今回はそんなシューベルトに光を当てたいと思います。


目次
第1章:誕生から幼少期
シューベルトの誕生から幼少期を見て行きたいと思います。どのような幼少期を送ったのかは興味があります。
誕生
フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)は1797年1月31日にウィーン郊外のリヒテンタールで、教師をしていた父フランツ・テオドール、母エリーザベト・フィッツの第12子として生まれました。
夫妻は合計14人の子を授かりましたが、9人は早世してしまい、成人したのはシューベルトを含め5人だけでした。貧しい家庭だったようで、その事も関係したのかもしれません。
音楽的才能の芽生え
6歳の時リヒテンタールの学校に入学。シューベルトはこの頃にヴァイオリンとピアノの手ほどきを受けます。すると家族には手に余るほどの才能を見せ始めたのでした。
このため父はリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにします。この事が後のシューベルトにとっての基礎になるのでした。
この聖歌隊に入ったおかげでシューベルトは、良い状態のピアノでの練習を自由にできるようになったのです。
第2章:コンヴィクト時代
シューベルトは上級学校への奨学金を貰うことができ、全寮制の学校に入学します。このことがより彼の才能を伸ばす下地になります。
コンヴィクトでの生活
1808年10月、シューベルトはコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得ます。その学校は、ウィーン楽友協会音楽院の前身校であり、神学校と名乗ってはいましたが、実質的には音楽学校だったようです。
シューベルトはおよそ17歳まで所属し、生涯に渡って付き合う良き友人に巡り合えました。これらの関係が後のシューベルティアーデに繋がっていくのです。
シューベルトは貧しかったので五線譜すら買えませんでしたが、友人たちはそんな彼に援助を惜しみませんでした。人間として誰からも好かれる人物であった事が窺えるエピソードです。
作曲開始
コンヴィクトでは学生オーケストラでヴァイオリンを担当していました。また過去の作曲家達の音楽を学び、自身も作曲を始めるようになります。
シューベルトはその才能を認められ、何と楽長のサリエリ(アマデウスで有名になったあのサリエリ)にも個人レッスンを受ける事ができ、対位法やイタリア歌曲の作曲方法など教わります。
作曲家としての記念すべき1曲目は1810年に作曲した『4手ピアノのためのファンタジア』でした。彼はコンヴィクトを去るまでに合計80曲もの作品を作曲していたのです。
第3章:教師時代
1813年の終りにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職しました。
望まぬ就職
1813年にシューベルトは教師となります。父の勧めもありましたが、最大の理由は兵役を逃れるためでした。音楽家になりたかったシューベルトでしたが、貧困階級であった彼にとって選択の余地はなかったのです。
教師としての彼はお世辞にも熱心とはいえず、考えることは音楽の事だけだったようです。教師になってからもサリエリには音楽を教わり、時間ができると己の創作活動に費やしていました。
1815年には歌曲だけで何と146曲も作曲しています。歌曲以外にも交響曲、ミサ曲、弦楽四重奏曲など様々な分野の音楽も作曲していますから、物凄いペースで作曲していた勘定になります。
作曲家として専念
1816年、教師に嫌気がさしていた頃、シューベルトにとって朗報がもたらされます。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家に出入りしていたフランツ・フォン・ショーバーから作曲家に専念したらどうかという誘いでした。
ショーパー家はとても裕福で、彼はシューベルトの音楽を愛していたのでした。そこで、苦労していたシューベルトを見かねて、助け舟を出したわけです。
シューベルトにとっては渡りに船の美味しい話でしたので、その誘いに飛びつきました。シューベルトはショーパー家の客人扱いとして教師生活から抜け出せたのです。
当時のシューベルトは作品数だけは多かったわけですが、音楽的収入は全くありませんでした。作曲した楽譜を出版社に持っていっても全く相手にして貰えない状況が続いていたのです。
全てを友人達の援助に頼っての決断だったわけで、シューベルトは本当に音楽家として自立できると考えていたのかどうかわかりません。考えてみればまだ19歳だったわけで、将来がどうなるかより目の前の状況を変えたかったのでしょう。


