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小澤征爾

世界的にその名を轟かす指揮者「小澤征爾」。彼をテレビ等で拝見するとその人柄の良さが画面越しにも伝わってくるように感じます。指揮者として、音楽家として確固たる地位を獲得したにも関わらず、傲慢さなど全く感じさせない気さくで庶民的な雰囲気は聴衆を魅了し続けています。

そんな世界の小澤征爾、一度音楽の中に入ると人が変わったように指揮者の威厳を漂わせます。巨匠と呼ぶに相応しい、世界的な音楽家の顔です。そしてひとつの音楽を完成させる為、あらゆる手法を使ってオーケストラを導くのです。

日本人でありながら小澤征爾はどのようにして指揮者として世界の頂点に登りつめたのかをお伝えします。その他にも受賞歴や、小澤の交流関係など、様々なエピソードをご紹介しています。



小澤 征爾

小澤征爾とN響
小澤征爾がウィーン国立歌劇場音楽監督まで登りつめた理由について少し考えてみたいと思います。当然彼が生み出す音楽が一番の理由なのでしょうが、それだけでは説明のつかない小澤征爾が持つ人知・人種を超えた魅力が世界の音楽関係者に伝わっていったのでしょう。

  • 独自の音楽性
  • 失敗から学んだ事
  • 小澤征爾の人柄
  • 圧倒的集中力
  • 伝説級の師たち

上記の5点こそ小澤征爾が指揮者として日本だけでなく世界的に活躍するに至った大きな要因だと考えます。世界のトップに君臨したカラヤン、そしてバーンスタインの両巨匠に唯一認められた日本人指揮者を詳細に観ていきたいと思います。

小澤征爾の音楽性

まず挙げないといけないのは小澤征爾が持つ音楽性です。スコアを読む力、それを音楽として再現させる力、オーケストラに対しての扱いの上手さ、全てを含め世界トップレベルにあります。スコアを読む力、それを表現させる(指揮をする)力は天性のものです。

天から授かった才能を、齋藤秀雄に開花させて貰った事が指揮者小澤征爾の成長に大きく影響しているでしょう。最初に家族が小澤の音楽性の高さに気付き、ピアノの豊増昇がそれを磨き、齋藤秀雄が最後に完成させたとも言えるでしょう。

小澤征爾のスコアリーディングは並みの指揮者とは大違いです。本当に深く、広く、大きく、そして繊細。だからこそ、オーケストラに納得して理解され、圧倒的な信頼感を得られているのだと思います。クラシックの指揮をする為の全てを兼ね備えていたのが小澤征爾なのです。

N響事件から学んだ大切な事

小澤征爾を語る上でN響事件は絶対に知らなければならない大事件です。この事件から、小澤征爾は指揮者がやってはいけない数多くの事柄を学んだのだと思います。そして指揮者とはこうあらねば成らないという「本質」を見つけたのではないでしょうか。

オーケストラ全員が指揮者に従うものではありません。自分はその解釈には従えないと思う楽員だって何人も居るはずです。それを乗り越えるためには、自分の音楽性が彼らより上でなければ納得させる事はできません。

小澤はN響事件から学んだ事を活かすべく、たくさんの勉強をしました。この事件の後は人に見えない所で想像を絶するような努力を積み重ねたのだと思います。そんな事が容易に想像できてしまうほど、N響事件後の彼の音楽は劇的な変化を見せたと言えます。

小澤征爾の人柄

陽気で明るく、裏表のない性格がプラスに働いた事も無視できません。要は小澤征爾の「人間力」が凄かったという事です。小澤征爾自身も人間としての生き方が音楽を通して出てくるものだと何回も語っています。「最後に音楽に出てくるのはその人の人間性だ」。

小澤征爾が良く言う「勉強」ですが、それは如何に深く楽譜を読み込んでいるかです。楽譜の裏にある時代背景、作曲家の思い、考え方など、全てを把握する事で、コンサートに臨んだ時、最後に自然とその人間自身の深みが現れるのだと。

小澤征爾は公式な場や演奏会の時は別にして、普段は本当に気さくで、陽気な方です。言うべき事はハッキリ言いますし、開放的な性格の持ち主です。皆を幸せにしてくれるようなオーラを醸し出しています。これが小澤征爾の魅力を際立たせる最大の武器になったのでしょう。

小澤征爾が幼少時から積み重ねてきた努力、そして様々な失敗から培った人柄、そんな人間味が溢れ出る音だから我々は感動するのです。小澤征爾の音楽は気高く、彼の「人間力」が聴く側にも伝わってきて、神の領域に迫るような最高のレベルまで我々を連れて行ってくれるのです。

小澤征爾の集中力

音楽界の中でも小澤征爾の集中力は群を抜いています。そんな彼が全集中力を持って音楽に没頭するのですから、そこから生まれる音楽は最高の物である事は当然であり必然です。録音よりもライブで聴く小澤の方が断然凄いと言われるのはその事が根本にあるからだと思います。

小澤征爾の集中力の凄さをお伝えするのに次のようなエピソードがあります。昔オーケストラで公開リハーサルをやった時、客席から子供の泣き声が聞こえて来て、オーケストラの人たちはそれが気になって仕方が無かったそうです。

しかし小澤征爾は音楽だけに集中していて、赤ちゃんの声を気にするどころか、音楽に集中していた彼には周りの音も全く聞えていなかったのでした。漫画や映画の世界でしかないと思っていましたが、一流のプロフェッショナルになるとその集中力も尋常ではないのでしょう。

