美しい星空と山

チャイコフスキーの多くの肖像画は彼が厳しい人物であるかのように「いかめしい」ものがほとんどです。この肖像画からはチャイコフスキーはとても厳格な音楽を作った人物のイメージが伝わってきます。

しかし、チャイコフスキーが好きな方の大方の評価はとても叙情的で流麗な音楽を作る作曲家として認識されているはずです。メルヘン的な曲想やロマンティックな感じが現代のチャイコフスキーファンの心を掴んでいます。

チャイコフスキーは多岐のジャンルの音楽を作曲していますが、結果的に交響曲とバレエ音楽によって世界的な作曲家となりました。そんなチャイコフスキーの作品を俯瞰的に見られるように取り上げ、彼の理解に繋がるようにしたいと思います。

チャイコフスキーはバレエ音楽を変えた作曲家でもありました。
3大バレエとはチャイコフスキーの3曲だからね。バレエに限らず多くのジャンルで名曲を残しているのも素晴らしいよ。

交響曲第4番

チャイコフスキーの後期3大交響曲のひとつ。1877年から1878年作曲。チャイコフスキーの交響曲の中でもロシアの雰囲気が満載の傑作です。

交響曲第4番について

1876年にチャイコフスキーは大富豪の未亡人フォン・メック夫人から資金援助を受ける事になり、金銭的な心配をせず作曲に専念できるようになっていました。この関係は1890年までの14年間続いたのです。

金銭的な事を気にせず作曲だけに打ち込める環境を得たチャイコフスキーは1877年に突然の結婚に踏み切ります。一方的に手紙で告白されたアントニナ・イワノヴナの積極的な求婚に逆らえず結婚したのでした。

お互いの事もよく知らないうちに結婚してしまったチャイコフスキーは結婚からわずか20日で彼女の元から逃げ出す事になります。そう、チャイコフスキーは2人が暮らしていたモスクワから逃げ出したのです。

再びモスクワに戻ったチャイコフスキーは彼女との関係を精算しようと自殺未遂まで起こしてしまいます。そして2度と彼女とは合う事はありませんでした。

そんな事件があった1877年に『交響曲第4番』は作曲されました。1878年に完成を見た同交響曲はフォン・メック夫人に献呈されています。

精神的に大きな衝撃を受けた年の作品という事が影響しているのかどうか分かりませんが、冒頭のファンファーレは「われわれが幸福に向かおうとしてもその実現を阻む、運命の力」を描いたものとチャイコフスキーはフォン・メック夫人に手紙を認めています。

「かくして人生は、幸福のはかない夢や幻影と、苛酷な現実との果てしない交代なのである。」救いようのない諦観が漂います。終楽章でそれらの憂いを追い払い、見事なフィナーレに繋がっていくのです。

交響曲第4番おすすめ名盤

ムラヴィンスキー/レニングラード・フィル(1960)

この交響曲の決定版と言ってもいいでしょう。昔から名盤とされてきた1枚です。こんなに凄い演奏がなされた事自体が奇跡的とも言えます。ムラヴィンスキーの統率のもと、レニングラード・フィルが一糸乱れぬ演奏を繰り広げる様は衝撃的とも言えるものです。

交響曲第5番

チャイコフスキーの後期3大交響曲のひとつ。1888年作曲。前作の『交響曲第4番』から10年後の作品であり、その円熟ぶりが聴きどころです。

交響曲第5番について

『交響曲第4番』から『交響曲第5番』までの10年間はチャイコフスキーにとって様々な事がありました。

不毛の結婚をしてからチャイコフスキーはモスクワ音楽院の教職を辞め、ヨーロッパ各地を転々とする日々を過ごすようになります。結婚相手のアントニナ・イワノヴナから逃げ回る事を選択したのです。

アントニナ・イワノヴナは中々離婚に応じてくれませんでした。自殺未遂まで起こしたチャイコフスキーですから、全く話を受け入れてくれないアントニナ・イワノヴナに会うのが精神的に辛くて、旅がらすの人生を送るようになったのです。

お金に関してはフォン・メック夫人からの相当な援助が毎年入るわけで、その点では恵まれた創作活動を送れました。

この10年間、チャイコフスキーの創作活動は低迷していたわけではなく、『弦楽セレナーデ』(1880年)、序曲『1812年』(1880年)、ピアノ三重奏曲『偉大な芸術家の思い出に』(1882年)などを作曲しています。

