みなさん、女性作曲家と聞いてどれだけ名前を挙げられますか?意外と難しいですよね。しかし、音楽史の中で男性に劣らない才能を見せた女性作曲家はみなさんが思っているより結構多く存在しています。例えばWikipediaで「女性作曲家一覧」を見るとずらっと名前が出てきます。
最初は紀元前の女性の名前が出てきてびっくりします。そこまで遡ると本当に作曲までしたのか怪しいものですが、バロック期以降の楽譜や資料が残っている女性作曲家が多いのにもまた驚かされます。女性差別がある中でも活躍していた女性作曲家は意外と多いのです。
残念ながら現代でも演奏される作品を残している女性作曲家となると本当に限られてきます。しかし、作品の演奏頻度が少ない女性作曲家であっても、クラシックファンならば知識として名前だけでも知っていて欲しい歴代の女性作曲家を10人選び、誕生日順に紹介していきたいと思います。
取り上げる女性作曲家の基準
- 現在でも演奏される作品を残している
- 音楽史の中で音楽的才能を有していたと評価されている
マリア・パラディス
(1759年5月15日~1824年2月1日)
・オーストリア
略歴
パラディスの父ヨーゼフ・パラディスは皇后マリア・テレジアの宮廷顧問官という要職に在り、由緒正しい家柄に生まれましたが、幼少時(2歳から5歳の間)に視力を失いました。盲目となった彼女でしたが音楽への思いは強く、当時の最高の音楽関係者たちに教えを受けます。
彼女はピアニストや歌手としても活躍。モーツァルトの『ピアノ協奏曲第18番』は彼女のために作曲されたといわれています。ウィーンのみならず、パリやロンドンなどのヨーロッパ・ツアーを行うほどピアノの腕は相当なものでした。人々は盲目の乙女の見事な演奏に喝采を送ります。
ヨーロッパ・ツアー中から演奏家だけでなく作曲家としての活動も積極的に行うようになり、生涯、5つの歌劇や3つのカンタータ、そして複数の器楽曲や歌曲などを作曲します。1808年にはウィーンに自分で音楽学校を作り、晩年まで音楽教育に力を注ぎました。
代表作
・『シチリアーノ』(サミュエル・ドゥシュキンの偽作との説もあり)
・他の歌劇やカンタータなどはほとんど消失
ファニー・メンデルスゾーン
(1805年11月14日~1847年5月14日)
・ドイツ
略歴
『結婚行進曲』で有名なフェリックス・メンデルスゾーンの5つ上の実姉です。メンデルスゾーン家は銀行業を行うなど裕福な上流家庭でした。恵まれた環境の中で育った2人の姉弟はとても仲が良く、そして日常の生活にはいつも音楽が溢れていたようです。
弟のフェリックスと同様、彼女も音楽的才能に恵まれます。しかし、彼女は父親や弟からの反対もあり、音楽家を職業とする事を諦めました。そのような事もあり、彼女はアマチュアとしてピアニストデビューし、またその合間に作曲も手掛けるようになっていきます。
彼女は画家と結婚しますが、夫の励ましもあり、結婚後も作曲に力を入れました。41年間の短い生涯でしたが、生涯で600曲近い作品を遺したと推定されており、その大半が歌曲となっています。彼女の幾つかの作品は弟の名の元に出版されたという事もわかっています。
代表作
【室内楽曲】
・ピアノ四重奏曲
・ピアノ三重奏曲
【ピアノ曲】
・ピアノ・ソナタ ハ短調
・ピアノ・ソナタ ト短調
・「一年」Das Jahr(12曲)
ルイーズ・ベルタン
(1805年1月15日~1877年4月26日)
・フランス
略歴
父は政界にも影響力を持っていた『デバ』紙の編集長であり、いわゆる上流家庭で育ちました。しかし、彼女にはハンデキャップがあり、杖なしでは行動ができなかったようです。最初は絵画の道を選びましたが、音楽に興味を持ち始め、音楽教育を受けるようになります。
師はベルリオーズやフランクを教えた人物でした。当時の慣習からすれば女性が作曲の道に進むなど難しい事でしたが、家族は反対に手助けてくれたようです。彼女に元々備わっていた才能が師によって開花し、次第に作曲家として名を知られるようになりました。
代表作
【歌劇】
・ファウスト
・ラ・エスメラルダ
・ノートル=ダム・ド・パリ
クララ・シューマン
(1819年9月13日~1896年5月20日)
・ドイツ
略歴