この集中力の高さこそ小澤征爾の音楽作りの完成度の高さにつながり、世界から評価され、最高峰の地位まで登りつめる要因となりました。

小澤征爾4人の偉大な師

小澤征爾4人の偉大な師
小澤征爾は4人の偉大な指揮者を師に持ちます。それぞれ類い稀な才能を持ち、小澤征爾に持てる知識・技術・情熱を授けました。特に世界的にも偉大な指揮者として知られるカラヤンとバーンスタインは犬猿の仲でしたが、カラヤンの後にバーンスタインにも入れ替わり教わる事が出来、小澤征爾の飛躍に大きく貢献しましました。

齋藤秀雄

齋藤秀雄との出会いによってクラシック音楽の基礎中の基礎を徹底的に身体に覚え込まされました。齋藤秀雄はクラシック音楽の理論から指揮法、感情の表現法など音楽家としての絶対に必要なもの全てを小澤征爾の血と肉に刻み込んだのです。彼がいなかったら今の小澤征爾は無かったといっても過言ではありません。普通の日本人指揮者のその他大勢になっていた事でしょう。

シャルル・ミュンシュ

タングルウッド音楽セミナーで尊敬するミュンシュに指揮の基本を教わりました。小澤征爾はこの世界的指揮者から実際に自分がしている指揮の極意を学び、そしてそれを授かりました。このタングルウッドでの2週間は、彼にとっては夢のような勉強の場だったことでしょう。才能のある人間にはこういった短期間でも身になるものを見つけられるのですね。

帝王カラヤン

クラシック界の帝王カラヤンにも師事します。カラヤンに学んだ事は指揮者としての心得、心の持ち方などです。指揮者がどうオーケストラと接すればより良い音楽が作れるのかを丁寧に教わりました。指揮棒だけに頼らなくてもオーケストラが付いてくるやり方をしっかり学んだのです。その後のカラヤンとのプライベートでの親交も小澤にとって非常に有益な働きをもたらしています。

バーンスタイン

最後のバーンスタインとの出会いは、カラヤンに師事したすぐ後にニューヨーク・フィルの副指揮者となり、そこで彼のアシスタントとして色々学びました。アメリカのBIG5のニューヨーク・フィルを使ってバーンスタインにアドバイスされた事は、指揮者として本当にラッキーな出来事でした。彼とはプライベートでも親交が深かった事も小澤の大きな力となりました。

小澤征爾だからこその快挙

カラヤンとバーンスタインの両巨匠から学んだ人間はクラシックの歴史の中でも小澤征爾ただ一人と言われています。小澤征爾の才能が認められたからこそ、犬猿の中と言われていた偉大な音楽家2人の弟子になれたのです。正に小澤征爾の人柄が成しえた快挙です。

音楽家の卵時代


まず、指揮者になるまでの彼の生い立ちをみて行きます。生まれてからどのように成長してきたかを調べてみるときっと「世界のOZAWA」への秘密が隠れているはずです。誕生から青年期までを紹介していきたいと思います。

小澤征爾満州で誕生

小澤征爾は1935年9月1日中国瀋陽市生まれ。4人兄弟の3男坊。母さくらも男4人の子育てで大変だったと思います。1941年3月父を満州に残したまま母や兄と日本に戻ります。東京都立川市から始まり、神奈川県、東京都、そしてまた神奈川県と転々としながら育ちます。

1945年10歳の小澤征爾は、長兄の克己からアコーディオンとピアノの手ほどきを受けます。小澤征爾の音楽的才能を感じた一家は、彼に対して本格的にピアノを学ばせようと決意するのです。そして親類から安価で譲ってもらったピアノをリアカーに縛りつけ、横浜から立川の自宅まで約80kmの距離を3日かけて家族で運搬しました。

当初はピアニスト志望

1948年4月成城学園中学校に入学します。中学ではラグビー部に所属する傍ら、豊増昇にピアノを習います。ピアノで身を立てようとする人間は指を怪我すると大変な事になるからと豊増は運動部は辞めなさいと何度も注意しましたが、小澤は隠れてラグビーをしていました。

ある日のラグビーの試合で指の骨を骨折したためピアニストの道を断念します。ラグビーで指を骨折してもピアノの練習は続けていましたが、豊増昇からはピアニストになるのは諦めたほうが良いと言われてしまいます。

指揮者の道へ軌道修正

そんな折の1949年12月14歳の小澤征爾は、日比谷公会堂における日本交響楽団(現・NHK交響楽団)のコンサートで、ロシア出身のピアニスト、レオニード・クロイツァーがピアノを弾きながら指揮をする演奏を聴いて、初めて指揮に強い魅力を感じます。

そして母さくらの遠縁に前で何度も述べている音楽教育者の齋藤秀雄がいることが分かり、指揮の弟子入りを志願します。小澤征爾が中学3年生の時でした。彼は母の付き添いを断り1人で頼みに行ったそうです。

生涯の師、齋藤秀雄の厳しい練習

1950年の14歳から小澤征爾は齋藤の元に通って指揮を教えて貰うことになります。兄弟子にもうお亡くなりになった山本直純がいました。2人で練習を見てもらうのですが、課題を2人ともやっていかなかったため、毎回のように怒鳴り散らされて、楽譜を投げられ、酷い時には齋藤が掛けていた眼鏡まで飛んでくる始末で、窓から逃げ出したことが何度もあったそうです。

頃合を見計らって齋藤の元に戻ると、齋藤秀雄の妻の秀子さんが齋藤の機嫌を直してくれていて、練習を再開するようなことが日常茶飯事だったようです。投げられた楽譜、ねじられた楽譜、破られた楽譜はボロボロになり、その楽譜を修繕するのも仕事のひとつだったそうです。

「子供のための音楽教室」で指揮実践

戦後、音楽の早期教育の必要性を感じていた斎藤秀雄、井口基成(ピアニスト)、伊藤武雄(声楽家)、吉田秀和(音楽評論家)らにより企画され、1948年(昭和23年)「子供のための音楽教室」が開設されました。当初30名ほどの生徒で始まったようです。