1881年にようやく離婚が成立、その後各地を転々とする生活に終止符を打つようになりました。しかし、彼女の問題は1886年まで引きずり、最終的にチャイコフスキーはそれ相応の金銭を渡す事で離婚問題に全て決着を付けます。

10年間に渡ったアントニナ・イワノヴナの問題はこれで本当の解決を見ました。旅がらすの10年間はチャイコフスキーにすれば気の休まる事のない10年間であり、肉体的にも精神的にも辛い日々だった事でしょう。

この大きな問題を解決したチャイコフスキーは再び大作に挑みます。それがまず『交響曲第5番』でした。

この交響曲はチャイコフスキーのそれまでの交響曲と違い、コテコテのロシア音楽ではなく、洗練された美しさを持つよりグローバル化された交響曲となりました。前作からの10年で交響曲の深化が彼の中で起こったものと理解できます。

交響曲第5番おすすめ名盤

カラヤン/ベルリン・フィル(1971)

後期交響曲集として第4、5、6番を1971年にEMIに録音したものは当時センセーショナルな評判を取りました。現在ではワーナーから分売されています。

カラヤンのチャイコフスキーのひとつの完成点かと思えます。この時期のカラヤン/BPOの録音は両者の関係が全盛期であり、コンサートマスターのシュヴァルベ始め木管の世界的ソロが集まっていた時期でした。

交響曲第6番

チャイコフスキーの交響曲の後期3大交響曲のひとつ。1893年作曲。チャイコフスキー最後の交響曲であり、同時代を代表する傑作となっています。「悲愴」という副題付きです。

交響曲第6番について

悩まされた離婚問題が解決してからは、チャイコフスキーは傑作を多く残しました。前作の『交響曲第5番』以降、『眠りの森の美女』(1888年)、『くるみ割り人形』(1891年)と続き、1893年に『交響曲第6番』が作曲されます。

『交響曲第6番』はチャイコフスキーの傑作というより、多くの交響曲の中でも一際優れた作品です。チャイコフスキーは大衆性と芸術性が程よく融合しており、だからこそ、人気が出た作曲家ですが、特のこの作品はその点が優れていると思います。

『交響曲第5番』と同じようにロシア音楽というよりはグローバルな音楽となっていますので、より分かりやすい音楽として受け入れやすくなっているのでしょう。

「悲愴」というタイトルが示すように、深い悲しみに満ちた音楽です。第1楽章の美しい調べと破滅的な音楽や第4楽章の深く悲しく沈む感情は救いようがありません。荒れ狂うところは激しく、沈むところは異常に悲しくなっています。

チャイコフスキー最晩年の交響曲ですが、年齢的にはまだ53歳というこれからまだまだ活躍できる年齢でした。

交響曲第6番おすすめ名盤

カラヤン/ベルリン・フィル(1971年)

ここでも1971年のカラヤンの録音を取ります。ウィーン・フィルと最後に録音したものも捨てがたいですが、完成度からしたらこちらの録音が素晴らしい。カラヤン/ベルリン・フィルの追い求めたチャイコフスキーの究極系かと思います。

バレエ音楽『白鳥の湖』

チャイコフスキーが作曲した最初のバレエ音楽。一時忘れられたが、チャイコフスキー没後に復活・蘇演され、現在では「3大バレエ」のひとつとされています。

白鳥の湖について

1875年、チャイコフスキーはボリショイ劇場からバレエ音楽の依頼を受けます。当時のバレエ音楽は芸術的価値が低いものとされ、名のある作曲家はその分野には手を染めませんでした。

チャイコフスキーは金銭的な事もさておき、バレエ音楽に興味を持っていたため、この依頼を受ける事にし、『白鳥の湖』が誕生するわけです。

このバレエの創作過程に関しての詳細は殆どわかっていませんが、チャイコフスキーは1875年から1876年に掛けて作曲を行いました。

初演は1877年3月4日、ボリショイ劇場で行われましたが、華々しい結果は残せなかったようです。チャイコフスキーの音楽が当時のバレエ音楽とは違っていたため理解されなかったと言われていますが、この点についても資料が残っておらず、憶測に過ぎません。