ピアニストであった父から幼少時よりピアノの手ほどきを受け、12歳でプロとしてデビュー。ヨーローッパ各地で演奏活動を行い、絶賛を受けます。1838年、当時のオーストリア皇帝フェルディナント1世は、18歳の彼女を「天才少女」と呼び、また詩人ゲーテも彼女にメダルを送りました。
彼女の演奏を聴いたショパン、リストは彼女の演奏を称賛しています。彼女は作曲も手掛け始めますが、当時の女性差別の風潮には逆らえず、ピアニスト業の傍ら、細々と作曲を続けるしかありませんでした。作曲家としての才能も素晴らしいものを持っていたので残念な事です。
後に作曲家のシューマンと結婚し、8人もの子供を授かります。しかし、夫シューマンが精神疾患を患い自殺未遂後の看病や亡くなった後も生活のためピアニストとして各地を巡り、大変な苦労を経験しました。作曲に専念出来ていたなら現在にも作曲家として名を残したに違いありません。
代表作
【器楽曲】
・ピアノのための四つのポロネーズ
・ピアノのためのロマン的ワルツ集
・ピアノのためのスケルツォ
・ピアノのための3つのロマンス
【歌曲】
・ピアノ伴奏による6つの歌曲
・ヘルマン・ロレット「ユクンデ」から6つの歌曲
・エマニュエル・ガイベルの詩による3つの混声合唱曲
テクラ・バダジェフスカ
(1834年/1838年?~1861年9月29日)
・ポーランド
略歴
バダジェフスカの生年については1834年と1838年説の2つありますが、はっきりとしません。警察官の家庭に育ち、おそらくピアノは母から教わっただけで、本格的な音楽教育を受けていないものとする説が有力です。サロンでのピアノ演奏家として活躍し、作曲も行っていました。
1856年に発表した『乙女の祈り』がパリの音楽ニュース雑誌に掲載され、その名が広く知られるようになりました。この曲の楽譜は世界中で100万部以上売れたといいます。技巧的にそう難易度が高いわけではなく、ピアノを少しかじった人でも弾きこなせる事がヒットした要因です。
その後彼女は公務員のJ・バラノフスキと結婚し、3人の娘をもうけ、姉の子2人を引き取り5人の子供を育てました。『乙女の祈り』を含め小品を35曲ほど作曲しましたが、1861年に夭折。彼女の楽譜や資料は第2次世界大戦で失われ、現在ではこの曲しか残っていません。
代表作
・乙女の祈り
セシル・シャミナード
(1857年8月8日~1944年4月13日)
・フランス
略歴
彼女は「初めて経済的に自立した女性作曲家」と呼ばれ、過去に存在した「作曲を手がける女性たち」とは明らかに一線を画している存在です。裕福な家庭に生まれ、ピアノを母親から教わります。幼少時から作曲を試みるような音楽的才能に恵まれた女性でした。
当時は女性差別が激しい時代でしたので、パリ音楽院の入学は認められず、パリ音楽院の先生からピアノと作曲法の個人教授を受けました。18歳で作曲家として初めての演奏会を開き徐々に作曲家として認知されるようになり、1879年に国民音楽協会の正会員に迎え入れられました。
ピアノ協奏曲やバレエ音楽なども作曲しましたが、後半はピアノ曲や歌曲が多くなってきます。イギリスやアメリカでの演奏旅行も成功し、作曲家として確固たる地位を確立。1913年に女性作曲家として初めてレジオン・ドヌール勲章を授与されるなど女性の地位向上にも貢献しました。
代表作
【管弦楽曲】
・フルートと管弦楽のためのコンチェルティーノ
(一般的にはピアノ伴奏版が有名)
【室内楽曲】
・ピアノ三重奏曲 第1番
・ピアノ三重奏曲 第2番
【ピアノ曲】
・ピアノ・ソナタ ハ短調
・スカーフの踊り
(バレエ『カリロエー』からの抜粋・編曲)
・アラベスク
【歌曲】
・愛のロンド
・ミニョンヌなど多数
エイミー・ビーチ
(1867年9月5日~1944年12月27日)
・アメリカ
略歴
実業家の家に生まれ、1歳の時に母親が歌う歌を覚え間違いなく歌ったりと幼少時から音楽的才能を発揮していました。6歳からピアニスト兼歌手だった母にピアノを習い始めるとその才能は益々開花。1883年にピアニストとして正式にデビューし、協奏曲をボストン交響楽団と協演。
1885年に外科医ヘンリー・ビーチ博士と結婚します。夫のビーチは、彼女の才能がピアニストよりも作曲にあることを見抜き、作曲家として活動していくための援助を惜しみませんでした。1910年不幸にも夫を亡くた彼女はピアニストとしてヨーロッパに渡ります。