齋藤秀雄の弟子になってからは小澤征爾はここに通うようになります。この教室には後に世界的演奏家になったピアニストの中村紘子、チェリストの堤剛らがいました。

この教室では個人レッスンは勿論の事、音楽理論なども教えていました。日本の著名クラシック音楽家はほとんどがここの卒業生です。小澤征爾もこの教室で弦楽オーケストラの指揮を実践し、齋藤の指導を受けました。この頃も小澤は怒鳴られてばかりの毎日だったそうです。



小澤征爾の才能に惚れ込んだ齋藤秀雄は小澤にかばん持ちをさせ、いつも二人でいる時間が多かったそうです。おそらく齋藤には小澤が将来大物になるとの予感があったのだろうと思われます。だからこそ可愛がりずっと自分の手元で教えたいと望んでいたのだと思います。

音楽科が新設された女子高へ再入学

小澤征爾は成城学園中学を卒業して成城学園高校へ進学します。しかし、翌年、桐朋女子高校音楽科が開設されたので小澤は成城学園高校からこの学校に入学し直しました。小澤はこの音楽科の1期生です。

桐朋女子高校?そうなんです。小澤征爾は女子高卒なのです。この女子高の音楽学科だけは男女共学で、「子供のための音楽教室」の子供達も多くこの学校へ入っています。というか「子供のための音楽教室」の子供を受け入れるために、女子高に音楽科を設立し、男女共学にしたということなんでしょう。

桐朋学園が今でも「指揮部門」と「弦楽器部門」に強いのは「子供のための音楽教室」のおかげかと思われます。

指揮法を完璧にマスター

桐朋女子高校を卒業した小澤征爾は桐朋学園短期大学へ進学します。齋藤秀雄は桐朋学園の教授であったため、小澤としては至極当然の事でした。音楽理論からオーケストラの指揮の実践まで齋藤らによって厳しく仕込まれました。

何といってもこの時の指揮法教習がこの後の小澤にとっては指揮者としての武器になりました。齋藤は指揮について様々に分析し、指揮棒の振り方のメソッドを編み出し、その振り方を徹底的にマスターさせました。

短大を卒業しても齋藤の下でアシスタントとして働いていた小澤征爾は海外に留学する事を考え始めます。やがて、その夢は現実化し、金銭的援助も受けられることが決まり、船でヨーロッパへ向けて出向します。

小澤征爾フランスで武者修行

小澤征爾本場フランスで武者修行
当時日本はまだ誰もがヨーロッパへ簡単に行ける様な時代ではありませんでした。しかし、フランスで勉強しようと決心した小澤征爾は様々な手段を駆使し資金援助を受けて単身フランスへ旅立ちます。

齋藤秀雄がまさかの大反対

この計画に断固として反対したのが恩師である齋藤秀雄でした。小澤を自分の手元から離したくなかった齋藤は、まだベートーヴェンの『第9』を教えていないからというこじ付けをして反対しましたが、この理由には桐朋学園の職員達は会議の際、皆驚いたそうです。

知恵を絞った資金調達

当時ですからヨーロッパに行こうとするには大変な費用が掛かります。大卒給料が1万数千円の時代で50万円位必要だったといわれています。そこで小澤は考えました。企業にスポンサーになってもらおうと。まずは船会社と相談し、破格な金額で貨物船に乗れるようにしました。

そして次に考えたのがフランスでの移動手段です。電車などに使うお金も勿体無いので、富士重工からある条件をのむ変わりに1台のスクーターを譲って貰います。その際に2つの条件を提示されます。

  1. 日本の富士重工製品だと分かるように、車体に日の丸の国旗を付ける事
  2. 音楽家だと分かるようにギターを背負って走る事

小澤征爾はクラシック音楽家なのに、なぜギターを背負う条件だったのでしょうか。これはとても不思議な条件です。小澤征爾がギターを弾く話など聴いた事はありませんし、どの本にも載っていない事です。

恩師の見送り

このようにして小澤征爾は1959年2月1日、スクーター、ギターとともに貨物船で単身フランスへ向けて旅立ちました。小澤征爾23歳の時でした。流石にこの日は恩師の齋藤秀雄も見送りに来て、餞別まで送ったとの事でした。

齋藤にすれば目に入れても痛くないぐらい可愛がっていた弟子を、将来も何も決まっていないフランスに送り出す事に物凄く抵抗があったのだと思います。でも、弟子がそれを望んでいるのだから、好きに行かせてあげようと思ったのでしょう。

田中路子への手紙

田中路子は齋藤がドイツ留学時代に付き合った女性で、ヨーロッパの社交界で活躍している人物でした。齋藤は田中路子に自分の弟子がフランスに行くから面倒を見てやってくれと事前にお願いしてくれていたのでした。

齋藤秀雄は出航の前に小澤に1通の手紙を渡します。手紙には「向こうでは田中路子という人を頼りなさい」そう書いてありました。実際、小澤は田中路子に様々な面でお世話になり、指揮者人生を支えてくれた恩人の1人でした。小澤以外にも彼女の世話になった音楽家は少なくありません。

小澤征爾フランスでの生活

小澤征爾は貨物船でフランスへ向かいます。恐らく、希望と不安という相反する気持ちが交錯していたことでしょう。さて、そこで待ち受けているものはどんな事だったのでしょう。

スクーターでフランス各地を移動

62日間の船旅を終え、フランスに着いた小澤征爾は特に当てがあるわけでもないので、まず、手始めにフランスの各地をスクーターで巡りました。パリでは当時日本には無かった婦人下着専門店やヨーロッパならでは店をスクーターで巡っては大いに楽しんでいたようです。

ふと立ち寄ったアメリカ大使館で彼の転機になった「ブザンソン国際指揮者コンクール」のポスターを目にします。良く見るともう応募締め切り後でした。普通の人だったらそこで諦めるのでしょうが、ここで引き下がらないのが小澤です。