現代の耳で聞くとチャイコフスキーのバレエ音楽は魅力的な音楽が散りばめられていると思うのですが、当時の評価は違っていたようです。

1883年1月にはボリショイ劇場のレパートリーからも外されてしまい、『白鳥の湖』は一時忘れ去られてしまいます。

『白鳥の湖』が蘇ったのは、チャイコフスキーが没した2年後の1895年1月のマリインスキー劇場。蘇演にあたっては、台本から振り付け、音楽に至るまで多くが改訂されました。この時の改訂版を振り付けを担当した二人の名をとって「プティパ=イワノフ版」と呼びます。

大掛かりの改訂により、4幕から3幕のバレエになり、チャイコフスキーの音楽も4分の1ほど削除されはしましたが、バレエとしての見せ場がバランスが取れ、それ以降、『白鳥の湖』は人気のレパートリーとなっていきました。

蘇演後も「プティパ=イワノフ版」を基本としつつ、様々な演出により上演されて続けています。

白鳥の湖おすすめ名盤

ゲルギエフ/マリインスキー劇場管(2006)

マリインスキー劇場版の全曲盤です。美しい演奏に誰もが魅了されるでしょう。多少早めのテンポで進んでいきますが、これも気にはなりません。ゲルギエフの手兵と成し得た称賛すべき録音だと思います。

バレエ音楽『眠れる森の美女』

チャイコフスキーのバレエ音楽第2弾です。1888年から1889年に作曲。『白鳥の湖』『くるみ割り人形』と並び、3大バレエと呼ばれます。

眠れる森の美女について

1888年、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場からチャイコフスキーにバレエ音楽の依頼がありました。シャルル・ペローの『眠れる森の美女』を台本にしたバレエ音楽の創作を依頼されたのです。

バレエ台本を見たチャイコフスキーは感激し、この台本に相応しい素晴らしい音楽を作る事を約束したのです。

バレエの振付はマリインスキー劇場の首席バレエマスター、マリウス・プティパが担当しました。この事からマリインスキー劇場の初演版は「プティパ版」と呼ばれるようになります。

プティパはチャイコフスキーとも入念な打ち合わせを行い、踊る上で必要な音楽のイメージであるとか、拍子などの音楽に対しての注文を指示し、チャイコフスキーはそれに応じて随時変更を加えたりしました。

こうして完成したバレエ『眠れる森の美女』は1890年1月15日に初演を迎えます。初演時の上演時間は何と4時間半という長丁場の舞台になりました。

初演の評価は専門家の間では不評でしたが、聴衆の人気は高く、日を重ねるに連れチケットは完売するまでの人気を博します。それ以降、マリインスキー劇場の重要なレパートリーとして取り入れられたのです。

その後、このバレエはマリインスキー劇場以外でも上演されるようになり、様々な改訂が行われながら、ロシアを代表とするバレエとなっていきます。

眠れる森の美女おすすめ名盤

プレヴィン/ロンドン交響楽団(1974)

プレヴィンの安定した演奏ぶりが魅力になっている1枚です。堅実、丁寧な音楽作りが感じられ、この時期の指揮者とオーケストラの良質な関係がよく伝わってきます。

バレエ音楽『くるみ割り人形』

チャイコフスキーが手掛けた最後のバレエ音楽。『白鳥の湖』『眠れる森の美女』と共に3大バレエと呼ばれます。

くるみ割り人形について

チャイコフスキー2作目のバレエ『眠れる森の美女』が成功を収めた事から、マリインスキー劇場から次の新作バレエを依頼されます。マリインスキー劇場からはオペラとバレエの2本上演というチャイコフスキーにとっては願ってもない依頼でした。

オペラの演目は『イオランタ』と決定し、バレエはE.T.A.ホフマンの童話 『くるみ割り人形とねずみの王様』から題材をとったものとする事が決まります。台本は振付師のプティパが担当、タイトルも『くるみ割り人形』と決まりました。

チャイコフスキーはプティパと綿密に打ち合わせを行い、1891年2月から作曲を開始しましたが、なかなか捗らず、作曲の完成には1年以上掛かり、1892年3月にようやく形となります。

