シューベルト「未完成」の真相

シューベルトの『未完成交響曲』。なぜ未完のまま後の楽章を書かなかったのでしょうか。当事者が何の情報ももたらさないまま天国へ旅立ってしまいましたので、我々には永遠に謎が残るだけです。

『未完成』は現在でも演奏回数が多い人気のある交響曲です。多くの人から愛される作品ですが果たしてシューベルトはこの作品を世に出すつもりがあったのでしょうか。

シューベルトがなぜこの交響曲を未完のままにしたのか、そして本当にこの交響曲が名曲なのかを見ていきたいと思います。

なぜ未完成のままだったのか

今まで幾人もの音楽学者が謎解きをしてきましたが、私が納得している説はこの説です。一番説得力があるように思えます。

続きが書けなかった

誰もが思っているなぜ第1、2楽章だけなのという質問は残念ながら誰にも答えられません。しかし、ヒントのような物は残っています。第3楽章のスケッチが残っているという事は、シューベルトがこの曲はまだ続きがあることを知らせてくれています。

第3楽章はピアノスケッチが114小節残っており、その20小節目までが総譜にされています。シューベルトは続きを考えていたのです。ではどうしてその先を書かなかったかは第3楽章のスケッチでおおよその察しは着くと思いわれます。

第3楽章も3拍子の曲でした。第1、2楽章と同じです。これと同じで第3楽章まで演奏されていたら、変化の乏しい駄作になるからシューベルトは1度、この作曲から手を引いたのではないでしょうか。

その当時、シューベルトは梅毒で体調を崩していました。病名がわかるのはもう少し先ですが、創作活動に影響を与えていたのは事実でした。そしてそのまま続きを考えているうちに、亡くなってしまったという説が私には一番納得できます。

夭折によりプランが頓挫

31歳という若さで亡くなってしまったのですから、先のプランとして考えていた物全てが出来なくなってしまった。これが真相だと私は考えています。

1822年に作曲が開始されたわけですが、病気の関係も出てきますから、こういった気の滅入るような曲は尚更続けて書けなかったのではなかったのでしょうか。救いようの無いような暗い音楽ですから。

有力な異説も

この交響曲の作曲が中断されたのは、3楽章の作曲の途中に、実入りのよい仕事(「さすらい人」幻想曲の作曲)が入ったためであるという説もあります。

エマヌエール・カール・エードラー・フォン・リーベンベルク・ド・ジッティンという人物が、シューベルトに作曲報酬を払った上に、出版の世話までしたらしいのです。

何れにしろ私はこの交響曲を完成させるつもりでいたと思っています。真相を確かめる術がない以上、憶測の範囲ですが・・・。

なぜ未完成のまま演奏会で紹介されたのか

この曲が発見されたのはシューベルトの死後ですが、なぜ未完成のままコンサートのプログラムに載せられたのでしょう。

楽譜の発見

シューベルトはグラーツ楽友協会から「名誉ディプロマ」を授与されました。わずか25歳でのこの授与に対し、シューベルトは返礼として交響曲を作曲することにしました。

しかし、シューベルトが送付したのは出来上がっていた第1楽章と第2楽章だけでした。作曲はしていますという中間報告的な事だと私は理解しています。

同協会の役員だったアンゼルム・ヒュッテンブレンナーは後で残りの楽章が届くものと思い、彼の手元に留められていました。そのうちこの自筆譜の存在は忘れ去られてしまい、43年間世に知られずにいました。

実はこの話それすら定かではないのです。1年近くも前の未完の問題作は返礼にふさわしいとはいえないし、もっと懇意にしていた音楽協会には作品の献呈が行われていないからです。

ともかく総譜はそのまま43年間、陽の目をみることなく保管され続け、シューベルトも、知られているかぎり、その後は一度としてそれに言及することがなかったようです。この点も、今もって解かれてはいない謎なのです。

完成された音楽に匹敵

しかしその当時はシューベルトは偉大なる作曲者の仲間入りをしていました。死後に人気が出たのです。「大家」として扱われていたシューベルトの作品が43年ぶりに発見されたという事で、未完ながらも同年12月に初演することになったようです。

この事により『未完成』が素晴らしい音楽であり、このままでも十分美しい音楽だからという事で、完成されていない交響曲でも演奏される機会が増えていきました。

『未完成交響曲』の魅力と考えられている事

『未完成』はそのあだ名通り、未完成の曲です。とにかく根暗な音楽です。シューベルティアーデで陽気に騒いでいた時に作られた曲でない事は誰でも理解できる事です。

芸術的な香り

『未完成』といわれるとなぜか気になる言葉でもあります。「ゲージュツ」的なイメージが湧いてきます。そういった音楽とはまるで関係ないこともこの交響曲にはプラスに働いているようです。

音楽に限らず、彫刻だったり、絵画だったり、未完成といわれるとどうして?と人は感じてしまう物です。そういった言葉からも興味をわかせる作品です。

何といってもその美しさ

音楽面から言うと、美しい曲ですから当然人々はそれに魅了されます。その美しさも、とある美しい令嬢が憂いにふけっている感じの、解決の糸口が見えないような不幸さを伴った美しさです。