大使館職員への直談判

アメリカ大使館の担当者に「自分もあのコンクールに出たい。何とかしてくれ」と掛け合い、コンクール主催者と交渉の末、OKを貰います。このときに大使館の担当者から聞かれたことは「あなたは良い指揮者か?」だったという話です。勿論、小澤は「私は素晴らしい指揮者だ」と答えたと言われています。チャレンジしてみるものですね。このことがこの後の小澤の運命を変えるのですから。

小澤征爾音楽人生の大転機

小澤征爾音楽人生の大転機
1959年24歳になった小澤征爾は、アメリカ大使館の口添えのおかげで出場可能となったコンクールに、持ちえる全ての能力を発揮して挑みます。自分は齋藤先生に鍛えられた指揮法が世界のどこでも通じるはずだとの信念があったはずです。このコンクールを境に小澤征爾の運命が大きく変わり始めます。

指揮者の登竜門「ブザンソン指揮者コンクール」

コンクールの実施方法

  • 1次予選・・課題曲の指揮
  • 2次予選・・オーケストラの間違い探し。実際の楽譜と違った音を出している楽器を指摘する
  • 本選・・主催者が選んだ課題曲のオーケストラ演奏

小澤征爾は全て難なくクリアし、見事1位に選ばれます。この時の審査員の1人が、4人の師の1人でもあるシャルル・ミュンシュでした。小澤は彼からタングルウッドの指揮者の養成課程に招待されます。

小澤征爾、カラヤンとの夢の時間

小澤征爾、カラヤンとの夢の時間
この優勝により小澤はフランスに渡った年に、世界各地のオーケストラを指揮し始めました。カラヤン指揮者コンクールにも優勝し、帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子になります。カラヤンに半年間のアシスタントとなり指揮を教わります。カラヤンは小澤征爾4人の師の1人となりました。

カラヤン先生は内的でね。棒なんかどうでもいいというようなことを言うわけよ、本当に。僕が立っている指揮台の真下の椅子に腰掛けて、背後から睨むようにして、・・・僕が一生懸命に振っていると「セイジ!振りすぎる」棒なんかどうでもいい、流れがあればいい。精神が終りまで持続すればいい、じーっと立っていればいい、そういう禅問答みたいなことを半年間ぐらいやられたんだよ。

彼からは手の動かし方、スコアの読み方は勿論、音楽のキャラクターの作り方を教えられた。そして演奏を盛り上がらせるには、演奏家の立場よりも聴衆の心理状態になれ、理性的に少しずつ盛り上げてゆき、最後の土壇場に来たら、全精神と肉体をぶっつけろ!そうすれば客もオーケストラも自分自身も満足する、ということを教えられた。

小澤 征爾

小澤征爾はこの時からカラヤンの事を「カラヤン先生」と呼ぶようになりました。今でもテレビのインタビューなどでカラヤンの話が出てくると「カラヤン先生」という言葉を使っています。それ以来、小澤とカラヤンはプライベートでも親交を深め、カラヤンが亡くなるまで「先生、先生」と慕いつつ、カラヤンと付き合って行きます。

クーセヴィツキー賞受賞

クーセヴィツキー賞受賞
24歳の1960年夏、参加するには倍率が10倍の狭き門・タングルウッド音楽センターの夏期講習会に招かれた小澤征爾は、ミュンシュの指導の下、その才能を発揮して、その年にナンバー1だった生徒に与えられるクーセヴィツキー賞も受賞します。この賞は毎年出るわけではなく、その賞に値すると認められた人物がいた場合にのみ贈られる賞です。中々この賞を貰う音楽家はいません。

クーセヴィツキー賞を受賞した人物は、タングルウッド音楽祭の主催者から夕食に招待されるのが通例で、小澤もミュンシュと一緒に食事をしました。尊敬するミュンシュの前で、しかも英語も出来ないから、何を言われているのかも分からず、凄く緊張したと回想しています。

正に順風満帆の日々を過ごす小澤征爾でした。コロンビアアーティストとも正式契約し、1960年24歳で正真正銘のプロの指揮者になった訳です。

ニューヨーク・フィルの副指揮者就任

小澤征爾ニューヨーク・フィルの副指揮者就任
小澤征爾にとって25歳の年、1961年は忘れられない年でしょう。まず、ベルリン・フィル・デビューを果たします。また、レナード・バーンスタインに招かれて、ニューヨーク・フィルの副指揮者に就任します。肩書きは立派そうですが、いわばバーンスタインのアシスタントです。給料も安く、この頃はお金が無くて、安くて不味いビールを飲んでいたと後に語っています。

副指揮者というのはバーンスタインからも教えを受けられる立場でもあり、バーンスタインも彼の4人の師の1人です。ですが、面白い事にバーンスタインの事は「バーンスタイン」と呼びますが、カラヤンの事はいくつになっても「カラヤン先生」です。2人の指揮者の性格の違いを物語るようです。

小澤征爾【凱旋帰国】

小澤征爾【凱旋帰国】
1961年4月、小澤征爾はニューヨーク・フィル来日公演のため副指揮者として凱旋帰国します。日本のマスコミは小澤が世界的指揮者になった事を大々的に報じました。

ニューヨーク・フィル来日公演

東京文化会館の杮落とし公演で招かれたニューヨーク・フィルでしたが、バーンスタインの好意で小澤は1曲だけ指揮を任されます。黛敏郎の『饗宴』という曲でした。バーンスタインはこの来日の際、小澤征爾の自宅に招かれています。副指揮者を辞めた後もお互い「レニー」「Seiji」と呼び合う仲で、バーンスタインが亡くなるまでその友情は続きました。