ドイツを拠点に演奏活動を行っていた彼女はベルリン・フィルとも協演、自作がベルリン・フィルによって演奏された、最初のアメリカ人作曲家にして最初の女性作曲家となりました。作曲は女性には無理という当時の女性差別を打ち破った人物でもありその点でも評価されるべき女性です。
代表作
【交響曲】
・交響曲「ゲール風」
【協奏曲】
・ピアノ協奏曲
【器楽曲】
・バラード(ピアノ)
・4つのスケッチ(ピアノ)
・ロマンス(ヴァイオリン)
アルマ・マーラー
(1879年8月31日~1964年12月11日)
・オーストリア
略歴
作曲家としてよりもグスタフ・マーラーの奥様だった事の方が有名な方です。しかし、アルマは音楽的才能を持っていた人物でした。父は画家、母が声楽家という芸術を愛する家に生まれ、作曲だけに専念していれば大作曲家になれたでしょう。
彼女は少女の頃から絵画、文学、哲学、作曲に才能を発揮しました。父の勧めもあり、作曲家ツェムリンスキーの弟子になり作曲法を教わるようになります。元々、才能があった彼女はめきめきと才能を伸ばし、歌曲を次々と作曲しました。
マーラーと結婚し専業主婦となりますが、マーラーの楽譜の清書などは手伝っていたようです。結婚後は夫の意向もあり作曲を止めました。マーラー亡き後、再婚しましたがその夫も早くに亡くし、晩年はアメリカの社交界で華やか過ごしたそうです。
代表作
【歌曲】
・静かな街
・夜に光を
・賛歌
・静かに落ちる最初の花
・私の夜を知っていますか
ジェルメーヌ・タイユフェール
(1892年4月19日~1983年11月7日)
・フランス
略歴
いわゆる「フランス6人組」(20世紀前半フランスで活躍した作曲家の集団)の紅一点メンバー。母からピアノを教わり、パリ音楽院に入学。音楽院では優秀な成績を収め、卒業後は個人的にシャルル・ケクランとラヴェルの指導を受けています。
ラヴェルは彼女の才能を高く評価していました。作風はサティなどの影響を受けた快活で爽やかな作品が多く、ジャン・コクトーから「耳のマリー・ローランサン」と呼ばれるようになります。チャップリンやピカソとも交流がありました。
彼女の作品は劇音楽、バレエ音楽、映画音楽、管弦楽曲、協奏曲、合唱曲、オペラ、室内楽、ピアノ曲など様々なジャンルに及んでいます。晩年は音楽教師としても活動し、作曲は91歳で亡くなる間際まで行っていました。
代表作
【歌曲】
・小船が一艘ありました
【室内楽】
・弦楽四重奏曲
・ハープ・ソナタ
・クラリネットのためのソナタ
リリ・ブーランジェ
(1893年8月21日~1918年3月15日)
・フランス
略歴
ブーランジェ一族は音楽家の家系であり、父はローマ大賞を受賞した作曲家でパリ音楽院で教鞭を取ってました。母はその門下生であったそうです。2人の間に誕生したのが姉ナディア(音楽教育者として活躍)、そして妹リリです。2人共音楽的才能に恵まれていました。
リリは2歳から神童ぶりを発揮し、家族によって英才教育を受けました。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ハープを得意とし、また、語学にも優れていました。パリ音楽院でフォーレに師事し、彼女の父が亡くなった後もフォーレは姉妹の親代わりとなったそうです。
1913年、『ファウストとヘレネ』でローマ大賞を受賞。女性として初の受賞でした。彼女の作品は、色彩的な和声や歌曲は高い評価があります。しかし、彼女はクローン病という内臓疾患に侵されて、24歳という若さで亡くなったのでした。
代表作
【管弦楽曲】
・交響詩「哀しみの夜に」
【室内楽】
・春の朝に
・夜想曲 ヘ長調
・行列
・暗い庭から
【宗教曲】
・ファウストとエレーヌ
・詩篇 第24番
取り上げた歴代女性作曲家10人
・ファニー・メンデルスゾーン
・ルイーズ・ベルタン
・クララ・シューマン
・テクラ・バダジェフスカ
・セシル・シャミナード
・エイミー・ビーチ
・アルマ・マーラー
・ジェルメーヌ・タイユフェール
・リリ・ブーランジェ
まとめ
歴代の女性作曲家を10人紹介してきました。「女性が作曲なんてとんでもない」という時代の風潮に逆らい、自分のやりたい事を成し遂げて来た10人にまずは称賛の拍手を捧げたいです。彼女たちの作品は今でも生き続けています。