仕事が休みの日にちょっと聴いて見るかとは思わせない重々しさが横たわっています。それがこの曲の魅力でもあり、欠点でもあります。

第1楽章

楽章毎にこの音楽をみていきましょう。最初の楽章から深い悩みを負っているような音楽です。

地下の世界のように

低音弦楽器のメロディをオーストリアの指揮者ワインガルトナーは「地下の世界のように」と表現しました。この音楽を的確に表現している言葉です。

不安な心を表すかのような低弦の序奏の動機で始まり、ヴァイオリンによるさざ波のような律動に乗ったオーボエとクラリネットの憂いに満ちた主要主題に発展します。はかなげだけれども伸びやかに美しく歌われる印象的なメロディです。

第2主題は、ト長調でチェロが朗々と奏でます。これぞシューベルトという感じのロマンティックに流れる曲です。

出口のない暗さ

当時珍しいロ短調でかかれたこの曲は、運命に抗しきれない人間の悲劇を描いているように感じます。どこまでも渡って暗いイメージしかない音楽です。この頃のシューベルトは人生の諦観とかを持っていたのでしょうか。救いようのない暗い音楽です。

第2楽章

この楽章もゆったりとした美しい音楽となっています。ただ、この第2楽章も第1楽章と同じような暗い曲想です。

美しいメロディ

ホルン、ファゴットの和音に、コントラバスの効果的なピチカートの上に、美しい純美な第1主題がヴァイオリンに現れます。

続いて歌うような第2主題が、弦楽器の繊細な音の動きの上にクラリネット、オーボエと受け継がれ、それまで、出てきたモチーフが反復され、溢れんばかりの美しい和音、転調が巧みな楽器の組み合わせで展開されていきます。

そして楽章の最後のコーダは余韻を残しながら、美しい響きで、この交響曲の幕は静かに消え入るように閉じられます。

闇の中の美学

私にはこの楽章もまず陰鬱で不気味な感じしかしません。どんなに美しい旋律でさえ、この闇の中からは出られないのだといっているような音楽であって、魔法の森を永遠彷徨っている感じの曲です。恐怖が先立つ美の世界です。

こんな感じの曲が2楽章も続くのですから、シューベルトは続きをすぐに書けなかったのだと思います。

第3楽章

今では演奏されません。20小節目までが総譜にされ、残りはピアノスケッチ(主部114小節)のみが残っているだけですから。

続きをどう書きたかったのか

この楽章も前の2楽章に続いて3拍子の音楽です。第1楽章はAllegro moderato(穏やかに早く)、第2楽章がAndante con moto(歩くような速さで、しかし躍動感を出して)、そしてこの楽章がAllegro(早く)になっています。

第3楽章は速いテンポで書きたかったようです。ですがなぜかこれ以上を書き上げませんでした。このまま続ければおそらく『グレート』のような長大な交響曲になっていたと思われます。

改めて問う!『未完成』は名曲なのか

この曲を振り返ってきて思うことは、果たしてこの曲が名曲なのかどうか、未完のまま本当に聴く価値があるのかという事です。

言い得ない暗さ

この記事を書くために、何度も聴き直しましたが、私にとっては陰鬱さしか印象に残りませんでした。断片的に見れば神々しい美しさの音楽がそこにありますが、それ以上に深刻な闇に包まれている感じを覚えます。

150年に渡ってこれを名曲として聴いてきたわけですが、本当に名曲なのでしょうか。ベートーヴェンと並んで論じてもいい曲なのでしょうか。

あえて問います!名曲ですか

この曲は私にとって、不気味な、怖い曲という印象しかありません。この『未完成』は、一言でいうと、恐ろしいくらい深い暗さを持つ楽曲です。美しい旋律が顔を出す事は分かっています。

本当に皆さんはこの交響曲を「名曲」と思って聴いているのでしょうか。。私にはそのこと自体不思議で仕方がありません。

第1楽章、第2楽章はそれぞれ美しい楽曲です。それは否定しません。シューベルトの良さが出ている秀作だと思います。しかし、続けてこの2つが演奏されるのは聴衆にとって試練を与えられているようです。

問題を突き付けておきながら何の解決策も打ち出さないで終わりというのはありえないのではないでしょうか。しかも似通った音楽が続くとなると楽曲に没頭するより飽きが来ませんか。この交響曲を名曲だとする世間一般の風潮をあえて否定したいです。

まとめ

今回この記事を書くにあたり何度も聴き直しましたが、私にはこの暗さ、諦観は飲み込めませんでした。何度聴き直しても同様な2つの楽章が続く事に違和感を覚えただけです。

音楽の良さを聴く耳を持っていないとお叱りの言葉を頂きそうですが、正直に言って私にはこの交響曲の良さが分かりませんでした。

『未完成』という響きに騙されてはいませんか。そのネーミングから様々なイメージが膨らんで目が眩んでいるだけではないですか。200年以上経過した今なお、世間はシューベルトが死の間際に放った妖しくも危険な旋律の呪いに惑わされているのかもしれません。

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