NHK交響楽団客演指揮者就任

小澤征爾は帰国後すぐにNHK交響楽団の客演指揮者を要請され、契約します。世界的指揮者と日本一のオーケストラの夢の実現でした。最初はお互い上手く行っていて順風満帆かと思われていましたが、N響側から不満が噴出、いわゆるN響事件が起こります。

政財界、音楽界など各界の人が間に入り色々交渉しましたが、結局は小澤とN響は2度と仕事を一緒にしないとの書類にサインして最悪の決着となりました。

小澤征爾傷心の1人旅

小澤征爾傷心の1人旅
小澤征爾は日本を逃げるようにアメリカに1人旅立ちます。ニューヨーク・フィルの副指揮者としての仕事が残っていたこともあり、またNHKへの複雑な感情のためもう日本では指揮をしない決意のもとの旅立ちでした。

日本を捨てる決意

N響事件は彼の中でかなり大きな出来事でした。もう日本では指揮をしない覚悟でニューヨークへ戻ったのです。でも、何が転機になるか分からない物で、この事件以降彼は自分を戒め、勉強に明け暮れ、世界の「OZAWA」の下地を作る事になります。

自分自身を見つめ直す

夜は酒を飲むので勉強が出来ないから、朝早く起きて音楽の勉強をするようになったり、人への対応の仕方などに変化がありました。N響事件は彼を人間的にも一回り大きくしたのです。それからの小澤征爾の活躍ぶりは目を見張る物があります。

小澤征爾世界への大飛躍

小澤征爾世界への大飛躍
仕事に特別な感情で取り組むようになった小澤はこの頃から世界の有名オーケストラからの仕事が増えて行きます。N響事件での教訓が活かされて、世界の音楽界にその名を知られていくようになります。

ラヴィニア音楽祭音楽監督就任

1964年、29歳の時、シカゴ交響楽団によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。急遽、ニューヨークにいた小澤が開催数日前に招聘され、音楽監督として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡ります。

最初は東洋人など指揮させるかと言っていたシカゴ交響楽団の支配人は小澤征爾にすっかり惚れ込み、5年間この音楽祭の音楽監督に任命しました。またこの時期のシカゴ交響楽団とは多くの録音を残しています。

トロント交響楽団音楽監督就任

同じ年、小澤征爾はカナダのトロント交響楽団の音楽監督になります。小澤の輝かしいポジションのスタートとなったオーケストラでした。このトロント交響楽団とは今でも名盤のメシアン『トゥランガリア交響曲』の録音もしています。

トロント交響楽団で初めて音楽監督という重責を担い、年間のスケジュールの立て方や新人の取り方、オーケストラ運営のあり方などを十分に勉強したはずです。トロント交響楽団の音楽監督は1969年まで続きました。

世界に認められた才能

  • 1965年3月、29歳、ロンドン交響楽団を指揮してイギリスデビュー。
  • 1966年、30歳、ウィーン・フィルを指揮してザルツブルグ音楽祭デビュー。同年9月ベルリン・フィル定期公演初登場。
  • 1967年、31歳、ザルツブルグ音楽祭でカラヤンのアシスタントを務めオペラを勉強。11月ニューヨーク・フィル創立125周年記念で武満徹『ノヴェンバー・ステップス』指揮。
  • 1968年1月、32歳、ボストン交響楽団定期公演デビュー。日本においては日本フィルハーモニー交響楽団首席指揮者就任。
  • 1969年4月、33歳、トロント交響楽団を率いて来日。ザルツブルク音楽祭で『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮してオペラデビュー。そして、12月は、パリ管弦楽団定期公演デビュー。

サンフランシスコ交響楽団音楽監督就任

小澤征爾サンフランシスコ交響楽団音楽監督就任
1970年12月、35歳からサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任しました。アメリカのエリート11に選ばれるぐらい超有名なオーケストラであって、トロント交響楽団よりはるかに質の高いオーケストラです。この頃の小澤征爾は数珠のような物を首に巻いていたり、かなり東洋を意識した格好をしていました。

このオーケストラが東洋人を音楽監督にしたという事でマスコミに大分注目されました。このオーケストラもアメリカ・オーケストラ・メジャー5に次ぐ存在で、なかなか音楽監督になるには実力がないと指名されません。

ここでも、録音された曲も多く、若き小澤の音楽が聴けます。今でも廃盤にならず商品になっていますから大した物です。

旧日本フィル問題

この時期、日本では旧日本フィルがフジテレビから解散させられ、1972年9月、小澤37歳の時、齋藤秀雄達が中心となって、新日本フィルハーモニー交響楽団を設立します。小澤征爾もこのオーケストラの首席指揮者になり(1972~1990年、現在は桂冠名誉指揮者)、日本に帰ってきた時は新日本フィルしか指揮をしませんでした。

アメリカの西海岸と日本、そしてヨーロッパと移動する大変な日々を過ごします。

ボストン交響楽団音楽監督就任

ボストン交響楽団音楽監督就任
サンフランシスコを拠点として東奔西走する日々でしたが、小澤はアメリカのビッグ5オーケストラのひとつ、ボストン交響楽団から音楽監督に指名されます。小澤征爾自身もそんな重要な地位に招聘されるとは思ってもいないことでした。

小澤征爾驚愕の指名

38歳の年、1973年、アメリカのオーケストラの名門、ビッグ5のひとつであるボストン交響楽団の第13代音楽監督に指名され、自分でも驚きながらこれに就任します。ボストンはアメリカの東海岸、サンフランシスコは西海岸、最初はこの2つのオーケストラの音楽監督を両立させようとしていました。

2つのオーケストラの音楽監督を引き受けながら、ベルリンやウィーン、パリ、日本の仕事も引き受けるのですから、体が持つはずがありません。案の定、小澤は首の病気(指揮者の職業病)になり、一時は全ての仕事をキャンセルして入院します。