振付予定だったプティパが病気となり、代わりに部下のイワノフに変更されるなど、初演までには様々な困難に見舞われました。

初演は1892年12月18日、マリインスキー劇場にて行われ、オペラ『イオランタ』に続いてバレエ『くるみ割り人形』が上演されたのです。

初演の新聞評は不評でしたが、これは台本の不備から主役の見せ場が少なかったり、物語の終わり方がはっきりしないという事によるものでした。決してチャイコフスキーの音楽が否定されたわけではなかったのです。

台本の不備を補完するため、後年の各地の劇場では改訂演出が行われ、より分かりやすい上演を目指した様々な取り組み方が実践されています。

『くるみ割り人形』はクリスマスには各国の主要な劇場で上演される、現在でも人気の高いバレエです。

くるみ割り人形おすすめ名盤

ラトル/ベルリン・フィル(2009,2010)

ラトルは第2幕を2009年のジルベスターコンサートで取り上げ、この演奏が大変話題となりました。このため、第1幕を新たに録音し、このアルバムにしたのです。ラトルの執念がもたらした全曲盤。ぜひ一度耳を傾けて欲しい1枚です。

ピアノ協奏曲第1番

数多あるピアノ協奏曲の中でも名曲として名高い作品です。34歳のチャイコフスキーの出世作ともなりました。

ピアノ協奏曲第1番について

チャイコフスキーは自身が教鞭を取っていたモスクワ音楽院の院長であり、友人でも合ったピアニストのニコライ・ルビンシテインにピアノ協奏曲を献呈したいと考えます。

そして草稿を書き終えた時点でルビンシテインに聴かせたところ、チャイコフスキーには思ってもみない返事が帰ってきました。

「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、貧弱な作品で演奏不可能であるので、私の意見に従って根本的に書き直すのが望ましい」

しかし、チャイコフスキーは作曲を止めませんでした。自作に自信があったためです。そして、この作品を完成させると、ピアニストで指揮者のハンス・フォン・ビューローに献呈しました。

ビューローはソリストとしてアメリカのボストン交響楽団で初演を行い、大成功を収めたのです。

その後、ルビンシテインもこの作品の価値を認め、このピアノ協奏曲の普及に努めたのでした。ルビンシテインとチャイコフスキーは和解したのです。

ピアノ協奏曲第1番おすすめ名盤

アルゲリッチ(p)、コンドラシン/バイエルン放送響(1980)

まだアルゲリッチが30代の頃のライヴ録音。火を吹くようなピアノが印象的です。流石はアルゲリッチ、若い頃の迫力は凄いものがありました。これで音楽が壊れないのですから大したものです。

ヴァイオリン協奏曲

チャイコフスキーはヴァイオリン協奏曲においても名曲を残しました。1878年作曲のこの作品はベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスそしてチャイコフスキーの作品と合わせて4大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれます。

ヴァイオリン協奏曲について

チャイコフスキーは『ピアノ協奏曲第1番』に続いて『ヴァイオリン協奏曲』においても演奏不可能というレッテルを貼られています。

この作品はわずかひと月という短時間で書き上げられましたが、チャイコフスキーは相当の自信があったと見えて、ペテルブルク音楽院教授レオポルト・アウアーに初演をお願いすべく楽譜を送りました。

その返事が「この作品は演奏不可能であり、よって初演も無理」というショッキングな内容だったのです。

ここでもチャイコフスキーは諦めませんでした。ロシア人ヴァイオリニストのアドルフ・ブロツキーの独奏、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、1881年12月4日に初演にこぎつけたのです。

しかし、指揮者のリヒターとオーケストラは全く協力的でなかったようで、初演は酷評の嵐でした。難しい協奏曲にもかかわらず、そんな状況の下での初演でしたから、演奏自体がボロボロだった事は容易に想像が付きます。

演奏が酷かったのですから批判されるのは当然でした。そんな中でも初演ヴァイオリニストのブロツキーはこの作品の素晴らしさを理解して、その後幾度もこの作品を取り上げ演奏したのです。

その甲斐があり、次第に『ヴァイオリン協奏曲』の価値が世間に理解されるようになっていきました。最初に演奏不可能としたアウアーもこの作品の真価を認め、演奏するようになります。

こうしてこの作品はヴァイオリン協奏曲の中でも優れた内容を持つものと認められ、現在まで高い人気を誇っているのです。

ヴァイオリン協奏曲おすすめ名盤

チョン・キョンファ(Vn)、プレヴィン/ロンドン交響楽団(1970)