第4章:シュベルティアーデ
シューベルトには応援する友人が大勢いました。それは彼の人柄にあった事が最大の要因です。明るく陽気な性格は誰からも愛されました。そして、彼の音楽的才能を友人達は信じていたのです。
そんな彼らのシューベルトを囲んでの音楽会を「シューベルティアーデ」と呼び、頻繁に開催されていました。シューベルトはこの音楽会のために多くの作品を作曲し、友人達はその音楽に酔いしれたのです。
ワインを飲みながらシューベルトの歌曲や小品を聴き、楽しい音楽会だったようです。「シューベルティアーデ」には当時の有名な歌手やピアニスト、詩人などが集まっていました。
「シューベルティアーデ」は1816年頃から行われていたようです。彼の病気によって中断の時期もありましたが、十数年続いたことが知られています。
第5章:深みを増してくる作品群
「ひとつの作品が仕上がるとすぐにまた次の作品を書きたくなる」と言っていたシューベルトですが、仕事が出来なくなる出来事が彼を襲います。
自身の病気
1822年の終わり頃、シューベルトは病気になりかなり悪い状態になってしまいます。梅毒を患ったのです。シューベルトは自由人であったため、いかがわしい場所へも度々通っていて、そこで移されたのでした。
この病気の影響は1824年まで続き、作曲どころの話ではありませんでした。この時代、梅毒は不治の病でしたから、この病気がゆくゆく彼を苦しめる事になるのです。
怪我の功名
一時的に死の一歩手前まで行ったことがシューベルトの思いを変えたのかどうかは分かりませんが、この時期から彼の作品は深みを増していきます。見える風景が変わったのでしょうか?
歌曲集『美しい水車小屋の娘』も1823年に完成していますし、ピアノ曲『楽興の時』も1823年から作曲が開始されています。とにかく彼の創作意欲は深刻な状態であった時以外は相変わらず凄かったのです。
酷い時は髪の毛が全て抜け、鬘をかぶらないと外に出られなくなったこともありました。そのことで気弱になり、気楽に生きてきたシューベルトでも何か考えるものがあったのだと思います。
何があったのかは知る由もありませんが、彼の中で何かが変わったのでしょう。生き方への考えとか難しいことではなく、ちょっとした事なんだと思います。
第6章:晩年
晩年の話に移りましょう。と言っても彼はまだまだ若くこれから前途洋々の世界が開けているはずだったのに・・・
敬愛するベートーヴェンに会う
1827年シューベルトは尊敬してやまないベートーヴェンを見舞う事が出来ました。ベートーヴェンもシューベルトの才能を見抜いていたようです。
二人とももう少し長生きしていたら、音楽史もまた違っていたような気がします。ベートーヴェンが亡くなり、葬儀にも松明をもって参加しました。
普通の人が当時の大有名人ベートーヴェンに会えるはずもなく、おそらくシューベルト自身も言われているほど知名度が低かった訳ではないと思います。
それなりの文化人であったからこそベートーヴェンも、間に人を介してはいても、会ってくれたのだと思います。
偉大なるベートーヴェンと話せたことは神のおかげだったのでしょうね。好き勝手な事をやってきた若者の命と引き換えに、神の最後のご褒美だったのだと思います。
最後まで心を打つ音楽
1827年には歌曲『冬の旅』が完成。悲しい曲です。才能のある人間でないと書けない歌曲だと思います。
2つの『4つの即興曲』作曲。この2曲も美しい曲です。しかしここでまた彼は病魔に侵されます。
翌年にはようやく『交響曲第8番』(グレートと呼ぶ曲です)完成。そして生涯初めての公開演奏会を開きます。この公演は成功裡に終わりました。ようやく彼が大きく羽ばたくチャンスを得られたのに運命は残酷でした。
若き才能の終焉
1828年11月になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去しました。31歳、まだまだこれからという年齢です。「これが、僕の最期だ」が最後の言葉とされています。
梅毒が死因というのは間違いないのですが、直接の死因はその治療に使われた水銀の中毒という見方が定説となっているようです。
シューベルトは死後ベートーヴェンの隣に葬ってほしいと言っていました。そのため兄のフェルディナントが関係者と様々な交渉を行ない、その願いが実現されます。
シューベルトは、兄の尽力のおかげで、ヴェーリング墓地のベートーヴェンの墓の隣に埋葬されたのでした。
現在では二人の遺骸はウィーン市の方針によりウィーン中央墓地に移されています。勿論そこでもベートーヴェンの墓の隣です。
第7章:シューベルトの評価
シューベルトの再評価は、没後10年経ってからの偶然の出来事から始まります。
未発表楽譜の発見
1838年2月、作曲家のシューマンがウィーンを訪れた際に、シューベルトの兄のフェルディナント邸を訪問した事が発端になります。
シューベルトの仕事部屋は10年経ってもそのままにしてありました。シューマンはその部屋の机の上にあった『交響曲第8番』「グレート」の楽譜を発見します。
シューマンはその楽譜の真価を直ぐに見定め、ライプチヒの自宅に持ち帰りました。そしてすぐさまメンデルスゾーンへ発表してほしいと持ち掛けます。
メンデルスゾーンはこの申し入れを承諾し、1838年3月21日、メンデルスゾーン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって『交響曲第8番』が演奏され好評を博しました。
再評価の始まり
メンデルスゾーンが『交響曲第8番』を演奏した事により、シューベルトは歌曲と小曲だけの音楽家ではない事がわかり、それから彼の作品の研究が始まりました。
シューベルト研究者が残された楽譜を調査し、続々と未発表の楽譜が発見されます。その事によってシューベルトは音楽史に名を遺す素晴らしい作曲家であることが判明するのです。
シューベルトは没後10年以上経ってから、人気作曲家として表舞台に登場します。彼の夢はようやくここで叶えられたのです。


おまけ
ピアニストで随筆家の青柳いずみこ氏の著作『モノ書きピアニストはお尻が痛い』(文藝春秋)からの出展。なんかわかるような気がして面白いので一部を引用します。
女の子は、洗濯して糊をきかせた白いブラウスにスカート姿で、セミ・ロングの髪はうしろでひとつにまとめて紺のリボンで結ぶ。
よく勉強するがガリ勉タイプではなく、かといってピアノ科に多いわがままなお嬢さん族でもない。
これが男の子になると、少し女性的なイメージがあり、色白でぽっちゃりしたベビー・フェイス型、性格はやさしくて、よくいえばフェミニスト、悪くいえば、人畜無害……。
まとめ
わずか31歳で駆け抜けた一生でした。『未完成交響曲』や歌曲において素晴らしい曲を多く残しています。ですが私はこの記事の中であえて天才という言葉を使いませんでした。
モーツァルト、ベートーヴェン、マーラーといった作曲家とは明らかに違っている為です。少年の頃から神童振りを発揮してきましたが、彼らとは一線を引かざるを得ない物があると感じています。
この感じをどう表現していいか良く分かりません。シューベルトが越せなかった壁、出版社が楽譜出版をためらった理由とか分かるような思いがあります。天才と呼ぶには何か足りない物があるのです。
200年経った今でもシューベルトは様々な形で我々と拘わっていますが、私が今ひとつ彼に魅力を感じないのは独自の斬新さを感じられないところが1番大きな理由なのかもしれません。