流石の小澤征爾もこれに懲りて、1976年、41歳にサンフランシスコ交響楽団の音楽監督を辞任し、ボストン交響楽団の音楽監督1本に絞ります。

世界的音楽評論家達の反応

ボストンの音楽メディアは大変厳しく、音楽監督就任当時はそんな知らない東洋人を音楽監督にしてオーケストラは質が落ちるのではないかとか散々叩かれました。

しかし、1年2年と続くうちにそういう悪口は減っていきました。そしてボストン交響楽団1本に集中するようになってからは我らがマエストロといった扱いに変わってきました。小澤の人柄もあり肩肘張らずフランクに付き合うこの指揮者を街の人気者として迎え入れてくれたのでした。

音楽評論家もそんな事よりも演奏についてきちんとした批評をするようになり、人種の壁は取れて行ったように思われます。一指揮者として認めてくれた事の証でしょう。

でも、どこの新聞社かは忘れましたが1人だけ、小澤が指揮をした日は必ず小澤を批判する評論家がいました。これは彼がこのオーケストラを辞めるまで続きました。余程小澤を嫌っていたのでしょうね。

小澤征爾とボストン交響楽団の歩み

小澤征爾はボストン交響楽団と29年間に渡って付き合いました。これほど長い関係は世界でも例が少ないと思います。昔の独裁的指揮者の時代は30年ぐらいは当たり前のような時代でしたが、現代では1人が10年務めるのも少なくなってきました。

小澤征爾、音楽追求にかけた29年

世界でも屈指のオーケストラの音楽監督になった小澤は自分の理想とする音楽を表現しようと、曲目やゲストコンダクターの選定、楽団員の入れ替えとか忙しい日々の中でも、「勉強」に励みます。

この伝統あるボストン交響楽団の歴史を汚すまいと日々精進したのだと思います。そしてその努力は認められ、気付いた時にはあっという間に29年間になっていたという感じでしょうか。



アメリカでもフランス色の濃いオーケストラでしたが、ドイツ系の音楽もこなせるように、小澤は努力してきました。今尚、その輝きを失わないのは2002年までいた小澤の功績が大きいためです。

29年間の長さはほとんどの楽員が入れ替わるほどの長さです。ですから小澤の音楽に皆「あ、うん」の呼吸で付いてきてくれるようになっていた訳です。

おそらく小澤征爾はウィーン国立歌劇場の音楽監督のオファーが無かったらば、ボストン交響楽団に骨を埋めたと思います。小澤だけでなく、指揮者ならばウィーンオペラのトップに立ちたいと思う筈です。

ボストン交響楽団との別れ

ボストン交響楽団とは面白い契約で、お互い辞めたいと思ったら3年前に願い出るという契約で、1999年に小澤が音楽監督を辞任すると申し出た時は楽団員たちはショックを受けたそうです。

演奏会の前日にその話が出た為、次の日の演奏会に支障が出ないようにと電話で楽団員に1人ずつ説明したとのことです。中には涙する人も多かったそうです。辞める事に反対だったオーケストラ側も「ウィーン国立歌劇場」の音楽監督なら仕方が無いねと諦めたとの話が伝えられています。

2002年4月、小澤66歳の時、ボストン交響楽団との最後の演奏会の曲目はマーラー『交響曲第9番』でした。勿論録画ですがNHKで放送されましたから、ご覧になった方も多く居る事と思います。小澤渾身のマーラーでした。

小澤征爾はボストン市民の誇り

小澤征爾はボストン市民の誇り
29年間も音楽監督をしていたので、音楽好きの市民は皆小澤の事を誇りに思っていました。小澤は野球では大のボストンレッドソックスファンでしたし、普段も自分で運転し、気軽に家族達とボストンの街で生活していましたから、「Hi,Seiji」と皆気軽に声を掛けていました。

9月1日(小澤の誕生日)は「Seiji Day」となり、タングルウッド(ボストン交響楽団が夏のフェスティバルを行なう郊外)には、「Seiji Ozawa House」が建てられたり、とにかく街を挙げて歓迎してくれているのが分かりました。日本でそのニュースを見ているこっちも何か誇らしい気持ちでもありました。

小澤征爾はクラシック音楽界の中心的存在

小澤征爾
世界的な人気指揮者になった小澤征爾は、クラシック音楽界を代表するようなオーケストラや歌劇場にばかり登場するようになりました。ボストン交響楽団の音楽監督に専念し始めた頃からは本当に世界の「OZAWA」になりました。

小澤征爾の振るオーケストラ

小澤征爾は世界から認められ、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルの定期公演の常連になりました。定期公演はそのオーケストラの真価を問う演奏会ですから、これに招待されるのは世界的に有名な指揮者ばかりです。

故・岩城宏之がウィーン・フィルの定期公演に呼ばれた時にコンサートマスターに「ここで演奏した指揮者は、もうそれなりの伝統を兼ね備えたオーケストラ以外指揮できなくなるんだよ」と言われたそうです。

それだけ我々ウィーン・フィルのオーケストラの地位は高い物なんだという事を伝えるエピソードだと思います。勿論、ベルリン・フィルだって同じ事です。自分達は世界一のオーケストラという意識が高いから、そこを指揮する指揮者はそれだけのレベルに達していなければなりません。

世界的歌劇場でも活躍

オペラで言えば、ウィーン国立歌劇場やミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座などの常連となります。オペラ指揮者として認められた事でも本当に凄い事です。ドイツ・グラモフォンやフィリップス等の世界レーベルへ録音した最初の日本人でもあります。正に世界の「Ozawa」になっていったのでした。