チョン・キョンファのデビューアルバムです。端正でありながら、切れ味の良さもある演奏であり、彼女のヴァイオリンに魅せられてしまった時期がありました。凄い才能あふれるヴァイオリニストが出てきたものと驚いたものです。

弦楽セレナーデ

1880年に作曲された弦楽オーケストラのためのセレナードです。モーツァルトへの尊敬を音楽で表現したとチャイコフスキーは語っています。

弦楽セレナーデについて

この作品は何と言っても、冒頭の音楽が一度聞いたら忘れられないほど魅力的です。弦の全奏によるロシア的な音楽。憂いを含んだこのメロディはとても印象的で、この作品の人気の一要素となっています。

敬愛するモーツァルトの精神に立ち返るために作曲しました。フォン・メック夫人への手紙にそう書いています。

初演は1881年10月30日にサンクトペテルブルクで、エドゥアルド・ナープラヴニークが指揮するロシア音楽協会のオーケストラで行われました。初演は大成功だったようです。

チャイコフスキーの『弦楽セレナーデ』は4つの楽章から構成されています。

第1楽章:「ソナチネ形式の小品」
第2楽章:「ワルツ」
第3楽章:「エレジー」
第4楽章:「ロシアの主題によるフィナーレ」

チャイコフスキー40歳の爽やかな傑作です。

弦楽セレナーデおすすめ名盤

カラヤン/ベルリン・フィル(1980)

カラヤンの美意識が詰まった演奏です。ベルリン・フィルの分厚い弦の音が素晴らしい!豪華絢爛な演奏で文句のつけようがありません。カラヤン好きには堪らない1枚です。

弦楽四重奏曲第1番

チャイコフスキーは数的には少ないものの室内楽でも名曲を作曲しています。その中から今回は『弦楽四重奏曲第1番』(1871年作曲)を紹介しましょう。第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」が有名な弦楽四重奏曲です。

弦楽四重奏曲第1番について

チャイコフスキーの初期の作品です。チャイコフスキーの室内楽作品はとても少なく、弦楽四重奏曲は3曲、ピアノ三重奏曲、弦楽六重奏曲のみであり、中でも『弦楽四重奏曲第1番』、『ピアノ三重奏曲』の2曲が演奏機会が多い作品かと思います。

チャイコフスキーといえば交響曲とバレエ音楽の作曲家として有名ですが、『弦楽四重奏曲第1番』も中々の名曲です。3曲ある弦楽四重奏曲の中ではほとんど第1番しか演奏会で聞く機会はないでしょう。

とりわけ第2楽章は「アンダンテ・カンタービレ」として有名なメロディで、この部分だけを編曲した音楽もかなり出回っています。

ロシア文学の巨匠、トルストイは演奏会で「アンダンテ・カンタービレ」を聴いた時に感動して涙を流したと言われています。

第2楽章以外にも美しいメロディが多く、非常にロシア的な雰囲気がある一方、情熱的な音楽が魅力的な作品です。

弦楽四重奏曲第1番おすすめ名盤

ボロディン弦楽四重奏団(1993)

ボロディン弦楽四重奏団のチャイコフスキー弦楽四重奏曲全集です。第1番から第3番まで聴く事ができるお得なCD。第1番は実に叙情的な感銘深い演奏となっています。1994年にグラモフォン賞を受賞した名盤です。

まとめ

チャイコフスキーは交響曲作曲家としても有名ですが、バレエ音楽作曲家としても金字塔を打ち立てました。3大バレエといえばチャイコフスキーの3曲が占めるほどです。クラシック・バレエの音楽を変えた作曲家でした。

協奏曲の分野でもピアノ、ヴァイオリンと名曲を残しています。管弦楽曲の世界でも多くの方が知っているような名曲を残しました。

そして、室内楽の世界でもその才能が発揮されています。こう考えていくとオールマイティな作曲家だったわけですが、メロディ・メーカーとして特異な才能を持っていたため、各分野で名曲を残す事ができたのです。

多くの作品にロシア的な要素が残っている作曲家ですが、単に民族音楽を取り入れただけでなく、それを普遍的な音楽にまで高めた事が今でも人気作曲家として存在できている理由でしょう。

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