ウィーン国立歌劇場音楽監督就任

ウィーン国立歌劇場音楽監督就任
だれが想像したでしょうか。日本人がウィーン国立歌劇場の音楽監督になるとは。東洋人がこの地位に着くのは最初で最後かもしれません。ウィーン国立歌劇場の音楽監督とはクラシック音楽界最高峰の地位ですから、正に「OZAWA」はそこまで登りつめたのです。

日本人初ニューイヤーコンサート登場

2002年1月、小澤66歳、ウィーン国立歌劇場の音楽監督になるシーズンの年にウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに招待されました。このコンサートのCDは日本では良く売れましたが、ちょっと色々あったコンサートでした。やっぱりウィンナワルツの3拍子はウィーンの人で無いと表現できないのでしょうか。小澤が練習をつけている時にオーケストラ側から苦情が出て、あわや公演キャンセルかという瀬戸際まで揉めたらしいです。

お互いプロですし、この年の秋から自分達の音楽監督になる人でもあることから、公演は無事に終えましたが、関係者は冷や汗ものだったようです。

小澤征爾トップの座を極める

2002年秋、67歳の小澤征爾はウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任します。1869年に開演したこの歌劇場で、この地位に就任したのは小澤征爾が5人目でした。今までハンス・リヒターやブルーノ・ワルターなど歴史に名を刻む指揮者しか就任していません。

上にカラヤンなどが着いた「総監督」が居ますが、音楽監督は文字通り音楽部門のトップであり、責任者です。この人事がマスコミ発表された時は世界中で大ニュースになりました。

日本人でさえ想像していませんでしたから、世界の人はもっと驚いたはずです。たぶん最初は、東洋人に出来るのかという偏見が多かったと思います。最初のシーズンから成功を収め、順調にその仕事をこなしていました。しかし、思わぬ形でその任から降りる事になりました。

深刻な病気


残念な事に小澤征爾の病気が続いた事がウィーン国立歌劇場音楽監督をやめた大きな理由です。2005年に白内障、2006年に帯状疱疹、2010年には食道癌になります。音楽監督は2002年から2010年まで続きましたが、病気キャンセルも多く、本人としても辛い時期を過ごした筈です。

しかしながら、この地位に抜擢されたという事は文字通り世界最高峰の指揮者という称号を受けたことですから、小澤征爾と師の1人齋藤秀雄が目指した最終目標に到達したと言っても過言ではないと思います。小澤征爾が病気にならず、健康体であったなら、もっと続けられた事でしょう。その点は本当に残念で仕方がありません。

小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラ

小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラ
小澤征爾を語る上で、このオーケストラの事を抜きには出来ません。偉大な恩師齋藤秀雄の追悼のため世界から弟子達が集まりコンサートを行なったのです。どれだけ齋藤秀雄という人が凄い指導者であったかが分かります。

恩師、齋藤秀雄のために

1984年9月、小澤征爾49歳の時、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び小澤征爾と秋山和慶の呼びかけで、齋藤門下生が集まり、東京と大阪でコンサートを行なった事がきっかけで、このオーケストラが世に誕生しました。

以来、毎年音楽会を開くようになり、現在では直接齋藤に教わった事のない演奏家も、その精神に感動して出演するようになっています。

夏季シーズンだけ集まるいわば寄せ集めオーケストラにも拘らず、世界的な評価を受け、いまや欧米各地まで演奏旅行するようになりました。しかも、今では松本市を本拠地として「セイジ・オザワ松本音楽フェスティバル」として毎年演奏会を催しています。このフェスティバルでは毎年オペラを上演する事が「売り」になっています。

若者のための講習会開催

齋藤秀雄が良き音楽家を多数育て上げたため、小澤征爾も後輩の指導に熱心です。フェスティバル中は各部門の講習会を開いて小澤だけでなくサイトウ・キネン・オーケストラのメンバー達が指導に当たっています。

この中から世界に羽ばたく音楽家が多数出てきてくれることを願っています。齋藤秀雄の教えを小澤達がまた若き才能の持ち主たちに伝えていく、これが上手く行けば日本のクラシック界は今以上に世界から注目されるようになって来るでしょう。

小澤征爾数々の受賞歴

小澤征爾は世界各国から数々の賞を受賞しています。その中から主だった物を紹介しておきます。

  • 2000年米国ハーバード大学より名誉博士号授与
  • 2001年日本政府「文化功労章」受賞
  • 2002年オーストリア政府から「勲一等十字勲章」受章
  • 2003年「毎日芸術賞」「サントリー音楽賞」受賞
  • 2004年フランス、ソルボンヌ大学から名誉博士号を授与
  • 2007年ウィーン国立歌劇場名誉会員に推挙
  • 2008年日本政府「文化勲章」受章。フランス政府「レジオン・ドヌール勲章オフィシエ」を授与、「フランス芸術アカデミー外国人会員」。イタリア・プレミオ・ガリレオ2000財団金百合賞受賞
  • 2011年「高松宮殿下記念世界文化賞」受賞。渡邊暁雄音楽基金特別賞受賞
  • 2014年モンブラン国際文化賞受賞
  • 2015年ケネディ・センター名誉賞受賞。長野県名誉県民栄誉賞受賞
  • 2016年グラミー賞最優秀オペラ・レコーディング賞受賞。ベルリン・フィル名誉団員の称号を贈られる。名誉都民に顕彰される。成城大学名誉博士号授与

小澤征爾ディスコグラフィー

膨大な量で全てを載せるのは無理なので、その中から私が聴いてきて注目した録音を挙げておきます。これでもまだまだ紹介し切れませんが・・・

略語解説

  • BSO:ボストン交響楽団
  • SKO:サイトウ・キネン・オーケストラ
  • VPO:ウィーン・フィルハーモニー
  • BPO:ベルリン・フィルハーモニー

ディスコグラフィー




・チャイコフスキー:『くるみ割り人形』組曲、『眠れる森の美女』組曲、パリ管、1974
・ラヴェル:管弦楽全集、BSO、1974
・チャイコフスキー:『白鳥の湖』全曲、BSO、1978
・ストラヴィンスキー:春の祭典、BSO、1979
・シェーンベルク:『グレの歌』、BSO、1979
・レスピーギ:ローマ三部作、BSO、1979
・ホルスト:『惑星』、BSO、1979
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全集、R・ゼルキン、BSO、1981
・R・シュトラウス:『英雄の生涯』、BSO、1981
・メシアン:『アッシジの聖フランシスコ』、パリ・オペラ座、1983
・ストラヴィンスキー:『火の鳥』全曲、BSO、1983
・ドヴォルザーク:『チェロ協奏曲』、ロストロポーヴィチ、BSO、1985
・サン・サーンス:『交響曲第3番「オルガン付き」』、フランス国立、1986
・ドヴォルザーク:『交響曲第9番』、VPO、1991
・ブラームス:交響曲全集、SKO、1989-91
・プロコフィエフ:交響曲全集、BPO、1989-1992
・マーラー:交響曲全集、BSO、1987-93
・ベルリオーズ:『レクイエム』、BSO、1993
・R・コルサコフ:『シェエラザード』、VPO、1993
・フォーレ:『レクイエム』、BSO,1994
・バルトーク:『管弦楽のための協奏曲』、BSO、1994
・ベートーヴェン:交響曲全集、SKO、1997-2002
・ウィーン・フィル、ニューイヤーコンサート、2002
・etc…

小澤征爾エピソード集

小澤征爾エピソード集
小澤征爾が今までの人生で行なったり、語ったり、文章にした事の中から面白そうなエピソードをいくつか拾ってみました。

小澤征爾エピソードその1

小澤征爾はライヴの指揮者・・CD録音で聴く小澤の音楽は変に教科書的であって悪くは無いけどもうちょっと面白みがあってもいいのにと思うときがあります。しかし、ライヴでは燃えたぎる感性がじかに伝わってきて驚異的な感動が生み出されます。

小澤征爾エピソードその2

『僕の音楽旅修行』・・この本の中に面白いエピソードが書いてあります。ラグビーの練習が終わってからピアノの練習に通っていたため、汚れた指でピアノを触ってヒンシュクを買った話やピアノの練習中鼻水が鍵盤に垂れて、これはヤバイと思っていると先生が何も言わずハンカチで拭いてくれた話など面白い話が満載です。小澤が如何にして指揮者となったかを楽しめながら読める本です。

小澤征爾エピソードその3

作家、井上靖に叱られる・・小澤征爾がフランスで井上靖と食事を取っていた際、「指揮者コンクールで優勝しても、クーセヴィツキー賞を貰ってもこっちでは仕事が来ないんですよね。日本の 群馬交響楽団から来ないかと誘われているので、そうしようと思っています」と話したところ、井上靖は即座に「帰るな。世界で頑張れ」と諭したそうです。このことが無かったら、世界の「OZAWA」にはなれなかったでしょう。

小澤征爾エピソードその4

小澤征爾、天皇に直訴する・・1972年小澤が日本芸術院賞を受賞して天皇と歓談した際、「日本フィル(旧日フィルの事)が解散されそうなんです。どうか助けてください」と天皇に直訴しました。 天皇は「うーん」といったそうです。後は侍従にたしなめられそれ以上は発展はありませんでしたが、小澤らしい話です。

小澤征爾エピソードその5

小澤の服は森英恵ブランド・・指揮者にとって首の怪我は職業病のようで切っても切り離せません。何も無いところを腕で叩くのですから、首に掛かる負担は半端ではありません。その為小澤は森英恵に相談して短いタートルネックをいつも着るようになりました。それ以来小澤は森英恵に一切の服を注文するようになったようです。ですから小澤の着ている服をよく見ていると蝶が胸にデザインされています。夏服でも白いシルクで汗を吸いやすいタートルネックが多いです。

小澤征爾エピソードその6

小澤征爾のギャラは?・・こればかりは本当に超極秘事項ですのではっきり言って分かりません。ただ巷間言われている事は小澤クラスは1ステージ500万円程度だそうです。しかし、ウィーン国立歌劇場の音楽監督になってからは恐らく上がったと考えるのが自然と思います。この件についてはこれしか書けません。

小澤征爾エピソードその7

キャラバン・・小澤とチェリストの故・ロストロポーヴィチと若手オーケストラが夏合宿の時にやっていたゲリラ的演奏会の事。何のコマーシャルもせず、突然ある町にいってお寺とか公民館で演奏会を開いて集まってきた市民達に音楽を聞かせて回るという事をやっていました。学生達にとってはとても勉強になったそうです。

小澤征爾エピソードその8

小澤征爾「音楽塾」・・サイトウ・キネン・オーケストラを始めた頃から、師・齋藤秀雄の遺志を継ぐかのように若き音楽家のための教育に力を入れるようになって来ました。凄まじいスケジュールを上手く合わせて、夏休みにレッスンを付けられるように時間を捻出して、若き才能を伸ばす仕事を多く入れるようになりました。「音楽塾」もそのひとつです。「音楽塾」ではオーケストラでオペラを上演する事を目標に活動しています。

まとめ

小澤征爾の今までの歴史、その凄さをみてきました。良いことばかりではありませんでしたが、それをまたバネにして上を目指して突き進んできた人物でした。我らが小澤征爾はクラシック音楽界の最高峰を極めました。今は病気と闘っていますが、お元気になられて、颯爽とオーケストラを指揮する姿を今後も拝見したいと思っています。

音楽に掛ける情熱は今もなお失われていません。流石は小澤征爾です。これだけの指揮者が今後日本で現れるかどうか、とても心配なところです。長生きして頂いて、我々に素晴らしい音楽をいつまでも聴かせて貰いたいものです。

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